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勉強はしたいけど、学校ではしたくない小2の春。長女ケース、その一。

前回は長男の、我々家族にとって非常に重い経験の振り返りと、その経験から得た結論をご紹介しました。

・担任の苦情は学校に相談しても無駄。むしろ逆効果。

・体罰だけでなく精神的暴力も含む暴力に関して子どもから訴えがあったときは、即不登校を優先する。

でした。

これは、教育委員会、総合教育センター、人権擁護委員、法律事務所、医師等々に相談した結果、たどり着いた結論ですので、長女が「学校行きたくない」と始めた時には、私は、まだ学校に望み‥というか、家にいるよりはマシであろうという幻想のようなものを抱いていたんですね。ですから、長女が学校に行きたくないと言い出しても、しばらくは学校に預けていました。

思えば長女は幼稚園の年長さんあたりから、先生が小学校入学を意識し、忘れ物しないようにギリギリと締め付けることに不満を言い始めます。時には忘れ物を恐れて、遠足に行きたくないなど言いました。確かに、遠足前に持ち物を暗記させ、強いプレッシャーをかけるのは、意味のある指導であると、私も思えませんでしたので、幼稚園に意見を言うこともありました。それでも、小さな子が休むとなると、フルタイムで仕事をしていた私は困るので、どうにかこうにか長女を預けることはできていました。

小学校に入ると同時に学童も利用しました。とても助かる制度です。ところが、長女の”行きたくない”の最初は学童で、「子どもの声がうるさくいられない」という訴えでした。学童の先生は、集中すれば周りの音は聞こえなくなる、とおっしゃいましたが、この時は耳栓を使うことと、先生の机の周りで本を読んで過ごすといった対応を試しました。

小学生にとって、つくづく担任の影響は大きいなと思います。長女の小学校生活初めての担任は、前任校で”担任を外してほしい署名”活動があり、異動してきた人でした。それを私は早い時期に知りましたので、注意をしていたんですね。案の定、割と早い時期に始まりました。「学校に行きたくない」。時々休ませながらでしたが、この時の担任は、学校を休むと長女を廊下に呼び出して「もう休まないで」と詰め寄ったそうで、かえって怖がって行けなくなりました。仕方なく管理職に相談です。そこでは、はっきり伝えました。前任校での署名活動を知っていること、そして、心理士(の端くれ)ですから、家庭訪問の時に持った印象も伝え、気をつけて見ていてほしいと伝えました。その後その先生は、個人情報のファイルを紛失するという事件を起こし、新聞テレビ等で報道されました。(おそらくなんらかの介入が必要な先生なので)とにかく子どもたちに悪い影響がないように、と、学校が設けた謝罪の席で私は発言しました。例えば、鬱で怒りすぎるとか、そんなことを心配しました。

三学期にはかなり長女に不満が募っています。卒業式の練習が非常に無意味だと言いました。「毎朝毎朝、立ってください、座ってください、その繰り返し。なんの意味がある?何のためにやる?式に出るのは構わない。式の練習を毎朝やる意味はない。だいたい”式の練習”って意味がわからない。ついでに授業は進むのが遅いので非常に退屈である。」こんなことを訴えるようになりました。(確かに日本の学校の卒業式は厳かぶっていると私も思います。しかもクソ寒い体育館でね。何だったんだと思います。)

並行して長男の不登校が本格化しています。長男は年齢的に、家で留守番や、あらゆる居場所を利用するにしても、長女はまだ低学年で、学校に行かなくなったら私は仕事を続けられなくなります。

2年生になっても学校への不満は続きます。朝は自転車に乗せて、門の中にポイと置いていけば長女は渋々校舎の中に入ります。そんな春でした。

5月の連休明け、運動会の練習が始まるといよいよ行き渋りが本格化します。

「また始まった〜〜運動会の練習。毎朝ぐるぐる行進の練習、あれは何ののためにやらされる?頭がおかしくなりそう。毎日毎朝の行事の練習は単に時間の無駄である。それから授業、遅すぎる。繰り返しが多すぎる。そして子どもがうるさい。」

