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プログラミング言語愛憎物語

下書きで準備していた記事を投稿するだけだとちょっと1日が物足りなくなってしまっている、noteにしてやられてるなぁ、と思う今日このごろです。毎日投稿するという「自分ルール」「お題」がいつの間にか習慣になってしまった感があります。


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ここ数日で『自分の中にプログラミング習得法を探す』というシリーズ投稿をしてみました。

このシリーズを書きながら自分のプログラミング遍歴を振り返ってみたわけですが、それで思うのは、プログラミングを勉強し始めた初期のほうがこだわりが強かったなぁということ。

考えが浅かった幼稚なときのほうが「あれがいい」「これはやだ」「こうあるべき」というのがとにかく強かったですね。そういう余計なことばっかり考えてました。

どうせ趣味だからとか、会社がこの言語やれって言ったからとか、できなくても死ぬわけじゃないからとか、そういう浅いレベルを終了して、コードが書けないとご飯が食べれなくなってしまうという状況に身を置くようになってから一気にこだわりがふわーーーっとフェードアウトしていきましたね。

例えばシリーズ投稿その3のPerl編で、Javaの話が少し出てきますけど、これだけ読むと別にJavaを毛嫌いしている感じは出てないと思います(むしろ尊敬・歓迎している感じすら出てます)。でも、10年くらい前はJavaが大嫌いでしたね。今脳内で蒸し返すと「なにもそこまで」と思うくらい嫌ってました。Javaの考え方・哲学も嫌いだったし、コードも虫唾が走る思いで眺めてました。そうやって毛嫌いしていたのは多分余計なこだわりが原因なんですよね。なんでそこに変なこだわりが持ち込まれたかという理由の部分はなかなか言語化が難しいので端折りますけど、大雑把に言えば『愛憎』だったんじゃないかと思います。

今は、というと、Javaは便利だなぁとしか思わないです。ときどき、どこかのサービスのAPIドキュメントでJavaがサンプルコードで書かれていたりしても全く気にならなくなりましたね。あと、API仕様の種類が古いやつだとJavaのライブラリから叩くのが現実的な近道だったりするときがたまにありますが、そういうときは躊躇なくJavaのコードを書きます。

この落差すごいです、個人的に。この10年の間になにがあったんだと、むしろ不思議です。『こだわりがなくなった』ということでは、Javaは出会ってからが長いですから、こういう落差を顕著に感じられます。

あ、で、こだわりなくJavaのコードを書くようになったからと言っても、自分がJavaプログラマだとは全く思いませんね。必要に迫られたら読んだり書いたりしているだけなので、Javaが思考回路と直結している感覚は全然ないです。外国語を話している感じです。だから、任意に言語を選択していい場面でJavaが選択肢にあがることはないですね。


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プログラミングの世界に入っていく感じというか、その世界観に慣れていく過程というか、それってひとつの『成長物語』だと思うんです。

Javaは最初「プログラミング言語の代表」であり「これしか知らない」という思いもありました。それがある時期「見るのも嫌」になり、今は「あると便利」になった。

実は現在メインで使っているPythonはまた違ってて、最初「見るのも嫌」「できれば無視したい」と思っていて、その後仕事で必要に迫られながら使っていくうちに「思ったより便利じゃん」となり、「他(Perl/Ruby)より全然俺向きじゃん」を経て、「これがないと仕事がしにくい」「Pythonでコーディングできるならこの案件も受けれるな」までになりました。

これってなんなんでしょうね(笑)。プログラミング愛憎物語みたいな…。


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なにかの言語や技術に対して、上辺だけの認知だったり、すれ違ったままだったりするうちは、なんとも偏見に満ちていて、正確な判断はなにもできていないんじゃないかと思うんです。

その対象を受け入れるにしても避けるにしても、本当に納得してそうするには、やっぱり一旦ちゃんと出会わないといけないと思います。

日々勉強しろってことですね。

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