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笑顔のために出来ること

人のこころには幸せな記憶とそうでない記憶がある。その記憶のどちらが好きかは決まっている。それをどう自身の心から引き出すかを解っているようで知らなかったなら。。。

前回、『気づきとこころ』というお話をしました。
その「気づき」には2つの気づきがあり、その1つが”自分で気づく”、もう1つが”人に気づかせてもらう”でした。ただ、その”気づき”は結果、どちらも自分の心を一旦止めて、触れる”もの”に気づくためにあったのです。もし、まだ読まれてない方は下記を読んでいただき、この話の続きをご覧ください。

話は少しズレますが。
何度も”心のカタチ”の話の中で云っていることがあります。それは自分たちが『心を知っているようで実は知らない』です。

そんな不安定な心で何か出来事が起きれば感情を湧かす理由をつくり、そして湧いた感情が止めれなくもさせます。それは感情が感情を湧かす理由(れんさ)となり、自身のこころを止める理由(きもち)を見失わせます。

そこに『笑顔』はありません。

笑顔とは

笑顔はどんな時に醸し出しますか。
たぶん、こころが幸せを感じている時に醸し出ているんじゃないでしょうか。

自分たちは心を知らなくても、笑顔を醸し出すことは出来ています。
しかし、いつしかそんな笑顔さえも醸し出せなくなっている人を見かけます。その方々はふっと自身を振り返ると笑顔がなかったと気づくのです。それに伴って幸せをも感じれてないのです。

笑顔とこころは繋がってます。そのこころの中心には”気持ち”があり、自分たちの気持ちは”幸せになりたい”といつも自身に思わせてます。そんな気持ちと自身におきる物事が共感すれば、笑顔は自然と醸し出します。それを自分たちは判ってます。ただ、その笑顔の醸し方を感情により忘れてしまうのです。

笑顔は醸し出る”もの”

笑顔を感情で醸そうとすれば、それは”苦笑い”といいます。
笑顔は幸せを感じれるからこそ”気持ち”の表れとし醸し出される”もの”です。それは、”水を得た魚の如く”ぴょんぴょんと幸せを感じている間、その笑顔は醸し出し続けます。笑顔とはそういう”もの”なのです。

そして笑顔の理由には、こころの中に記憶する幸せを感じるタネ(きもち)を持ちます。それは「気づき」によってそれを表情へと成長し醸します。それは、相手のこころに限らず、自身の"気づき"でもこころのタネは育みます。

それは自分でも相手でもどちらでも良いのです。そのタネに幸せと云う水さえ与えれれば、悩みや病んだ心には特に効くのです。こんな言葉があります。

「水を差す」
辞書で調べてみるとこんな説明がありました。

邪魔をすること、横槍を入れること。

辞書;Weblio辞書より

人や自分の心にそんな水を与えてませんか?

人はひょうなキッカケで感情が湧くとどうも間違った水を自分にも相手にも与えがちになります。水は本来、生命の源となります。その水を間違えて使えば毒となる意味を持つ言葉にさせます。(ぽち☆の勝手な解釈)

そもそも、他人を自分のこころと相手のこころを異なる”もの”と思うことありませんか。それ事態がこころに間違った水の与えてます。

どちらも同じです。
同じ”もの(しあわせ)”を望むこころだからこそそう云えるのです。
それでも、他人と自身の心が違うと思うなら、それはその人の人生が創り上げた記憶(かんじょう)を持った塊(こころ)と自身の塊が違うと思わせてます。そんなでは誰一人同じこころがないのは当たり前となります。同じ人間どおしなのに。

笑顔は、こころの中にある記憶(きもち)が引き出された時にのみ、笑顔は醸し出る”もの”です。

記憶(おもいで)に触れる

人は何故、笑顔を醸し出すのか。
それは、その人のこころの中にある”幸せな記憶”に触れるから醸し出さずには居られないのです。幸せは誰もが望むことで、それを嫌うひとは独りもいない。だから、笑顔が醸し出てしまうのです。

