見出し画像

伯父が見たヒロシマと戦争中の回顧録

<はじめに> 


私の父の生家は、岡山県で、昔から食品関係の製造業をしています。
昭和20年8月6日、私の祖父は取引先に会うため広島に滞在中に被曝しました。
行方不明の祖父を探しに伯父(私の父の長兄)が、岡山の家を出発し、8月10日に広島入りしました。
私の息子が小学6年の頃、学校で平和学習をしていました。これはいい機会だと思い、息子に広島で目撃したことなどを話してもらいたいと、お願いしたところ、伯父は快く了承してくれました。
 以下の文章は、2005年ゴールデンウィーク、伯父が一時間に渡り、息子に語っている様子を撮影したビデオを元に、文字起こしし、わかりやすく編集したものです。
 文章的におかしな部分もありますが、元の伯父の語りを生かしたいため、あえて、そのままにしていたりします。

・文中の「私」は伯父のこと、「父」は私の祖父のことです。
・当時80歳の伯父が、台本もなく思いつくままに語っているので、日時など記憶違いなどもありますがご了承ください。
【ご注意】文中、ご気分が悪くなるかもしれない描写がありますが、了解お願いします。


昭和20年、私は22歳で、大阪の大学に行っていた。
 当時大学は、東野田ひがしのだ(現在の都島区)にあり、大学から200mくらいのところに下宿していたが、6月ごろの大空襲で大学も下宿もやられてしまった。
 下宿の3人の子供とおばさんと、焼夷弾のどんどん落ちる中を一生懸命逃げて、みんな怪我もせず、大阪の端の方の今里の方に逃げ延びた。
 倉敷の方は田舎だから、空襲もなく、焼夷弾が落ちたら屋根で引っかかるから、竹槍で突いて落とせ、とか、火が上がるまでハタキの大きいようなやつで、火を消してバケツリレーで消火する訓練などしていたが、大阪で体験したが、焼夷弾なんか、雨あられと降るから、そんなことでは間に合わない。
 最初はエレクトロンと言って、衝撃があったらパッと火が出る爆弾だった。木造なら、2階をぶち抜いて、下まで落ちる。
 それから戦争の終わり頃は、油脂焼夷弾ゆししょういだん言うて、100キロか、200キロか大きくて、油が入っとって、それはもう落ちたら床もぶち抜いて地面まで落ちる。そしていっぺんに油が散ってばーーーっと火がつくから、防ぎようもない。
 1トン爆弾と言うのもあった。空襲も最初の頃は珍しくて、大阪の梅田の近くに落ちて、見に行った。土を跳ね上げるからすり鉢状の穴があく。直径が20mくらい。そこに雨が降ったら池のようになる。
 空襲警報は二通りあって、警戒警報というのは、100キロも150キロも離れたところから、飛行機がこっち向けて来よるぞ、たとえば東京なら、千葉県の岬の方でみて、飛行機がとおりょおると、で、東京に警戒警報をだすわけ。大阪でも東京でも大きい町は何べんも空襲されてる。警戒警報の時に、電気を全部消すわけ。一つか二つかは、黒いカバーをして、下にだけ明かりがさすようにするわけ。「警戒警報発令」と消防団の人が言うて歩くのと、サイレンが鳴る。するとみんなは一つの部屋に集まる。そして、空襲警報発令といわれたら、灯火管制とうかかんせいいうて、全部電気を消すわけ。でもアメリカは地図で、何キロ行ったら東京のどの辺とか、飛行機でわかってるから。。消防団がタバコをすったら、見られたら危ない、白い布団をかぶってでたら、目標になるから、とか、そんなことを言っていた。

この辺(家のある辺り)は田舎じゃから、そんな大きなのは落とさん。
倉敷で空襲があったのは、水島の三菱航空機という会社だ。そこへ、この辺の女学校やら、中学生やら、学徒動員で手伝いに行ってた。
豪の中へ逃げて助かった人もあるし、マンの悪い人は豪の入り口がふさがって蒸し焼きのようになったし。

