小説練習帳 ショートショート チョコレートの夜

僕がチョコレートの店に気づいたのは、ブラスバンド部を引退した日の夜だった。
高校最後の大会をさっさと予選落ちし、打ち上げのカラオケ屋で片想いしていたフルート担当の優と親友でバリトンサックス担当の細田が付き合っていることを後輩から耳打ちされるという人生最大の痛手を負い、命からがら自転車を漕いで家へ向かっていた途中、甘い匂いにおびき寄せられたのだ。

古びた窓枠の向こう。天井からぶら下がったランプ。温かな灯りのもとに一人の女性。
目が合う。そらす。信号を確認する。赤信号が強く光っている。
「ねえ」
引き戸が開くと、さらに甘い香りが強まった。
「はい?」
女性が近づいてくる。
「味見してくれませんか」
「え?」
「チョコレートを作っているんです」
「あ、はい、いい匂いですね」
「今日、友達が来てくれるはずだったんですけど、来れなくなっちゃって。一人で準備していたら疲れて味がよくわからなくなったんです。甘いものは嫌いですか?」
夏の海風がふたりの間を通り過ぎる。女性のこめかみが風に揺れる。
ミルクチョコレートのような優しい色合いの瞳が僕の心を和らげた。
「甘いものは、好きですよ」
「じゃあ、ぜひ。自転車はこちらにどうぞ」
女性は引き戸の横に誘導してくれた。
「楽器、やってるの?」
籠に入っているケースが気になるようだった。
「はい。ピッコロを」
「ピッコロ?」
「フルートの小さいやつみたいなのです」
「へえ」
あらためてピッコロの存在が地味であることを僕は再認識した。
女性について店内に入る。明かりのついていないショーケース。ボウルのなかで艶めくチョコレート。
女性はチョコレートをスプーンで掬い、僕の口元まで持ってきた。
「あーん」
僕はマスクを外し、スプーンを口に入れた。
記憶にないがこんなことを女性にしてもらうのは、母親や保育園の先生以外初めてだった。
恥ずかしくて顔が赤くなる。
「どう?」
「美味しいです。ちょっと苦いけど」
「夏だからあまり甘くないほうがいいと思ったんだけどダメかな」
「僕は好きです」
「本当?男性をターゲットにした商品だから、そう言ってもらえると嬉しい」
彼女は新しいスプーンでチョコレートを掬った。
マスクを外すと、小さくぽってりとした唇が表れた。
味見をたくさんしたのか、口の周りにはチョコレートがいくつかついていた。
スプーンを口に入れると真剣な眼差しで僕を見た。
「やっぱり私は味見しすぎてよくわからない。でも、あなたを信じることにする」
くしゃっと笑った顔につられてこちらも笑顔になった。
「チョコ、口の周りにいっぱいついてますよ」
「ほんと?今日、全部のレシピをおさらいして味見したの」
女性は舌先を出して口の周りをゆっくりと舐め回したが、チョコレートには被らなかった
「取れた?」
「取れていません」
舌先が右へ左へと周り、小刻みに動く。
「ちがいます」
僕は思わず親指でチョコレートを拭った。
指先が滑ってすぽんと親指が女性の口の中に入る。
さっきまで動いていた舌先が親指に触れた。
ミルクチョコレート色の瞳が僕を捉える。
親指は口に含まれ、丹念に舐め尽くされた。
僕は驚きのあまりされるがままになっていた。
「ごめんなさい」
親指から口を離したあと、女性は涙ぐんだ。
「見送るわ」
女性は僕を横切り、外へと向かった。

翌日、僕はチョコレート屋を再び訪れた。店の周りには黄色いテープが張られ、警察官が何人かと野次馬がいた。
「すみません、何かあったんですか」
僕は野次馬の一人である中年女性に声をかけた。

「死体が見つかったんだって」
「え?」
「随分、干からびているらしいよ。ここ、だいぶ前にどっかの金持ちが愛人囲ってるて噂でさあ、気まぐれにお菓子作って売ってた時期もあったんだけど、最近見かけないなと思ったらこうだからねえ」
担架に載せられた遺体が運ばれていく。
布にくるまれていて中は見えない。
僕は握りこぶしのなかで親指の感触を確かめた。

※最近、小説を書きたいと色んな案が浮かんではnoteの下書きにメモしております。珍しく一人称で書いてみましたが、それだとやはり長くは書けないし、そうなるとテーマとかも特になくなって、ありきたりな話になってしまいますね。しばらく、リハビリとしてこのような小説練習帳としてショートショートでも書いていこうかなと思っています。




















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