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銭湯の初めはこんな感じ!江戸後期の古文書、山東京伝の『骨董集』上巻を訳してみた~第2回(全4回)

前回の第1回目は、竹馬の今昔、蝙蝠羽織など、挿絵によってわかりやすく説明されているものがわりと多めでした。今回は、吉原遊郭にまつわる話や豆腐に関すること、さらにイチオシの風呂に関する複数の面白い話と、興味深い内容が連続して登場します。想像をフル回転して、楽しく読んでいただきたいと思います。(これは考証随筆で、全文が訳したものです)

1.旧吉原の雨中のさま

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万治二年印本『私可多咄(杏花園蔵本)』
にこうある。

「昔々、江戸の遊女は葭原よしわらという
所に住むなり。(中略)
このところの遊女は、
雨降る時があれば道が悪いと、
ろくろ縄などを帯につけた
下男の背中に背負われて行き交う有様で、
大変面白いので見物してみようと、
素早く宿の門に入り、誰がくるかしらと
想像しながら待っていた。

つつ井筒井づつにかけしろくろ縄 
負にけらしな身も見ざるまに

そのあと、道中肩車でやってきて、
近々全盛期を迎えるのはこの子かなと
思っているうちに、遊女は去っていった。

くらべこしふりわけがみの肩ぐまは
君ならずしてたれかあぐべき」

と詠んだという。

『異本洞房語園(享保五年の記)』には
このように書かれている。

「元和年中元吉原の頃、雨の降る時は
遊女たちは揚屋へ通うのに下男たちに
背負われて行った。
その様子は下男は縄を使って帯とし、
両手を後ろに組み合い、
遊女は長い小袖で足を包み、裳裾を長く垂れて  

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両膝を下男の手の上に乗せて肘をはり、
衣紋をきれいに整えて、後ろから長柄の傘を
差し掛けさせた姿で、とても優雅に見えた」と。
その古図を写して後に現した。

貞享元年板『二代男(詞花堂蔵本)』一之巻に
吉原の薄雲が揚屋入りした様子を描いた
くだりがある。

「紫がかった夜明けごろ、薄雲様のお迎えで
紋付の傘を下男が差し掛け、
肩で風を切って散らす装いは、
さながら”玉雨枝なき白梅落”と詩人などが
詠むべきようなものである。

下男の背中にお乗りになる様子は、
如来風情に満ちていらっしゃり、
そのお姿から光が発せられているようだ」

吉原は今の地に移ってのちも、
背負われて揚屋入りすることはあるのだろうか。

ちなみに、元亀※の頃は高禄の武士の妻女でも
乗り物に乗ることはなく、
嫁入りの時も麻のかづき※を着て、
負木おいきというものに尻をかけて、
後ろ向きに背負われて行ったという
古老の説があり、
当時の質素な遊びなども残っているらしい。

元吉原が今の地に移ったのは、明暦三年である。
『私可多咄』は万治二年の板で、
元吉原から移転後わずか二年のものなので、
証拠としては申し分ない。

   ※元亀=室町末期
   ※かづき=身分ある女性が外出の際に、
        顔を隠すために頭からかぶった衣服

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前述の『私可多咄』という書物の中に
この絵があった。
これはかつて元和※年中、今の大門通に
吉原があった時の様子である。
今が文化十年なので、
およそ二百年近く昔のことになる。

振袖が短いのは、いわゆる六尺袖であり、
衣服のゆき※はとても短い。

下男はみな茶筅髪である。
昔の質素な身なりを見るべし。

先の『二代男』の中にもこうした図があるが、
同じ趣なので省略する。

   ※元和=江戸初期、慶長の後、寛永の前
   ※裄=着物の背の縫い目から袖口までの長さ

2.髭男

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『見聞軍抄(慶長十九年印本)』に
こう書かれてある。

「知り合いは昔、関東で髭男だったそうだ。
外見の良い風貌を髭男といって褒められるので、
侍たちはみな髭をはやし、その髭は
鐘馗髭しょうきひげといって万人に好まれた。

鬼髭左右へ分かれなどと
古記にあるのはこの髭のことである。
あご先の髭を天神髭というが、これは
武家にはさほど好まれなかった」

この言葉の端から、当時の姿が
思い描かれるようだ。
古画を見るに髭のない男子は珍しい。
昔は髭の少ない者は、
仮髭を付けたりもしたと聞く。
『西鶴大鑑』にも髭男のことが書かれてある。

