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昆虫標本商 むしやまちょうたろう こと 西山保典 についての家族の想い
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蝶楽天の軌跡を追う[14]

蝶楽天の軌跡を追う[14]

いよいよ、追悼集が完成して届いた。姉妹でも見たことがないというにこやかな兄の笑顔が表紙だった。手には蝶々が乗っているので、それが堪らないのだろう。追悼集には140名もの方々の追悼文や写真を送ってくださったそうだ。あまりにも沢山の投稿をいただき、昨年末、一周忌と予定がずれ込むほど大変な作業だったらしい。最終的に目指した発行日は六月四日で所謂「むしのひ」に発行された。ちなみに、このむしの日は養老孟司さ

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蝶楽天の軌跡を追う[13]

蝶楽天の軌跡を追う[13]

兄のシンパである方たちの手によってスタートした「蝶楽天」の追悼集プロジェクトには、家族として協力を求められてきた。私達に課せられた、兄の誕生からの年譜を支える写真や説明の文章については以前の打ち合わせで説明したり、その後のメールのやり取りで更新を加えていた。写真の選択をされたものに説明を加えたものを交換して校正の中に入っていたのだ。追悼集は皆さんが思うことのページと兄の年譜とで構成されるので兄の人

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蝶楽天の軌跡を追う[12]

蝶楽天の軌跡を追う[12]

日本一の卒業アルバム "玉川っ子"

むしやまちょうたろうの軌跡を追ってきたが、彼の代名詞ともいうべき昆虫界の週刊誌Weekly Butterflyとも呼ばれる雑誌TSU・I・SOの源流ともいえる諸作が、高校生の時に兄が編集作成した玉川学園高等部の卒業アルバムだ。時代は1966年3月の発行だ。写真は、その中の兄のクラス「天城組」だ。兄も写っていて、この写真は青い山脈でもはじまりそうな雰囲気の時代で

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蝶楽天の軌跡を追う[11]

蝶楽天の軌跡を追う[11]

兄の遺骨は、パートナーの方に寄り添われて海に向かい、ここ東京湾に散骨されました。冥界で更に自由な身となった今は、各地に赴いて居ることでしょう。現世でこれ以上自らは行うことがなく周りが想いを語ることで美化されてしまうのかもしれません。兄はかつては、フィリピン人の方と結婚してマニラ郊外に家もあったのですが、いろいろな採集地に行き来して本拠地はずっと日本でした。パスポートはすぐにページが足りなくなってし

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蝶楽天の軌跡を追う[10]

蝶楽天の軌跡を追う[10]

昆虫採集家・標本商などの一面についてはネットの記録や書籍雑誌記事などから分かることが多い。兄は人たらしの側面があり、自分の気に入った美味しいものなどがマイブームとなると、それを食べさせたりお土産に持たせたりするのもとても愉しみにしていた。そうした兄の癖は、話題としての虫仲間の人達との語らいにも大きく影響して増強していたのではないかと周りの方が投稿するSNSでの写真などからも推察される。

兄からの

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蝶楽天の軌跡を追う[9]

蝶楽天の軌跡を追う[9]

もう一つ国会図書館に依頼していた、科学朝日の記事コピー「むかし昆虫少年だった」が届いた。こちらも白黒ページだったのか既にマイクロフィルムになっていたようだ。これは朝日新聞科学部記者の柏原精一さんが、科学朝日で連載されたシリーズです。色々な業界人の昆虫愛好家と対談したものである。連載終了後に「昆虫少年記」として出版もされている。柏原さんご自身も、虫仲間でもある。
この記事が本になった物は米国在の姉が

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蝶楽天の軌跡を追う[8]

蝶楽天の軌跡を追う[8]

さて、兄の足跡をネットで追いかけている中で、千葉にある実家には、そこを倉庫にしていた兄の出版したクワガタ図鑑や昆虫展示会向けに作成した珍しい図譜などが大量に保管されていた。フルカラーで作られた図鑑は兄からのプレゼントとして昆虫に興味をもつ子供たちに出来るだけ届けたいのである。少し重いしっかりした図鑑は1.3kgもあり、同じもので並装の図鑑でも900g程度はありそうだ。厚みもあってメルカリが日本郵便

