見出し画像

小説練習帳 短編小説 遠い待ちぶせ(下)

梨沙子は毎朝5時30分に起きる。
起きるというよりも起こされるが正しい。
シマが散歩に連れていけと言わんばかりに、ベッドへ飛び乗って来るのだ。
「はいはい、わかったわかった」
梨沙子はパジャマからジャージに着替え、散歩の準備をする。その周りをシマが右へ左へと駆け回っていた。

梨沙子とシマの生活は順調だった。
事件のあと、梨沙子はシマを預かるつもりであると担当の中年男性刑事に告げた。梨沙子に共犯者の疑いがかけられた。洋一と梨沙子が恋愛関係にあると思われたのだ。
「唯一、夫から受けた暴力を気にかけてくれた人との約束なんです」
約束に至る経緯を話してもその疑いはすくに晴れることはなかった。
自分も捕まるかもしれない。
そんな不安が梨沙子を襲った。
洋一の庭から自宅へシマを連れ帰り世話に追われていると少しは気が紛れた。ただ、時々急に涙があふれこの世から消えたいと震えることが何度かあった。

梨沙子の容疑はすぐに晴れた。
事件の動機が明確になったからだ。
洋一の元妻・涼子の証言がきっかけになった。
ふたりの離婚原因は、洋一による暴力だったという。
涼子は男性にモテるタイプだったため、洋一の嫉妬は激しく、言い争いが絶えなかったらしい。
執念深い洋一は、離婚後も連絡を取ろうと試行錯誤していたそうだ。
洋一は涼子のことを深く愛しているので、梨沙子と関係を持つのが考えにくいということになったのだ。
それではなぜ、智彦に執拗な暴力をふるったのか疑問が残る。刑事の問いかけに対し洋一はこう答えた。
「自分で自分を殺しにかかっているような気分だった」
梨沙子に暴力をふるう智彦の姿に自分が重なったということらしい。
事件は終わった。
梨沙子は智彦の家族ともともと疎遠であったが、葬儀などすべてを終わらせると縁が切れた。
こちらが被害者であるのに、ずっと睨まれていた。
遺骨は智彦の実家に渡った。
存在が遠くなりすぎて、籍を抜くタイミングも見失ったままだ。

梨沙子は、シマとの暮らしを改めてスタートさせることができた。
シマはマンションでの暮らしにすぐ慣れた。
梨沙子に程よく甘えはするが、基本的に自立を感じさせる犬だった。

時々、シマの写真を洋一に送った。
返事が来たことは一度もない。

梨沙子とシマが一緒に暮らしはじめてすこしずつふたりの間に変化が起きた。
シマの毛の生え替わりが始まると、梨沙子の体毛がやたら抜けるようになった。
もともと毛量が多い方だったが、部屋中、シマと自分の毛が広がって毎日掃除機をかけなければいけないほどだった。
梨沙子が重い生理痛で寝込むと、シマも出血することがあった。
シマがあくびをすれば、梨沙子が続く。
梨沙子は散歩中にシマが仲良くなった雄犬の飼い主と親しくなって付き合ったことがある。
シマは子犬を死産し、梨沙子は流産した。

ふたりは同じ8の字の上で追いかけっこを繰り返して生きていた。
シマの食欲があからさまに減り、病院でもう長くないと知らされた時、梨沙子は自分の死期について考えざるを得なくなった。
食欲は減り、シマを追うように痩せていく自分。
ただ、今までとは違い、シマが患っているような死ぬほどの病を自分が背負っているようには到底思えなかった。シマの寿命にショックを受けてやつれているのだ。
シマのいない世界を生きるくらいなら、死んだほうがマシだ。
梨沙子は、死への憧れをつのらせた。同時に生きることへの執着も捨てきれなかった。主に肉体的にだ。
たった10年の生涯と45年生きた自分。
若い頃と比べたら自分の傷みもそれなりだが、そもそも寿命の短い犬として生きたシマの見た目は明らかに滅びを迎えている。

もし、シマが自分の体を手に入れたならばどうだろう。
できることなら、自分の魂を天に捧げ、シマに生きてもらいたい。その肉体がもう使い物にならないなら、私の体を使えばいい。
おばさんの体なんて要らないだろうか。
息が浅くなるシマの胴体を撫でながら、梨沙子は少しずつ精神を無にしていった。


洋一が出所した時、迎えとしてやってきたのは元妻の涼子だった。
「何でいるの?」
「あんたの母親から頼まれて。足が悪くて出かけられないんだって」
「へえ。悪いな」
「いいから早く乗って」
二人は待たせてあったタクシーに乗った。
「区役所までお願いします」
後部座席に乗り込むと、涼子は運転手に頼んだ。
「おかあさんから、マイナンバーカード作るように頼まれてるの」
「誰の?」
「あんたのに決まってるでしょ」
涼子は洋一の肩を軽く叩いた。
「家のこととかいいのか」
洋一の顔を見て涼子はため息をついた。
「浮気相手と再婚した女の家庭まで心配するなんて、あんた変わらないね。本当お人好し」
「そうかな、かもしれないな」
「じゃないと、あんなところで長い間暮らせないよ」
タクシーは区役所に着いた。
「ありがとうございます」
涼子が運転手に料金を払っている間、洋一はタクシーから下車した。

「何してんの、行くよ」

車から降りてきた涼子に背中を押されて歩き始める。

「あれだな、みんなマスクしてんのな」

区役所を出入りする人たちを見て洋一は感心した。

「あ、あんたにさせるの忘れてた。だから、さっきの運転手無愛想だったんだ」

涼子はバッグから新品の不織布マスクが入ったビニールのポーチを取り出した。

「はい、どうぞ」

ぶっきらぼうにポーチからマスクを引き抜き、洋一に渡した。

「ありがとう」

洋一がマスクを装着すると、二人は歩き出した。区役所に入り、マイナンバーカードの窓口がどこにあるかを涼子が受付に訊いた。ニ階にあるらしかった。目の前のエレベーターが開いたので、二人は急いで駆け込んだ。扉が閉まる直前に一人の女性が走りこんできた。

「あ、痛っ」

女性は勢い余って洋一の足を踏んだ。

「すみません」

マスクの上で黒い目が光った気がした。

「いえ」

この目を見たことがある。初めて会った人に対して洋一は懐かしさを感じた。胸がじんわりとあたたかくなるほどに。同時にとても腑に落ちないでいた。

その目を持っていたのは、人間ではなかったはずだから。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?