3.魚を呼て斗々といふ

『饅頭屋節用集』には、
「和国の児女は魚のことを斗々と言う。
類説では、南朝人は食のことを頭とし、
魚のことを斗々とすなり」とある。

魚類を「とと」というのは古い言葉で、
泉の堺の魚屋に「斗々屋」という屋号が
あるのも、このいわれなのかもしれない。

「この節用集は林逸の作である。
『辨疑書目録』植字書目の部に
節用集真書本二冊文亀本とあり、
その後慶長二年の印本とある。
古きを知るべし。

『倭訓栞』に「とと」は児女の言葉で
魚のことをいい、芝峯類説には
南朝魚を呼びて斗々と為す、
とあるので韃靼語※と思われる」とある。

   ※韃靼語=タタール語

4.粉の看板

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おしろいのことは『和名抄』に
「粉 和名しろきもの」とある。

『長明四季物語』には、
「春が来たように思われて。
空の景色を呼んでみるには、
変化した薄い藍色の髪におしろいを
つけたように所々白く見える」とあるので、
おしろいというのも古い名称である。

さて、元禄の頃におしろいの看板に
白鷺しらさぎを描いたものがあった。
次に現わす図のようなものである。

思うに、これは白いもの、という謎解きだろう。
銭湯風呂屋に木で矢を作り出し目印として
弓射れというのを湯入れと読ませたような
謎解きの類であるが、
こちらはさらに優雅である。

<図>白粉師の看板の図 
   元禄三年板人倫訓蒙図
   このようなものだろう。

5.豆腐の紅葉

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『堺鑑(天和三年印本)』下之巻に
「紅葉豆腐のこと、何国にも豆腐は
あれども、特別当地のものが勝っている
と古人から言い伝えられる。

紅葉という名を付け加えると
堺の桜鯛にも劣らぬ味だからと、
こう言うのだそうだ。
花に対して紅葉の縁だろう。

また、ある人曰く、
この豆腐を人が買うようにと
祝ってつけた名前ともいう。
買う様と紅葉と音が同じだからということか。

今、豆腐の上に紅葉をつけた言葉となって
形作られたので、買用も使われてよい」

これが今豆腐に紅葉のついた言葉ができた、
堺の紅葉豆腐の始まりである。

紅葉を買う様に読み替えるというのは
可愛らしいが、
昔はこのような計らいが多かった。
いわゆる名詮みょうせん※というもので
語感が良いのを
めでたいこととして喜んだのである。

ちなみに、古老の説によると、
南天という木の正式名称は
南天燭なんてんしょくというらしい。
手水鉢の下に植え、食べ物の敷物にするのは、
解毒のためである。

鏡の下に敷いたり、裏に鋳付いつけ
などをするのは、南天を難転に読み替え、
難を転ずるという意味の
まじないといえるだろう。

   ※名詮=名詮自性の略。仏教用語で名が
       その物の性質を表すということ
   ※鋳付=鋳物に模様などを鋳造してつけること

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紅葉を買う様に言い換えるのも、この類である。
能の狂言にすずき包丁という
題目があるが、深草の土器に
なんてんじくの敷物をするという。

これも同様の意味だから、
能の狂言は古いものということがわかる。

6.ころばずという下踏

文禄から寛永の間の古画を見るに、
小さいひょうたんを火打ち袋、
もしくは印篭巾着の根付とし、
または、ひょうたんだけをつけた姿が
多く描かれている。

言い伝えでは、ひょうたんをつける
というのは、転ばないようにという
まじないなのである。

このことから思うには、
江戸の名物にころばずという下踏があり、
その下踏にひょうたんの形を刻印するのも、
元はと言えばまじないのためであって、
ころばずという言葉を身につける
意味があるのだと思われる。

これは自分の勝手な推測なのだが、
ふと思いついたまま書くことにした。

7.江戸銭湯風呂の始

寛永十八年印本『そぞろ物語(杏花園蔵本)』に
こう書かれてある。
「知り合いが言うには、昔、
江戸が繁昌するはじめの天正

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十九卯年の夏頃あたりに、
伊勢与市という者が銭瓶橋ぜにがめばし
ほとりに銭湯風呂を一軒立てた。
風呂銭は永楽一銭だった。

