痛みのアーカイブ
「苦しみの総和のようなものは存在しない。われわれがひとりの人間が体験しうる最大限の苦しみに達したときには、疑いなく、大変恐ろしいものに達したのであり、宇宙に存在しうる苦しみのすべてに達したにちがいない。百万人の苦しむ人間どうしを足しあわせても、その痛みを加算することにはならないのである」。
C.S.Lewis,”The Problem of Pain”(New Yrok:Macmillan,1944),p.103-104
「苦境から救いを求める叫び声は、ひとりの人間の叫び声より大きいことはない。
あるいは、どんな苦境も、個人が陥っている苦境より大きいことはない。
したがって、ひとりの人間の苦境は無限であるわけだから、無限の助けが必要となる。
キリスト教という宗教は、無限の助けを必要とする者のためにだけ存在している。したがって、無限の苦境に陥っていると思う者のためにだけ存在している。
地球全体の苦境は、ひとりの人間の魂の苦境より大きくはない。」
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン著、丘沢静也訳『反哲学的断章 文化と価値』、青土社、1999年、p.131-132
「わたしは、頭痛の折りふしに、発作がひどくなると、ほかの人のひたいのちょうど同じ部分をなぐりつけて、痛い目にあわせてやりたいとつよく思ったものだ。このことを忘れないこと。
これに似た思いは、人間において、じつにしばしば起こるものだ。
そんな状態のとき、わたしはなぐりはしなかったものの、人を傷つけるような言葉を口にするという誘惑に負けてしまったことが何度もある。重力に屈してしまったこと。最大の罪。こうして、言語の働きがそこなわれる。言語の働きは、ものとものとの関係を表現することであるというのに。」
シモーヌ・ヴェイユ著、田辺保訳『重力と恩寵』、株式会社講談社、1974年、p.12-13
「文学において病気の描写が見られない最後の理由は、言語の乏しさである。英語を使ってハムレットの思索やリア王の悲劇について表現することはできても、悪寒や頭痛には語彙がない。英語の発展はかなりいびつである。まだ学校に通っている女の子であれ恋をしたなら、シェイクスピアやキーツの言葉で心のうちを語ることができる。ところが頭痛に苦しむ人が医者に向かって痛みを表現しようとすると、とたんに言語は干上がってしまう。使えそうな出来合いの表現はない。自分で語彙を作らねばならず、片方の手に痛み、もう片方の手に純粋な音のかたまりを持って(たぶんバベルの住人たちが最初そうしたように)ぎゅっと合体させると、新しい語彙がようやく転がり出てくる。でも、その語彙は物笑いの種になるだろう。」
https://www.hayakawabooks.com/n/nc4c01534f6a6
ダーレン・アロノフスキー監督の映画『π』(1997年)では、シーンの転換は常に主人公を襲う耐え切れない激痛を伴う発作による気絶によって引き起こされる。世界には隠された数学的な法則があると信じて探求を止めない数学者の頭のなかにある、どんな薬でもどうにもできない痛み。痛みによって彼の行動、思考、意志は断ち切られ、中断される。ままならない意識の連続性が数列への変質によって辛うじて維持されているようにも見える。ここでは、痛みは何ら有意義なものではなく、不条理な世界の理不尽な闖入であるかのように、明晰な頭脳をずたずたに引き裂く。彼が鋭い痛みにとうとう耐えきれなくなった時、彼は意識を失い、画面は暗転する。痛みの発作が起こると、画面は揺れ動き、ピントは合わなくなり、事物は意味を持たなくなる。彼が痛みの極限に到達した時、画面にはもはや何も映っていない。痛みは我々から意味を剥奪する。注意力を奪い、意志を挫き、日々のありふれた楽しみを打ち砕く。慢性的な痛みは、職業生活を不可能にすることもあるし、外出の用事や週末の気晴らしから人々を遠ざける。痛みは人を阻害し、孤立させる。痛みとは、私たちの生を取り囲み、些細な意義を織りなしていた足場を掘り崩し、根こそぎにする者であり、それが通過した後には無表情な虚無が現れる。忌々しい頭痛が起こっている時には、世界は単調で、干からびたものに見える。頭痛を抱えながら心底ものごとを楽しむことなど不可能だ。痛みから何ら有益な結論を導き出すことはできず、それは単にどこまでも広がる平坦な地獄に過ぎない。
これは肉体的な苦しみの話です。精神的な苦しみには魅力があり、美的な素材にもなり得ます。こうした苦しみを奪おうというのではありません。しかし、肉体的な苦しみは単なる地獄です。そこには何の利点も意義もない。学べるものなど何もないのです。「生きるとは喜びを追求することだ」と簡潔に言われてきましたが、これは間違っています。もっと正確に言うならば、「生きるとは苦しみを回避すること」なのです。ほとんどの人は、耐え難い苦痛と死という二者択一を迫られれば、死を選びます。
https://courrier.jp/news/archives/256261/
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