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小説練習帳 短編小説 遠い待ちぶせ(上)

飼い犬シマの命がもう長くないと獣医から聞かされた時、西田梨沙子は2つの別れを覚悟した。
1つは、10年間共に過ごしてきた雌犬シマとの別れ。
もう1つは、シマを最初に飼っていた古川洋一との別れである。
洋一は現在、刑務所にいる。
罪状は殺人。
10年前、梨沙子の夫・西田智彦を殺した。
洋一は、智彦が借金をしている消費者金融の営業だった。

智彦という男は見栄っ張りで、特に靴へのこだわりが強かった。
月給が吹っ飛ぶような靴を毎月買う。
カード会社のブラックリストに入っていることを梨沙子が知ったのは、結婚したあとだった。

梨沙子が親から受け継いだマンションに転がり込んで生活費を浮かし、高級車を乗り回して浪費に勤しむのが智彦の日常だった。
キラキラと贅沢を楽しむ姿を見て、30半ばにして容姿の良さで結婚相手を決めた自分を梨沙子は心から恥じていた。

生活費は梨沙子が区役所で公務員として稼ぐ給料で回している。
35歳で結婚するまでの貯金額は智彦には話していない。
マンション以外財産と言うものは持ち合わせていないと智彦には伝えてある。
うちは貧乏。かつかつだと。

他人の金を湯水のように使う智彦のもとへ取り立てにやってきていたのが洋一だった。
洋一は、オートロックのインターホンを使わず他の住人が自動ドアを開けるスキを狙ってマンション内に入ってきていた。

智彦はだいたい出かけていたので、対応するのが梨沙子の役目だった。梨沙子に名刺を渡すと穏やかな表情で話し始めた。
「奥様に言うのは何なんですが、ご主人かなり借金されていますよ。返済計画を立てていただかないと」
洋一は、漫画やドラマで見る借金取りと雰囲気が違った。
そのへんのサラリーマンにしか見えなかった。話し方も丁寧だった。
金融屋らしく、やや仕立てのいいスーツに身を包んでいた。

「申し訳ございません」
梨沙子は玄関マットの上で正座をし、三つ指をついて深々と頭を下げた。
洋一の靴が目に入る。智彦が持っているものほど良くはないが、それなりにいい靴を履いていた。少し埃をかぶっているのが梨沙子は気になった。
「奥さん、気になること訊いていいですか」
「はい」
洋一がしゃがみこんだ。
梨沙子は前髪をかきあげながら顔を上げた。
「おでこ、口、手首」
洋一が順番に指さしていく。
「痣、切り傷、擦り傷。これ、ご主人にやられたんですか」
真っ直ぐな視線を避けるように、梨沙子は首を傾げた。
「まあ。そんなところですねえ」
笑ってごまかした。
「早く別れたほうが、僕はいいと思いますよ」
「はあ」
「職場の人、何も言いませんか」
「言いませんね」
「また来ます」

滞在時間はいつも短かった。

梨沙子はよく近所の河原を散歩した。
1時間ほど歩くとたいてい頭がからっぽになる。
その日も当て所なくふらふらと河原を歩いていた。
「奥さん」
すれ違いざまに声をかけられた。
ふと見ると洋一だった。
紺色のジャージ姿を、梨沙子は二度見してしまった。
「ああ、こんにちは」
足元に温かい息を感じる。白い子犬がいた。
赤い首輪につながるリードを洋一が持っている。
梨沙子はしゃがんで犬の額を撫でた。
きりっとした目元が印象的な人懐っこい犬だった。
「美人さんね。名前、なんていうんですか」
「シマ」
「シマ?」
「女優の岩下志麻に似てるでしょ?」
真っ白い毛に細面の輪郭、黒い目。
言われてみれば雰囲気が似ている。
「姐さん、て感じね」
「風格がね」
夕暮れが近づいている。
冷えた風が枯れ葉を跳ねさせる。
「冬が近くなりましたね」
梨沙子がシマの胴体を撫でた。シマはおすわりをして梨沙子のスニーカーに右の前足を載せた。
梨沙子の胸はじんわりと温かくなった。
「奥さんのこと、気に入ったみたいですね」
「そうかな」
洋一はしゃがみ、梨沙子をじっと見た。
「こんなの、奥さんに頼むことじゃないんですけど。僕に何かあったらシマのこと頼めませんか?」
「え?」
「僕、あんな仕事してるでしょ。いつ恨まれて刺されるかわかんないんですよ。先輩とかも危ない目にあっているし」

「借りて返さないほうが悪いのに。何で。て私が言うのも何ですけど」
「ね。僕の家、そこなんですよ。あの青い屋根の」
立ち上がった洋一が指差す方を見る。
比較的新しい一戸建てが見えた。
「去年、奥さんに逃げられてシマとふたりで暮らしてるんです。シマは外で番犬やってますんで」
「今時珍しいわね。外で飼うなんて」
「僕、こう見えて古風なんですよ。じゃ、また。あ、ご主人、来週中に半額でも返さないと利子増えますよ」
「すみません」
何かを見つけたのか、シマが走り出した。洋一もつられて去っていった。

梨沙子が次に洋一と会ったのは、その3日後だった。
夕食後、智彦は、新たな借金先をネットで調べていた。洋一の勤務先では限度額が超えてしまったのだ。
その目が明らかに常軌を逸していたので梨沙子は注意した。
その瞬間、頬を思いっきり殴られた。
奥歯が折れたことに気づいた梨沙子は、タオルハンカチで口を抑えて、いそいで出かけようとした。近所に割と遅くまで営業している歯科医院があった。
「どこ行くんだよ」
玄関の鍵を開けた瞬間、後ろから智彦の声がした。
1つに結んだ髪を引っ張られて倒れてしまった。
後頭部に衝撃を受け、すぐに起き上がれなかった。
馬乗りになられた瞬間、玄関が開いた。
スーツ姿の洋一がいた。
「奥さん、大丈夫ですか」
「何だよ、お前」
智彦が怒鳴った。
「お前じゃねえよ、さっさと金返せよ、オラァ」
洋一は土足で乗り込んできた。
智彦を梨沙子からはがし、押し倒して殴り始めた。
梨沙子はそれをぼんやりと眺めていた。
殴られる智彦を見ていると、胸のすく思いがしたのだ。
ぐったりとした智彦を洋一が執拗に踏みつけはじめた。洋一の靴に血が飛ぶさまを見て、梨沙子は我に返った。
「古川さん、駄目です」
梨沙子は洋一の足にしがみついた。
洋一は智彦から離れ、息を調えてから深呼吸をした。
「死んだかな」
「わかりません」
「奥さん、救急車と警察を呼んでください」
「は、はい」
「あ、あと、シマをよろしくお願いします」
梨沙子は深く頷き、自分のスマホを手に取った。





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