みな珍しいものだなあといって入ってみたが、
その頃は風呂というものに
不慣れな人がたくさんいたので、
「ああ、熱い湯のしずくで息が詰まって
話もできない」とか、「煙で目も開けられない」
などと言って、風呂の入り口に立ちふさがって
風呂を楽しんでいた。

今は町ごとに風呂があり、びた十五銭、
二十銭ほどで入れるようになった」
これで、江戸の銭湯の始まりが
古いことを知るべし。

8.風呂犢鼻褌

後に現す寛永正保の頃の銭湯風呂の
古図を見るに、犢鼻褌ふんどし
結んだままで風呂に入る姿が描かれている。

これは描き手による絵空事ではないかと
疑っていたのだが、実はそうではなく、
昔は民家でも身分の差に関わらず、
風呂に入るときは、絶対にふんどしを
外さなかったのである。

『一代男(天和二年板)』
『三代男(貞享三年板)』
などの中にも描かれた銭湯風呂の図を見るに、
みなふんどしを結んで
風呂に入る様子が描かれている。

『棠大門屋敷(宝永二年印本)』一之巻には
下帯をして風呂に入る記述があり、
『御前独狂言(宝永二年印本)』五之巻には
ある人が酒に酔って、風呂犢鼻褌を外して
風呂に入ったところ、あるまじき行為だとして
笑われたことが書かれてある。

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これは宝永※の頃まで風呂ふんどし
というものがあり、いつも着けている
ふんどしから結び替えて、
風呂に入ったという証である。

思うに、ふんどしを湯具というのも
こうした理由からだろう。
湯具というよりも女性の場合は
湯もじ※とも言い、湯巻※とも言う。
ふんどしの類ではなく、
位の高い方の湯殿に仕える者が
身につける物である。

   ※宝永=江戸中期
   ※湯もじ・湯巻=ミニスカートのようなもの

9.行水船居風呂船

『日本永代蔵(刻梓の年号がないが、
思うに貞享の時代だろう)』
四之巻に江戸のことを書いたくだりがあり、
ある人が船着き場で自由に使える
行水船というものをし始めて、
利益を得たことを記している。

また、『義理桜(刻板の年号なし。
画風から宝永正徳の頃だろう)』
一之巻の和泉の堺のことを語るくだりに、
「六左衛門は元商人の子なので、
何かしら商売のネタになることを工夫して、
万事元手をかけない。

ある時、どうしようもない小舟に
居風呂を作って、碇をおろした
大船のあたりへ漕いで行き、
一人三銭と決めて商売をした。
これは心憎いものである。

船宿まで行って風呂にだけ入る
というわけにもいかず、
出来合いのものを食べれば、
相応の代金となるため、
自然と我慢するようになる。

だから、船中に暮らす人のところへ
差し向けた居風呂こそ重宝されると思い、
元船一艘から五人十人ずつ
この銭湯に入ると見込んで、
たくさん儲けたという」

とあれば、行水船より思いついて
居風呂船を作り、居風呂船から
今の湯舟というものができたのだろう。

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寛永正保時代銭湯風呂古図

当時は男女ともにびん付け油を
使う者は稀で、美軟石で頭髪を整えていた。
埃がかかって汚れやすいためか、
風呂に入るごとに髪を洗っていた。
風呂に入る者が乱髪なのは、
この理由からである。
美軟石は五味子で、
サネカズラともビナンカズラともいう。

『半入独吟集(序に延宝四年とあり)』
 前句 風呂の煙も霧なふかめそ 
 附句 打払ふ露もまだひぬ洗髪
これらも一証とすべし。
寛永正保は今この文化十年よりも
およそ百七十年も昔である。 


【たまむしの独り言】

風呂・トイレに関することが書かれた古文書というのは、そもそも数が少ないのか、ほとんどお目にかかれません。

ですので、この『骨董集』はとても貴重な資料で、しかも、こうして風呂に関する項目がいくつもあるので、読んでいて興奮します。(トイレはありません)

おもしろいですわー

第3回も引き続き風呂ネタから始まります。

ぜひ読んでください!

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