 大学は6月に焼けてからは、あんまり授業がなかった。できる状態ではないし、混乱状態だったので、出席、欠席なんか問題にならん。
 大阪は空襲がひどくて、食糧難で、下宿は配給しかたべさせてもらえないので、お腹がペコペコだった。
 お米は三分の一で、あとは大豆から油を取ったカス、豆かすと、サツマイモのツルを乾かして、粉にしたものを食べていた。
 一つもおいしくなくて、お腹が空いてかなわないので、月に一度は倉敷に帰っていた。実家はまだ白米を食べていたので、それがとてもおいしくて、
そのために、里帰りしていた。

昭和20年8月4日くらいにも、実家に帰っていた。父は5日から広島に行き、6日に帰る、と言っていた。その時広島は軍都と言われていた。日清、日露戦争時代に、広島の宇品港うじなこうから、兵隊が出て行った。日露戦争時代、東京だと、明治天皇に満州の状況が伝わりにくいので、一時的に広島に皇居を移し、大本営というものを作っていた。それにつれて、軍服を作ったりする被服省、兵隊の食料になる、缶詰工場があちこち広島市内にできて、広島は軍のための町「軍都」と呼ばれていた。
 そこへ、私の父は商売の用事で、8月5日に広島に行くことになった。大阪や東京は空襲を受けていたのに、広島は全く爆撃がなかった。だから、必ず広島は空襲に会うだろうというので、宮島なら安全だから、5日は宮島に泊まると言って出て行った。

しかし、父が6日の晩には遅くとも帰ると言っていたのに、帰ってこないから「なんじゃろうなあ」と言っていたが、翌日か翌々日、広島に新型爆弾が落ちたということが、新聞に載った。しかし家の者は父が宮島に泊まってると思っていたから、大丈夫だろうと思っていた。
 私は大学に行く前は、広島の高専工業というところにいっていたが、家のすぐ隣へ高専時代の一級下の人が住んでいて、広島から、帰ってきていた。その人の話によると、広島は8,9割は死んでる、家は全滅じゃ、建物は鉄筋のビルは残っているけど、中は焼けてるし、木造の家は全部焼けている。と言う。新聞はそんなことは載せない。当時は日本が負けていることは載せないから、あてにならない。
 その人の話を聞いて、「こりゃ大変じゃ」と、これはすぐに探しに行かなければならないと、店の者ふたりと、私と3人で、にぎりめしと、水筒を持って10日の朝、探しに行った。
 汽車は広島駅の二駅手前の海田市かいたいちという駅までは行った。(広島の西の)宮島駅は残っているが、東からは、海田市までしか、行けなかった。
 そこから、みんなで歩く。海田市の駅を降りたとたんに、担架に乗せられた重傷者がマグロのようにずらっと何十人と並んでいた。それを見ながら、広島へ歩いて行った。道は広島の学校時代に行っていたので、大体わかった。
 広島への道を行きかけた途端、原爆から4日立っているのに、その道をぞろぞろ、けが人や避難民の列が続いていた。リヤカーに乗せられている、歩けない人もいたが、大体は杖をついてでも歩いて海田市の駅へ向かう。
 火傷のひどい人は皮膚が手から垂れ下がっている。幽霊の絵のような手と同じ格好をして、歩いている。幽霊のような手で、しゃがみながら歩いている人や杖をついている人、ずーっと広島の町まで、続いている。8月の昼頃だから、暑い。
 広島には太田川という川があって、川口のところは6本に分かれている。広島の町は、川の三角州にできているから、橋や川がおおい。大体地理はわかっているので、南大橋という、橋を通って市内に入る。一番に段原だんばらという町に入った。広島には比治山ひじやまという山があり、段原地区は比治山の東側で、山の陰になっていたからか、爆風や熱線もよけていて、家がだいぶ残っていて、被害は少なかった。比治山のトンネルを出て、町に出た途端にびっくりした。
 東の端から、ずっと西の端の己斐こい駅(現在の西広島)まで、焼け野原なので、見渡すことができた。残っているのはビルだけ。西の山の松の木が熱で茶色になっていた。市電の鉄柱が同じ方向に、くの字に曲がっていた。
 原爆投下から、4日後なので、焼け跡の死んだ人や怪我人は比較的少なかった。
 苦し紛れに川に飛び込んだ人がたくさんいて、死んで川を流れていて、それを兵隊がロープで引き上げて、川の土手に並べている。とにかく、顔は真っ黒で、夏なので腐敗して、体はふくれてるわけ。男なのか女なのかもわからない。服はやけこげているので、裸になっている。その死体を20も30も土手に並べている。
 昼飯を食べなならんと言って、広島の文理大学、今は教育大が、私が行っていた高等工業のちかくにあって、勝手がわかるから、文理大まで行ったが、日影がなくて、暑くてかなわない。文理大は鉄筋だったから、焼けてはいるが、建物は残っているので、建物の影で弁当を食べていたら、魚の焼くにおいがした。見に行ってみたら、人間を焼いていた。兵隊が穴を掘って油をかけて、死体を焼いている。その匂いがきつい。それで、飯が喉を通らん。しょうがない、水だけでも飲んで、大体父が行ってるであろうと聞いていた、取引先の家へ行ったが、家は全くない。
 焼けた家のところには、この辺の人は、どこそこの工場へ避難した、ここの人は、どこそこの倉庫に避難した、という看板が10個くらい立っている。それぞれ、4,5キロ離れた場所だったから、一日二日では探せんと思っていたら、たまたま、同じ町内の無事だった人が家の使えそうなものを掘り出すために戻って来ていて、この辺で生き残った人は五日市いつかいちへ避難している。と言った。
 五日市というのは、広島の西側の町。広島の西の端の己斐駅は電車が動いているので、ここから、宮島線に乗れば、五日市まで行ける。己斐まで歩いて行って、電車で五日市に行ったら、日が暮れた。宿はあっても避難所になってるだろうし、その辺の海岸の漁船の上で寝た。蚊が来たのは覚えているけど、その時は気が立っていたので、蚊は問題じゃなかった。
 翌朝、五日市の町役場に行ったら、避難してきた人の一覧があり、父の名前があったので、大喜びした。避難先の家がわかったので、行ってみると「お父さんは昨日杖をついて帰られました」と言われた。「杖をついて歩けるなら、結構じゃなあ」と、生きてることに大喜びして、その日の夜に、倉敷の家へ帰った。
 11日の晩か、12日の朝か忘れたが、家に帰ったら、父が座敷に布団を敷いて横になっていた。
 みんな、父の命が助かったと喜んでいた。運よく下敷きにならずに帰ってきたと喜んでいた。町内の人を、みんな集めて、父が話をするわけ。そうして、「よう助かった」とみんな喜び、私も、父が元気そうだしよかったと喜んだ。

