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【連載】家族会議『認知の歪みと論点ずらしの合わせ技』

「親戚で一番幸せな家族になろうよ」のひと言から始まったわが家の家族会議。その様子を、録音記録をもとに書き記しています。

前回の記事はこちら。

家族会議6日目#1|認知の歪みと論点ずらしの合わせ技

——2000年1月11日。家族会議がはじまって連続6日目になる。

【家族構成】
父:自己愛性パーソナリティ障害。頭に血が上ると大声で威圧する。
母:自己肯定感が低い。自分の意見を言えない。
姉:うつサバイバー。心理カウンセラーをしている。
わたし:性犯罪サバイバー。家族会議を主導する。
※遠方に住む姉は家族会議には参加していない。
※家族会議の目的は、夫婦仲の改善と、うつを抱える姉の気持ちをわかってあげられるようになることである。

わたし
昨日おねえちゃんと電話で喋って


うん

わたし
朝お父さんにも言ったんだけど、お姉ちゃんの友達(カウンセラー)がアドバイスをくれたっていう話をね。


——姉は家族会議の報告を聞きつつ、時折父や母と電話で話している。


わたし
お姉ちゃんがうちの話をしたら、友達がアドバイスくれたんだけどって。
多分お姉ちゃんとお父さんが電話で喋ったときに、お父さんが「もう自分でやりますから」って言ったことについてだと思うんだけど。


自分でやるっていうのは?

わたし
自分で完結するってこと。


——父は、人から認められたい、褒められたいという欲求が強い。その根本的な原因は幼少期にある。幼少期、母親に十分に気持ちを満たしてもらえなかったからだ。

その傷ついたままの幼き心を癒し受け入れていくことが、父には必要とされている。いまだに他者承認を過剰に求める父を見れば、それは明らかなことである。

しかし本来は、他者に求めるのではなく、自分で自分を癒し受け入れていくことが必要なのだ。

なのだけど・・・。


わたし
それはなんていうか、最終形というか理想系というか。最終的にはそうなっていくのが一番なことなんだけど、そうなる段階とかそうなる過程では、一旦人に受け入れてもらうことが必要で。って。

人に癒されることが一旦必要で、その過程を通ったその先に、自分で自分を癒したりとかして、自分で対処できるようになるっていうことだからって。

お父さんとお母さんの場合は一旦、お互いに出し合って慰め合うとか、そういうことができると一番いいんだよね。って。


——確かにそうである。わたしも「仕組みはこうだからあとは自分でなんとかしてね」とは思っていない。これまでの夫婦関係を考えれば、両親が互いにそれをできるとも思えない。だから家族会議をやっているのだ。

しかし百ゼロ思考の父は、そういうことなら「もう自分でやります」と、姉からの救いの手をはねのけてしまう。こういうときこそ甘えればいいのに、ひとりでやりたがる。

姉はそこにモヤモヤしていたのだ。



言われてみればその通りなんだよな。言われなくてもやれよって感じなんだろうけど。

わたし
一旦人に癒してもらったり、満たしてもらったりする体験が必要だよってことなんだよね。今の段階でそれができないのがお父さんとお母さんかなって思うから・・・


それができないっていうのは、お父さんを癒してあげるとか、お母さんがお父さんに認めてもらうとか、そういうことができないってことだよね?

わたし
そうそう。気持ち的な抵抗感があるわけでしょ?


そうなってる。

わたし
だからわたしも、いきなり「自分でやります」っていうのは違うとは思ってる。自己完結するってことではあるんだけど、だからって次はもう自分でやるよっていうことではなくて、そのためにこういうふうに毎日話す。


うん、うん。

わたし
いろんな話を出していく中で、小さい頃の話とか、話すと共感できる部分はあるわけじゃん?かわいそうだなって思ったりさ。「そんな思いしてたんだ」ってわかるとかさ。

だからこれ(家族会議)をやっていくことで、ちょっとずつ、相手に対する共感とか、癒しとかに繋がっていくんじゃないかな?って、わたしはそんな気がしてる。


うん。今まで何日間と話してきた中で、そういう感じに少しはなってんじゃない?っていう感じがしてるけど。話して癒してもらうのもそうかもしれないけど、出すだけでもさ。

わたし
うんうん


聞いてもらうだけでもさ。それは何かに、少しなってる気がする。


今、泉が共感って言ったけど

わたし
うん。


俺はそこ距離感って考えてる。


距離感?


