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小説「少年」 著・川端康成 読書感想文

主人公は五十歳を迎え、かつて自分の記した二つの文章を振り返っている。一つは主人公の代表作となる小説のベースになったものであり、もう一つは学生時代に男子寮で共に過ごした少年たちとの交流を記録したものだ。
そのなかで主人公は「清野」という少年と近しくなる。
眠る時に肌を触れ合わせる程度であるが、互いにその行為に何の疑問も持たないでいた。
また、主人公は清野だけではなく、両腕に他の少年を抱えて眠る夜もあった。
主人公は少年たちと過ごしながら、彼らが思春期を迎えてしまうことを恐れた。
清野には家族で信仰している宗教があった。主人公は清野の地元を訪れた際にその様子を見ていた。学校で共に過ごす限り、その信仰が主人公に何か影響を及ぼすことはなかった。
主人公の進学を機に、物理的な距離が二人に出来る。それをきっかけに清野は猛烈に主人公への想いを募らせ、信仰の手を伸ばしてくるのだった。

「川端康成のBLが人気!」なるネット記事を読んでkindleにダウンロードして読んでみたのであるが、これはいわゆるそれではないな、というのが私の答えである。
私は以前から男性(特に学生やスポーツ選手)はよく体を触り合う生き物だと認識している。女性は子どもの頃に手をつなぐことはあっても、小学校3年生くらいからそんなことはほぼしない。
道端を歩いている学生などを見てみるといい。男性同士は女性よりも距離が近く、狭い道であっても隣にいる友達の横をなかなか譲ろうとしない。離れるのが不安なのだと思う。

この小説に出てくる少年たちは親元を離れて寮暮らしをしている。また、主人公の両親はすでに亡くなっており、彼の生活は親戚によって成り立っていた。そこに作られていたのは、疑似家族、兄弟ではなかったかと思われる。
うまい具合に仲良しが形成された時などに「あの子は弟的存在」など例えることがあるがそれなのだと思う。
「BL」と銘打ったのは出版社の販売戦略だろう。

この小説の主人公は作者がモデルだと察する。「清野」との交流とは別の文章が「伊豆の踊子」のベースになっているからである。
あとがきを担当している宇能鴻一郎は川端康成を「同性愛未満者ではないか」と評している。それを鑑みてもやはりこれはBLではないだろう。
宇能鴻一郎は、川端康成の書く女性に体臭がないことにも言及している。言われてみればこの作品における少年同士の触れ合いに関してもそうであった。ただ、それは川端康成作品の魅力であり、私をずっと惹きつけるところでもある。そう考えると、川端康成の作品は今の時代に合っているのかもしれない。

主人公と清野は東京、大阪と離れ離れになって文通を始める。清野がしたためる手紙からは共に暮らしていた頃にはおくびにも出ていなかったしつこさが目立ち始め、主人公の幸せを願うあまり文面は宗教色を強めていく。

後半を読むうちに、私はかつての友人を思い出していた。
その友人は、学生時代からある宗教を家族で信仰している噂があったが、
微塵も出していなかった。
私は、学生時代に中沢新一の「宗教入門」を読み、自分が信仰している「真言宗」以外の宗派にも興味があるということをわりと大っぴらにしていた。
それもあってか、友人は共に過ごした学校を卒業してから自分の宗教について私に語ったことが度々あった。
ただ、私は真言宗が好きなのでその話をほぼ聞き流していた。
それでも忘れた頃に友人は自分の宗教についての活動を私に提示してきた。
私はあまり気にしないでいた。
それ以外の話をする相手としては、とても楽しい人だった。
ある時、友人の発言のなかにいかにもその宗教らしいものを感じた。
私はそれを私や家族を侵食するような一言であると恐れ慄いた。
逃げなければ。
私はその友人との交流を絶った。

主人公が最後に取った選択を私は心から理解できた。あらためて、川端康成作品の感受性に惹かれてしまうのだった。




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