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蝶楽天の軌跡を追う[14]

いよいよ、追悼集が完成して届いた。姉妹でも見たことがないというにこやかな兄の笑顔が表紙だった。手には蝶々が乗っているので、それが堪らないのだろう。追悼集には140名もの方々の追悼文や写真を送ってくださったそうだ。あまりにも沢山の投稿をいただき、昨年末、一周忌と予定がずれ込むほど大変な作業だったらしい。最終的に目指した発行日は六月四日で所謂「むしのひ」に発行された。ちなみに、このむしの日は養老孟司さんが命名されたらしい。多くの方が追悼集編集委員会の世話人として多くの追悼集の参加に尽力していただいた。編集作業に当たられた方々も、兄の事務所整理を通じて知った図鑑や冊子の編集にご協力をいただいてきた方々のようである。今回の編集責任者の労を取っていただいたのは国営放送局で記者をされている斎藤さんだ。

兄の晩年を支えてくれたパートナーの方や親族である私たち弟妹とのインタビューを兼ねた食事会などでお話をして、宴席に参加できない離れた姉妹とはテレビ電話でそれぞれの違った側面を聞き出してくれていた。私達弟妹は、虫好きという趣味が発覚した人が知人にいると、兄の事をしっていますかと話すのだった。そんな時に兄の幅広い交友や著書についての感謝を伝えられて驚いたりもする。また姉の知り合いの医師の卵には兄が編集に携わった東南アジア島嶼の蝶という図鑑までも購入されている方もいらっしゃったようだった。この本は、膨大な実際に採集調査して得られた標本から東南アジア地域の蝶の分布を明らかにして欧米人の昆虫採集家研究家を震撼させたものだったらしい。

そんなビッグなプロジェクトを支えてくれた昆虫界の巨人塚田悦造さんとの出会いこそが兄の最も大きな功績であるともいわれている、兄の生前最後の想いはこの塚田さんの一代記を纏めてほしいというものでもあり、今回の追悼集の中で、編集のバトンを受け取って取り組まれた斎藤さんの手ではじめて塚田悦造氏の聞き書き一代記「大英博物館を超えた男」として収録していただいた。とても興味深い、東京オリンピック前夜でのバレーボールセッターとして期待されていたという塚田さんがその任を振りほどいて猫田さんを指導していくという歴史などもあり自分が生きてきた時代で活力あふれるひとなのだと改めて恐れ入ったりしました。実務を始めるまで親父の借金返済で三年間鉄工所で働かされるなどの状況からも復帰してスタートにたつと、いろいろな仕事に取り組んでどんどんアイデアで仕事をものにしていったのは時代の寵児だったといえるのでしょう。戦後昭和の世相の中で逞しく事業を拡大しそうして得た資金をベースにして昆虫採集に没頭していくという彼が投じた費用は40億円だそうです。そうした資金で兄も活動をしていたのは違いないです。

一つ一つの追悼文や記事がそういった深みがあって嵌ってしまうのだった。色々な方に図鑑の編集などにもご協力をいただいてきた。どのページを読んでも、筆者の方と兄の交友あるいは、兄への想いが伝わってくるものだった。編集に携わった方の編集後記には兄とはあったことがなかったものの、本の編集を通じて虫仲間から話を聞いてきていつかはお会いすることがあるだろうと思っていたところに訃報を聞き、追悼集の編集として相まみえることになったそうだ。色々な方の追悼文から聞く沢山のストーリーに対峙する中で兄の想いにも触れることができたそうだ。

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