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語らないやさしさ

ここのところ巡りあわせが悪く、いろんな悩ましいことが重なっていて毎日生活することで精いっぱいだった。
疲れはたまって、だるく、まるで顔面に「きつい!」って貼り付けたかのような顔つきで過ごしていたと思う。余裕がなかった。

おかしい。
4月から息子が保育園に通いだせて、生活にゆとりができるはずだった。

不思議なことに、息子がいなくなった時間帯にできた余白はほかのことで埋められてしまった。まぁ(人生なんてかはわからんが)そんなもんかという気持ち、もっと英語の勉強増やそうと思ってたのにできないじゃないかという不満、いや多分自由な時間ができたってどうせ自分はそこまでストイックにするとかえってダウンするような人間なんだから言い訳に使ってるだけでしょ、とあまり好かない自分まで顔を出してきて、うだうだ、うだうだしていた。

そんな日、ちょっと夕方に横になっていたら、
体重の重みを受け止めてくれる布団がえらいやさしく感じて、疲れも吸い取ってくれてるような心地よさにずっとたまっていたものが出てきた。
はぁと大きな大きなため息。
ほんと、上の子を出産してからはため息と舌打ちは私のギリギリのガス抜きになっている。他の発散方法が選びにくい不自由さ。

そんなときに娘がリビングから来て私の横にすっと来てくれて、「よしよし」って私の背中をなでてくれた。

すごいなって思った。
(親ばかは365日年中無休)

こんなやさしさが自然にできることに感動してしまったのだ。

言葉を介さない方が伝わるもの。

「だいじょうぶ?」「どうしたの?」
何があったの?って尋ねることもない。

こんなにあったかいやさしいエネルギーを手は伝えてくれる。

言葉は言葉にしたとたん発している人のペースが生まれてしまう。

子どものことになるとことさらに親子でなんとか一緒にやっていきたいと思ってしまうからか、つらそうにしている子どもに言葉をかけたくなり葛藤することは多い。

何があったかを尋ねないとしても、「ゆっくり休みな」そんな言葉であっても、相手の心に合わない時はある。

言葉にはどうしてもどこかに「我」がこもってしまうと思うのだ。相手を傷つけたくなくても傷つけてしまうことは多い。私はこうやって文章を書くことは好きだけれど、たまにとても「言葉」が嫌になってしまうこともある。
言葉の限界を感じるのだ。

あのとき娘のぬくもりを感じた後に、娘は彼女自身がそうしてもらった方が助かったことが今までもたくさんあったんじゃないかと思った。
娘が苦しんできた経験が彼女にこんなことができる力を宿わせてくれたのかもしれない。

私もこれから彼女にとってこうありたい。
子どもに教えてもらえたと思う。

そしてそこからまたしばらくたって、私は相変わらずきついを背負って生活していた。
そして決壊した。涙が止まらなくなった。

子どもにあまりこういう場に居合わせさせることは本当はかわいそうなんだけれど、私はそんなできた母ちゃんではないから、子どもの方が成長してきて慣れてきた感は…ある。
コーヒーを淹れてくれた。


頭があがらない人が夫以外にまた増えてしまったなと思う。




そして少し余談

娘がこんなことを話してくれた。

弟(もうすぐ2歳)がこんなことをしてくれたんだという話。

娘がちょっと見知らぬ人のある行為で嫌なことがあって、部屋の隅っこに座って怒りと悲しみで沈んでいた時に、息子がとことことこ~と寄ってきてちょこんと膝にまたがり、手を背中に回しポンポンとしてくれたらしい。

「(そのあとに弟を)抱っこしたらさ、なんかあったかくてさー!」と。

いやぁ子どもって…ていうか子どもの方が…


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