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蝶楽天の軌跡を追う[7]

蝶楽天の軌跡を追う[7]

国会図書館に複写依頼していた、雑誌のページが届いた。所蔵は京都にある関西館という所のようだ。発行されている全ての本が納本されているのかどうかは知らないが凄いアーカイブになっているのだろう。カラーページがあればカラー複写でお願いしたが、生憎とサンデー毎日の記事なので白黒だった。記事のタイトルは「虫の目虫の声」というもので2000年5月のものだった。岩本宣明さんという方がシリーズで昆虫界の人たちを四人

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蝶楽天の軌跡を追う[6]

蝶楽天の軌跡を追う[6]

大蔵生物研究所は、古くから昆虫界にいらっしゃる方々ならばご存じの昆虫採集と研究の両輪で標本商と図鑑を手掛けられてきている老舗ということになるようだ。そこではデパートの屋上などで子供向けにカブトムシを売ったりするイベントもしていたらしい。
兄は玉川大学をやめてから大蔵生物研究所でお世話になって研鑽を積んでいたようだ。オイルショック直前の夏休みの頃に兄からアルバイトを頼まれた日本橋百貨店白木屋でのカブ

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蝶楽天の軌跡を追う[5]

蝶楽天の軌跡を追う[5]

昆虫界の週刊誌であるTSUISOは、国会図書館に納本されているのでバックナンバーは全部読めるつもりでいた。木曜社から株式会社エルアイエスになり又木曜社にと発行主体が活動しているベースに合わせてTSUISOの編集後記の下に書かれている内容は更新されてきた。兄からは国会図書館に全て出していると聞いていたので、標本商をしながらも研究者としての記録として図書館に納本することを矜持としてきたのかと思っていた

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蝶楽天の軌跡を追う[4]

蝶楽天の軌跡を追う[4]

兄が最初に虫仲間の会に参加するようになったのは当時関東地区にあった京浜昆虫同好会というグループの木曜サロンが始まりらしい。兄が幾つくらいから参加しだしたのかは不明だが、当時参加されていた方のブログを見つけて、おそらくは高校生の頃には参加していたのだと思われる。まだネットもない時代なので最初からオフ会しかないということでもあった。そしてそうした場で交換しあう情報が貴重な活きたものであり、それが記録さ

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蝶楽天の軌跡を追う[3]

蝶楽天の軌跡を追う[3]

私の記憶は、戦後復興から経済発展をしていく時代の東京原宿で始まっている。今では、生活の木という店に転換してしまったが、祖母の弟が始めた重永写真館で撮っていただいた。恐らく重永の叔父が撮ってくれたものだと思う。兄・姉・私・祖母である。玉川学園に通学始めていたころの兄でもある。

兄の印象は、いつもりりしく恰好のいいというものだった。8つ離れた兄にとっては早世した弟(次男)のことを思ってかわいがってく

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蝶楽天の軌跡を追う[2]

蝶楽天の軌跡を追う[2]

長兄が、昆虫に没頭したのは子供時代の思いがあるのだと思う。彼が生まれたのは終戦直後の大洲市あたりの田舎だった。ここで代用教員をしていた父が、銀行マンとして松山で勤めるようになり街中での暮らしになってから、また広島勤務で廿日市の佐方あたりの田舎暮らしに舞い戻り自然の中で幼少期を過ごせたのがきっかけだったのだろう。兄の戸籍は、愛媛の生誕地であり両親が戦後結婚した本籍地になっていた。兄妹で結婚していった

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蝶楽天の軌跡を追う[1]

蝶楽天の軌跡を追う[1]

4/7早朝 療養中の長兄が亡くなった。兄は昆虫採集家であり、「むしやまちょうたろう」昆虫標本商ともいわれて世界各地に採り子を擁して活動もしていました。晩年は、自身の事を蝶楽天と呼んで白楽天のように暮らしていこうとしていたようです。ここでは、そんな兄の軌跡を探索して振り返っていきたいと思います。

昆虫界では、唯一となる月3回発行の週刊誌TSU-I-SOを長年にわたり主筆として発行してきました。

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