この時に父から聞いたこと
 5日は宮島に泊まる予定だったが、汽車の燃料が乏しく、途中の三原で、3時間遅れた。倉敷から知り合いの人も一緒に行っていたが、その人は会合の予定があったが、間に合わないので、そのまま引き返した。
 父は、広島へ昼につく予定が夕方になってしまった。宮島まで行ったら遅くなるので、広島市内で泊まることになった。列車が遅れて引き返したのと、遅れたために広島で泊まるのと、紙一重の運じゃなあ。
 とにかく、父は広島市内の宿にとまり、翌朝商売関係の人の家に行ったのだが、そこは爆心地から、5~600mの場所だった。相生橋という橋の近くだった。
 その家に朝行って、靴を脱いで、上に上がって座ったとたん、爆弾が落ちた。その当時は原爆という言葉はなかった。普通の爆弾か焼夷弾しかなかった。だから近所に爆弾が落ちたと思った。
 すごい音がして、家がつぶれて、すぐには火事にならなかった。その家の家族7人のうち、一人は西の方の、己斐駅の方へ買い出しに行ったので、その人は助かった。即死が2人、あとの4人は、ケガをしたり、潰れた家からはい出したりした。そうしたら、火の手が上がった。
 原爆というのは、爆風と熱で、木や紙は焼ける。外を歩いた人は、熱線で火傷をする。白い服を着ていた人は火傷が軽い。皮膚がでてるところは、皮がめくれていた。