この距離感が、こういうことをやると近づいてく。そうすると相手のことわかってくるという感じになってるな。そのあとに、さらに最終形としては、「自分でやんなきゃいかんな」というふうに考えてます。


——ここで共感を距離感とあえて言いなおす。父のこういうところが、コミュニケーションを難しくする。

父の言うことも間違っていないのだけど・・・なんだかモヤモヤしてしまう。



「自分でやらんといかん」というよりは、自分でできるようになるんじゃないのかな。すごく理想かもしれない。理想っていうかすごく先かもしれないけど、「いかん」っていうと苦しくなるでしょ?

わたし
そうそう。お父さん「目標が必要だ」って言ってたからさ。目標があるってことは目標達成のために頑張るわけじゃん。

わたしがさ、お姉ちゃんが帰ってきたときに(変わった姿を見せられるように)みたいな話したからなんだけど。

お父さん、「それまでに絶対達成しよう」みたいなことも時々言うから、それはちょっと気になるっていうか。

そうなれたらいいなとも思うけど、こんなに毎日やってたら、もしかしたらそうなるかもみたいな気もするけど、でも、達成しなくてもいい。


うん

わたし
達成できなくても、変わってればいいっていうか。ちょっとずつでもいいんだよね。


着実に歩いてれば、っていうことだよね。着実にやってれば、なんかその分は進める。

わたし
っていうことかな。そんな話が友達からあって。

なんか、朝お父さんに話したときに、すごい納得してる感じだなと思って。受け入れられるようになってきたのかなっていうか、何か仕組みがだんだんわかってきたのかなというか、そんな感じがしたかな。


——今になって思えば、このときの父は理解はしても納得はしていなかった。

論理的に非の打ちどころのない仕組みを説明すれば理解する。でも理解を深める段階で、父の思考によって都合よく書き換えられているのだ。その目標到達地点は当然ズレるのだが、父はそのまま納得してしまう。

例えば、わたしたちはディズニーランドに行きたいのに、父はユニバーサルスタジオジャパンに行くのだと納得したような、そんな感じだ。


テーマパークに行くところは合っている。けど、向かう先が全く違う。行き方も。

茨城県からディズニーランドに行くなら、家族みんなで車1台に乗って行けばいい。でもユニバーサルスタジオジャパンには、電車に乗っていくだろう。そのためには何度も乗り換えをしなくてはならない。

それで結局、「やっぱり遠いし面倒くさいから嫌だ」。となって諦めてしまうのが父なのだ。

わたしたちは、一緒に車に乗ってディズニーランド行こうよと言っているのに。


認知の歪みの一種かもしれない。父の思考によって都合よく・・・というより都合悪く書き換えられた解釈によって、「そんな遠いところには行けないな」と考え、父の最も都合の良い案に置き換え提示してくる。

近くのファミレスに食事しに行こうよ。と。

最終的には、「家族で楽しめる場所に行けばいいんでしょ」と、まったくズレてもない提案をしてきたりする。これがものすごくモヤモヤするのである。

「認知の歪みと、論点ずらしの合わせ技」とでも言おうか。

わが家の会話が噛み合わない原因はここにあるのだ。


- 今日はここまで -


父は暴力をふるうことはない。父から明らかな虐待を受けたわけでもない。そういう家庭と比べれば、わが家の問題は「大したことない」と見られがちだ。

実際、姉はうつで苦しんできたけど、家族とのことを話しても理解してもらえることは少なかったという。「そんなことで?」と言われてしまうのだ。

だけど同じように傷ついている。

わが家で起きていたのは「心理的虐待」。これが周囲の人にも、当事者である父にも理解しがたいものなのだ。

<次回に続く>


これまでの家族会議記事はマガジンにまとめています。お時間あればぜひ、わが家の会議をのぞきに来てください!


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