「茜の鏡面・後編」
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3.
幼い日の痛みと、息の苦しさを、忘れる日はありません。
一面隔てたおそらは、もうわたしのもとへ訪れることはありません。
いい聞かせて、それでも今日も明日も、おそらを見上げます。
「どうですか」
思わず、痛そうですね、と、男は眉を顰めました。
病室のような部屋の中、一枚、一枚とピンセットのようなもので剥がされた薄い板が、こどもたちの傍へ落とされて行きます。
「痛くないんでしょうか」
どうでしょうな、という会長のことばに、男は目を丸くさせました。
朱から白へと変わるこどもたち。身をよじることはあれど、表情筋も無く眉の一つも動かさないそれらの座る空間を、何か異質なもののよう、男は眺めていました。
「水へ落とします」
こどもたちの居る部屋を出て、庭に面した渡り廊下を歩くふたりは、そんな話をしていました。
「それまでは、ここで息をしているのですが」
と会長が口を指すのを見て、男はかのおんなの鎖骨から漏れる泡を思い出し、はっと息をのみました。
「変わるのですか」
「ええ、そこで溺れてしまうこともありますが、たいていは。
その日から、あのこどもたちは一匹と数えられるようになり、成魚になってようやっと市場に出るのです」
水中で一生を終えるのですよ。そう微笑みながら言う会長へ、男はいろいろと質問をしました。
淘汰される種、人の手と歴史と美意識。男の感じていた「かすみ」が、何かの形を成そうとしていたとき
「そんなに気になるなら、あなたも一匹、いかがですか」
何気ないその言葉に、男はこころの見えない部分がじくりと痛むのを感じました。
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4.
美しい形として選ばれ、美しい模様として鱗を剥がれ、美しい種として次代へ繋がれる。
地金の運命は、そんな風に紡がれて行きます。
大きな水槽のなか、いろいろな形のそれがひしめいていました。
腕までひれの伸びたもの、ひとの体にすこしばかりの背びれのあるもの、何かを話すように口を動かすもの。
病室の中で見たものたちとは幾ばくか異なった雑多に泳ぐそれらは、背伸びをしたこどもの小遣いで買えるほどの値段でした。
大きな水槽のなか、ひとの「足」を持たないそれが、美しい尾びれで泳いでいました。
きれいですね、と男が言うと、会長は少し鼻で笑って、あれは魚に近すぎます、と言いました。
「駄目なのですか」
「これの相場はそうと決まっているのですよ」
「しかし、これはこれで美しいのでは」
「では、あれとうちの、どちらが美しいと思いますか」
そのことばに、男は押し黙るしかありませんでした。それを理解してしまう自分に対しても、なんだか霞みは深くなっていくようにも感じていました。
すいません、と、男は店員に声をかけていました。
がらすの鉢の中に、先ほどのそれが泳いでいます。
成人の三分の一ほどの大きさのために、あのおんなほどのおおきな鉢ではありません。
暗い自室の中、男はぼんやりとその鉢を眺め、物思いにふけっていました。
どのくらい時間がたったでしょうか。
それが上を眺めています。
男はそれをじっとみつめていました。
それの見上げる水面は、朱く揺らめいていました。
ひれを反射しているようでした。
「…おそらのいろは」
男は目を丸くしました。
あの日の言葉が聞こえたような気がしたのです。
男は部屋のカーテンを開きました。明け方の白んだ空が、青くとけていく最中でした。
眼前に広がる空を、それは見つめていました。
その目に映るのは、青い色でした。
目線を感じたのか、それは男の方を向き、そして、無邪気そうに笑いました。
風が吹いて、カーテンが揺れました。
白んだ空はすっかり青く澄み渡っています。
嬉しそうに笑い、美しい背びれでぱたぱた泳ぐその姿を見て、男はやっと、はは、と、笑いました。