【連載】家族会議『嫌われる勇気がありすぎることの弊害』
「親戚で一番幸せな家族になろうよ」のひと言から始まったわが家の家族会議。その様子を、録音記録をもとに書き記しています。
前回の記事はこちら。
家族会議5日目#5|嫌われる勇気がありすぎることの弊害
――人の気持ちを考えている。考えて察して気をつかっている。だから人の気持ちがわかっている。
そう上手くは行かない。
人の気持ちを考えて気をつかっていることと、「人の気持ちがわかる」ことはイコールではないのだ。
この違いに気づくのは難しい。母は自分が「人の気持ちがわからない人」であることを指摘されても、なかなか受け入れることができなかったと言う。
わたし:
お父さんもおそらくそうだと思う。先回りしていろいろやるのに上手くいかないっていうのは、そういうことなんだよね。すごい考えて、すごい役に立とうと思ってやるのに上手くいかないっていうのは、結局のところ自分視点だからってこと。自分本位というか。
すごいわかりづらいの。実際自分は考えてるから。相手のこととか状況とか。もう良かれと思ってやってるから、受け入れるの難しいことだよね。
わたしもそうかな。わたしも自分本位。なんだけど気にしてないって感じかな。自分本位なことを。
母:
自分本位で考えてても、全く正反対じゃなくて、その人の気持ちと合ってるところもあるかもしれないけどね。
――確かに、自分本位だとしても、相手の気持ちと合っていることはあるかもしれない。だけどそこに、相手を思いやる気持ちがなければ、結局のところ合っていても気持ち悪いのだと思う。
わたしも両親のことは言えず、自分本位だ。
ただ違うと思うのは、自分本位なことを自覚している点である。相手の気持ちと自分の気持ち、それぞれを並べたうえで自分の気持ちを優先する。相手の意に沿わないとしても、自分を通したいときがあるからだ。
だからわたしは、相手に嫌われることも受け入れている。
わたし:
あれかな、嫌われる勇気。
わたし『嫌われる勇気』は共感できるっていうか、自分がやってるっていうか。あれ読んで、わたし『嫌われる勇気』がある人なんだなって思ったんだよね。
だから自分本位でやってて、何だろう、相手の気持ちを大して考えてないときもあるけど、自分本位なことって嫌われるかも知れないわけじゃん。
だけど嫌われてもいいやって思ってるから、その分は堂々と意見できるって感じかな。
――嫌われる勇気を持つことは、あえて嫌われようとすることではない。嫌われれば悲しいし寂しい。
母:
嫌われるっていうのは、自分が嫌われるんだもんね。その人に迷惑かけてるわけじゃないんだもんね。迷惑かけた結果の嫌われるではないでしょ?
わたし:
そうとも限らないと思う。だって嫌われるってことは、相手が嫌な気持ちになってるっていうことだから。
母:
嫌な気持ちになってるってこと?
わたし:
じゃないと嫌わないよね。
母:
そうか。
わたし:
それが正しいかどうかっていうのは別として、って感じ。相手が嫌な気持ちになったら嫌ってくるよね。
母:
そうだね。
わたし:
相手が悪くてもわたしが悪くても、どっちにしろ。嫌いになれば嫌い。
わたしが前の職場で嫌われてたっていうのも、ある意味わたしは、仕事として正当な主張してたって思ってるから、なんら痛くも痒くもないっていうか。少しはかゆかったかも。けど、間違ってないしみたいな感じ。
母:
堂々とした気持ちでいれば。
わたし:
嫌ってくる人は、まあしょうがないかみたいな感じで。
母:
そっちの都合ってのもあるからね。人を嫌うときね。
わたし:
うん、結構みんなそっちの都合で嫌ってくることは多いよ。
例えば痛いとこ突かれて嫌な気持ちになって、それで嫌ってくる人は多いって感じがするよね。
母:
そうかもね。痛いとこ突かれればね。それがなんだろう、反省とかじゃなく嫌う。
わたし:
そうそうそう。そうなんだけど。でも、それでも嫌われたくない人、いるでしょ?それで自分の意見を通せないみたいな。それだと変な歪みが生まれるよね。気持ち悪い付き合いだよね。それって。
――相手の気持ちを尊重することと、相手に気をつかって合わせることは違う。自分の気持ちを押し通したとしても、相手の気持ちや考えは相手のものとして受け入れる、認める。ということだと思う。
そこを無理に自分に合わせてもらおうとしたり、自分が相手に合わせようとしたりすれば、どちらかが「我慢」を強いられる。
その我慢が恨みになり憎しみになるのだろう。
- 今日はここまで -
嫌われる勇気を持ちすぎると、それはそれで歪みが生まれると思う。行き過ぎると自暴自棄になったり、率先して嫌われようとしてしまったりして、コミュニケーションを拒絶することがある。
わたしがそうだった。発端は相手からの拒絶ではあるけれど。
本当はわかり合いたい。お互いの気持ちを尊重し合いたい。だけど、わかり合って尊重し合うような関係が築ける人は、そう多くはない。
拒絶されれば、嫌われれば、結局のところ悲しい。悲しくなると、今度はこっちが断固拒否する。拒否すると今度は相手が気をつかってきたりする。そのときのわたしに、もう寛容さなど残っていない。
嫌われる勇気がありすぎるがゆえ、関係性の再構築が難しいのだ。
それが今の、わたしと父の関係性である。
<次回に続く>
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