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【読書note No.9『エロティシズム』】
#哲学 『エロティシズム』
— ひー坊@本と映画が好きな31歳 (@koji202207) June 6, 2024
「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える。」
私達が何気なく使っている「エロ」という言葉。普通のSEX とは違って、死におけるまで生を称えることは平然と死に挑むこと、と書かれています。安易にこの言葉を使っちゃダメですね。#読了 pic.twitter.com/TKVk2gzfto
大人の動画に毎度お世話になっている私が、ずっと考え続けた事がある。
エロとは何か?
という事です。
エロい事=不謹慎な事、語る事はタブーと一般的に言われています。
でも、本当にそうでしょうか。
作家澁澤龍彦が責任編集のもと、出版された『血と薔薇』(1968年)という雑誌があります。※現在は、文庫になっています。
冒頭宣言の中の一つに、次のような事が書かれています。
およそ、エロティシズムを抜きにした文化は、蒼(あお)ざめた貧血症の似而非(えせ)文化でしかないことを痛感している私たちは、今日、わが国の文化界一般をおおっている衛青無害な教養主義や、思想的事大主義や、さてはテクノロジーに全面降伏した単純な楽天的な未来信仰に対して、この雑誌をば、ささやかな批判の具たらしめんとするものである。エロティシズムの見地に立てば、個体はつねに不連続であり、そこに連続の幻影を垣間見るにもせよ、一切は無からはじまるのであり、未来は混沌とした地獄のヴィジョンしか生まないだろう。
この宣言は、的を得ています。
数々の女性と浮き名を流した光源氏を題材にした源氏物語が、一人の女性を一途に愛して、不貞行為に全く興味がない男の物語になったらどうでしょうか?
人間としては立派だと思いますが、物語としては面白みに欠けます。
そんな退屈な物語だったら、絶対に読みたくありません。
源氏物語だけでなく、海外の古典や芸術からエロが消えたら、それは文化として死んだと言っても過言ではありません。
つまり、エロは、文化が文化でありつづけるためには、必要不可欠なものと言えます。
冒頭の疑問に戻りますが、エロとは何でしょうか。
エロを考える上で避けては通れない、この本を今回紹介します。
エロティシズムとは死におけるまで生を称えること
この本の冒頭で、バタイユは上記のように述べていますが、この表現だけで、意味が分かる人は少ないと思います。(私もその一人です。)
しかし、『文学と悪』(1957年)という文芸論を紐解くと、その意味が繋がります。
ところで、エロチスムとは、死を賭するまでの生の讃歌ではないだろうか。性欲にはすでに死が前提として含まれている。それというのも、単にあらたに生まれるものたちが、消え去ったものたちのあとをうけつぎ、それにとってかわるという意味からだけではなく、性欲とは生殖しようとするものの生を危うくするものだからである。(中略)いずれにせよ、性欲発情の根底には、自我の孤立性の否定が横たわっている。つまりこの自我が、自己の外にはみ出し、自己を超出して、存在の孤独が消滅する包容のなかに没入する時に、はじめて飽和感を味わうことができるのだ。
バタイユが説くエロティシズムの鍵を握るのが、死です。
この死との関係について、次のように語っています。
エロティシズムは、死へと開かれている。死は人を個体の存続の否定へ開かせる。私たちは、内面の暴力がなかったならはたして、私たちを可能なこといっさいの限界へ導く否定を引き受けることが出きるだろうか。
ただ、SEXをする事だけが、エロではないんですね。自分の存在がなくなる=死ぬかもしれないという感覚を伴った性活動がエロティシズムであるとは…。
インターネットが発達してきて、エロコンテンツは瞬時にアクセスできるようになりました。しかし、そのエロコンテンツは、本当にエロなのか…と問い直す必要があります。
今まで、男女のSEX を見て興奮していた私は、この本を読んで反省しました。
安易にエロという言葉を使ってはいけないんだな、と。
バタイユのこの言葉で、締めたいと思います。
エロティシズムとは、少なくとも語る事が難しいものであります。
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