 とにかく隣に爆弾が落ちたと思ったので、靴を履く間もなく裸足で倒れた家の上を歩いて行った。一番火の手が上がっていない、南に歩いて行った。煙とほこりで、方角もわからず、道も家もわからず、とにかく火事の少ない方向に歩いて逃げた。
 たまたま南の方に、同業者の知り合いがいた。倒れた家の釘にひっかかったりして、ズボンがひざから下がボロボロで、ガラスや釘を踏んだので、足の裏は傷だらけだった。しかし、屋根の下にいたので、火傷はまったくしていなかった。
 広島には、お城の近くに、東練兵場と、西練兵場というのがあって、朝、兵隊が裸で体操をしていたが、それが全部やられたそうだ。

8月15日。
午前何時かから、放送があります、と言われたので、「なんじゃろうなあ、天皇陛下がもっと頑張れいわれるんじゃろうかなあ」と言っていた。ラジオで放送があったが、とても聞き取りにくく、「どうやら、負けた言ういよおるような。いろいろあると思うけど、元気を出してくれみたいなことじゃったようなぞ」ぐらいなことしかわからなかったが、戦争が終わったということはわかった。父も「ええこと言うてくれた。戦争が終わるのはええことじゃ。このまま行ったら、みんな飢え死にや病気で死んだりする。ほとんど、死んでしまうじゃろ。ここでやめりゃあ何割かは残るじゃろう」言うて、父も喜んだ。
 普通、戦争で負けたら、悲しい言うけどな、やれやれ、もうこれで、逃げんでいいと思った。
 父は食欲もあり、元気だったので、私は大阪の大学を辞めるのか続けるのか、戦争に負けたから、どうなるのかわからん。
「いっぺん大阪へ行ってみらあ」ということで、16日に大阪に行った。大学に行ったら、教務課などの部屋がやけとんじゃから、役に立たん。友達がポロポロおって、こりゃどうにもならん、収拾がつかんなあと言っていた。

 下宿も焼けてしまったので、宝塚線の池田からでている、能勢電の途中の多田院ただいんというところに、父と同級生だった人がいて、そこへとりあえず行くと、10日くらい泊めてくれた。そして8月24日に電報が来て「チチキトク」とあった。
 終戦直後は、切符は全部割り当てで、大阪駅から、兵庫県の上郡までは、近距離。日に50枚くらい切符を売る。それより西へ行く人は10枚くらい。朝の暗いうちから並んでも、前に10人いたらどうしても買えない。
 しかし、実家の方は田舎で、駅長さんも知っているから、手土産でも持って行ったら、往復切符を売ってくれる。だから、うちの店の者が往復切符を持って迎えに来た。
 一緒に駅まで行こうとしたが、着くまでに、激しい腹痛をおこしてしまい、リヤカーに乗せられ、医者に行った。胃痙攣だから、横なっとりゃあ治る、とのことだったから、一晩泊まった。店の者は家に様子を伝えます。と、先に帰った。
 私は翌日25日に家に帰ったら、ちょうど行き違いに父は死んでいた。
 結局父は、6日に被爆して、10日くらいは元気だった。その後だんだん熱がでて、髪の毛がぬけて、歯茎が腫れてきた。かかりつけのお医者も原因がわからない。今思えば、原爆症なのだが、当時はそんな言葉がなかったから、東京の医者でもわからない。田舎の医者ならなおさら。

そののち、父が被ばくした、広島の取引先の家を訪ねたが、その家の人は、己斐駅に買い出しに行っていた人以外は、原爆症を発症して、亡くなったと。みんな父と前後して、原爆症を発症して、しんだ。
 うちの番頭が父の病気の様子をこまごまと書いている記録が今も残っている。それを証拠に広島の市役所に持って行ったら、原爆で死んだ家族も原爆手帳がもらえる。もし私に原爆症が出たら、安い医療費で手当てをしてもらえる。
 私は広島に行ったのは4日後だから、放射能は薄れていたのだろう。また、広島に泊まらず、五日市まで行って泊まったから、よかった。
 広島市内でじっとしてたら、もう少し被害を受けていたかもしれない。

 私は、大阪で何度も空襲にあったが、動ける人間は走ってにげたら、よほど運が悪くなければ、直接爆弾が頭にあたることはない。
 けれど、原爆は違う。逃げる間もなく、そこにいた者は全部死んでしまう。












この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?