こんな感じです。文字にすると非常に強い印象ですが、困っている8歳の少女の声で再生してください。この時の先生は、長男も「いい先生だよ」と言っていたし、実際、長女のようにちょっとはみ出した子でなければ、のちに「いい先生だったね」、と振り返ることのできた先生だったと思います。ただ「集団生活だから我慢して」が指導の限界だったのですね。完全な不登校になる前、長女の居場所を学校は用意してくれました。小さな部屋で一日、問題集を解いたり本を読んだりして過ごします。担任の先生は、休み時間ごとに様子を見にきてくださるのですが、先生も本当に負担だったと思います。ある日「クラスのみんなを置いて○ちゃんのところに来るんだから、ありがとうって思って」と言ったそうです。きっと忙しさ余った愚痴を冗談めかした言葉だったと想像します。ところがその一言で娘は完全に学校に見切りをつけたのです。「私は様子を見に来てほしいなど思っていないし、頼んでもいない。勉強はしたいよ、でも、学校ではしたくない。もう学校には行かない。」(少女の声で再生してください、字面だとキツ‥)2年生の一学期で長女は、自分で、事実上の退学を決めたのでした。この時の先生とは随分色々お話をしました。私にとっても長女が海のものとも山のものともわからなかった時期です。先生は精一杯してくださったと思います。

さて、困ったのは私です。しばらくは長女を連れて出勤しました。幸い、子ども一人いられるくらいのスペースはもらえる職場でした。小さな部屋で問題集を解いたり、本を読んだりして長女は過ごします。時々、同僚が様子を見に行ってくれることもありました。ホチキス留めなど簡単な事務作業を(暇つぶしとして)やらせてくれたり。小さなお菓子を持っておしゃべりしてくれたり。ありがたかったです。でも、子どもの時間の質としては高くないなと私は思いました。その夏休みに、私は退職しました。自宅学習の始まりでした。


ちなみに長女には、ひどい偏食があり幼稚園・小学校で給食を食べたことがありません。例えば果物は生まれてから一度も食べたことがありません。いつもお弁当持参でした。与えなかったわけではありません。お惣菜の王道、甘味のある煮物はダメ、酸味も受け付けませんから寿司もダメ、ハムウインナーなどの加工食品も食べません。ですから、学校給食のおかずはほぼ食べられません。好き嫌いと言うより、えづいて飲み込むこともできない、という感じです。味噌汁にしても、鰹で出汁をしっかりとり特定のお店の絹ごしならいただけます。手に入らず別の店の豆腐にすれば気付きます。原始人の食のイメージで家では用意しています。ただ焼くだけ、揚げるだけ、塩かけるだけ、みたいな。飲むのは水だけ。お茶麦茶ジュースコーヒー不可(ココア可)。キャンディやスナックの類も不可(チョコレート可)。

長女は、知的に非常に高い面を持ちながら、カタカナを覚えるのが遅かったり簡単な漢字を覚えるのも難儀しているなど、困り感も抱えていました。当時(心理士として仕事をしていた)わたしにも恥ずかしながらギフテッドの知識はほとんどなく、wiscの結果を見て医師から”昔で言うところの神童です”と言われても、ピンときませんでした。その後もしばらくはギフテッドを念頭に置いた子育てをしていませんでした。ただ、暗譜などの場面で見せる記憶力はずば抜けていました。それでも私は「若いっていいな」くらいに見ていました。食べられないものが多いことや書字の困難など、とりわけ学校生活においてつまづきとなる面ばかりが目立っていた頃でした。かかりつけの医師から「みんな同じである必要はないし、◯ちゃんは公立の小学校に行かなくていいですよ。」と助言があり、私も長女の意思を最優先しようと思ったのでした。対人関係は問題なし。仲良しの子もいました。ただ、子どもの集団が発する声や行動の騒音は、かなりしんどかったようでした。今では、集団や人混みが苦手なのだと本人が自覚しています。少しずつ慣れるようにしています。


<まとめ>

・ギフテッドに先生が気づくことは稀である。(責めてないです、知識がないから仕方ない。)

・子どもが不登校を選択し自宅学習を選択すると収入は減り、教材、習い事等、学費の負担がかなり増える。家計はピンチである。間接的に公教育と自宅学習費で二重に負担している状態。

・ケースによっては、医師も不登校を支持してくれる。綺麗事でない学校の闇も承知している医師は、保護者の心の支え。


長くなりましたね。お読みくださりありがとうございます。長女が完全に自学自習できるようになり、料理をおぼえると、私の負担も軽減され(少し仕事も再開でき)、大人顔負けの知識量(好きな領域ピンポイントで)、マニアックな会話が増えたり、お互い好きな音楽の話しは、まあまあ混み入ったレベルでできるようになったりで、だんだん楽しくなっていきます。

その二以降では長女の不登校中の活動など振り返りと学校との関わりについて振り返っていきます。使える制度、使えなかった制度など。

画像は3年生(だったかな)の時に、知人に頼まれて作った犬の餌やり機。犬が足でペダルを押すとコロコロと餌が出てくる仕組み。これ以外にも、図書館で資料を借りてきて仕組みを学び、小さな自販機もどきなども段ボールで作りました。



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