しかし、それが出来ない人もいまます。その人は悩んでいるか心を病している方に多く見受けられます。それは、何らかの感情を湧かしてしまい、その感情は”考えるや思う”をさせてませんか。それが更なる感情を湧かさせ自身でその感情を止めれなくなった方々です。

何かキッカケでその感情に気けさえすれば、一旦立ち止まることも出来ますが、その感情に邪魔をされるばかりで自分では気づけれなくなってます。もっと心を知っていれば自分自身で気づく術は幾らでもありますが、今は1つの術も知る由もありません。

ならばどうするか。
簡単です。
人に気づかせてもらえば良いのです。

と云っても特段なことは必要ありません。普段誰もがしていることでいいのです。それは、大切にしているひと、関係を崩したくないひとと極自然にしていることの1つです。

それが今回話してきた『幸せな記憶』に触れることです。どんなに感情的になった人でも、どんなに心を病した人でも、その幸せな記憶があり、それに触れられると”笑顔”は醸し出ます。

自分たちは、それは相手を知れば知るほど、その記憶(おもいで)を知り得ます。だから、相手が辛くなっている時にこの術は感情で埋もれた心の中でも”気持ち”に声を届けます。そこに同情(かんじょう)あれば伝わるものも伝わりません。相手の記憶に触れ幸せを引き出す言動(こえ)のみです。

皆さんも知っていることに。
命令(かんじょう)では人は動きません。ひとは感じてこそ自分のため、人のために動いてしまうのです。要は感じさせる事(りゆう)がなければ伝わらないのです。

こんな人もたまに見かけます。
喧嘩をして相手の嫌がることを口にしてしまう人。それは嫌がる記憶に触れ苦しめる例です。それでは誰もが思う”幸せになりたい”と真逆です。相手の心の中にある不幸な記憶に触れ引き出すだけです。それも互いがやれば行くところまで行ってしまいもします。

そんなでは感じさせるどころか、感情を湧かさせ「考えるや思う」をさせてしまいます。

あぁ~ぁ。喧嘩が出来るぐらいなら”幸せな記憶”をも引き出せる人なのに、こころの使い方を間違ってますね。こんな言葉もあるなぁ。「喧嘩できるほど仲が良い」幸せな記憶を引き出せる仲と云う意味かなw

積み上げる

何気ない会話には”笑顔”と”無表情”と”笑顔でない顔”がある。それらは相手の気持ちや感情から湧いた表情であり、それで相手の心を知ることがでる。

例えば、感情的な人や心を病した人に言葉をかける時、どう話せば良いかを考える事をしてませんか。それでは到底相手の気持ちには触れられてないのではありませんか。そんな事をするよりも他愛のない会話がこころに触れ、その3つの表情どれか表れ知り得ます。

この話は相手の心を不幸に想わせてしまう。
この話は相手の心に幸せを感じさせれると。
そのどちらかです。

それをひとつ1つ自身が記憶することで”幸せな記憶”を共有し積み上げます。自ずと相手との会話はそんな幸せを感じさせる会話に変わるのです。それは誰もが思う”幸せになりたい”がこころにあり、共感する術を知り得ます。

それは愛する人どうしなら極自然としていることです。

それは誰にでも出来る術なのです。
ただ、今まで心を知らな過ぎたから”考えるや思う”をしてしまい判らなかったのです。

だから、そんなふたりが喧嘩をしてしまうとその真逆となり、不幸な記憶をも知った仲だからその嫌な記憶に触れて引き出してしまうのです。

自分たちは心を知らないばかりに、どちらにも触れてしまいます。それが「眼には眼を歯には歯を」と同様に”感情には感情”を無意識に引き出しているのです。

ならば、それを正すには自覚して”幸せな記憶”に触れることしか、相手の気持ちを元に戻すことはできません。極自然にできていることこそ相手のこころに感じさせるチカラがあったのです。

それは”笑顔”を醸すことで判ります。その笑顔を見過ごしてしまったのです。その積み上げこそこころの距離を縮める術です。

笑顔のために出来ることは、相手の心の中にある”幸せな記憶”に触れているだけでよく効くのです。

(心のカタチより)

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