勇気づけられる私の好きなお話し「チューラ・パンタカの悟り」

 仏様のお話しの中で私、とっても好きなお話しがあるんです。
人は誰しも「もっと素晴らしい人間になろう」と頑張っています。
ただ、どこかのタイミングで「やっぱり自分はダメな子だ……」と落ち込むことがあります。

怠けてしまった、人に意地悪してしまった、嫉妬した、イラついてしまった。
変わろうとしてるのに変わらない自分にがっかりすることが良くあると思います。

このお話しは「それでいいんだよ」「がんばり続ける気持ちがあれば大丈夫なんだよ」と救ってくれるんです。


愚か者のチューラ・パンタカ

 お釈迦様のお弟子さんに周梨槃特(シュリハンドク)、古代インドの言葉でチューラ・パンタカと言う人がいました。
このチューラ・パンタカには、摩訶槃特(マカハンドク)、マハー・パンタカと呼ばれたお兄さんが居て、
このお兄さんに誘われてお釈迦様のお弟子さんになられたのでした。

ところが、お兄さんのマハーはとても頭がよく、物分りの良い人でしたが、弟のチューラは物覚えが悪く、自分の名前さえも覚えられないほど智慧が足りなかったのです。
他のお弟子さん達と一緒に修行しますが、教えを全く覚えることが出来ません。
マハーもお釈迦様の教えを短い詩(うた)にしてチューラに教えようとしますが、朝聞いた短い詩も昼にはごちゃごちゃになってしまいます。

それが半年、一年と過ぎて行き、周りの仲間はそれを笑ってバカにし、マハーもすっかり持て余し、何よりチューラ自身悔しくてたまりません。
チューラはお釈迦様の教えを人一倍求めていただけに、その教えを理解できず覚えられないのは苦しくてしょうがなかったのです。


チューラ、兄にも見放される

 そんな時、マハーは見るに見かねて弟を突き放します。
「チューラ、お前は本当に物覚えが悪い。
それでは皆の迷惑にもなる。お前は自分で自分の道を見つけなさい」

チューラは絶望しました。
仲間だけじゃなく実の兄から見放され、何より自分が求めていたお釈迦様の教えを自分の愚かさのせいで諦めるしかない。
チューラは泣きながら精舎を去ろうとします。

お昼時になり食事のためお釈迦様が食堂へいらっしゃるとチューラ・パンタカの姿が見えません。
「おや、チューラはどうしたのだ?」
すると弟子達が答えます。
「お釈迦様、チューラはここを去りました。彼は本当に物覚えが悪く、ここに居ても皆の迷惑になります」

これを聞いたお釈迦様は皆を叱りました。
「お前たちは仲間に対してなんて冷たいのだ。誰も彼を引き止めないのなら私が止めに行く」
そういってチューラの後を追われたのです。

チューラは道端の木陰でシクシクと泣いていました。
「ここに居たのかチューラ」
お釈迦様が声をかけるとチューラはお釈迦様に今の気持ちを打ち明けます。
「お釈迦様、私は物覚えが悪く皆に迷惑を掛けてばかりいます。
時には笑われ、とうとう兄にまで見放されました。
自分の愚かさが情けなくて情けなくて……」

悲しみ、そして自分を責めているチューラにお釈迦様は語りかけます。
「チューラよ、悲しむ必要はない。お前は自分の愚かさを知っている。
自分が愚かであることに気づいている者は、智慧ある者なのだ。
愚かであるのに自分は賢いと思っている者こそ、本当の愚か者なのだよ?
それに自分の愚かさ知ることは、最も悟りに近いのだ」

こう言ってチューラを励まし精舎へ連れ帰ってきました。


お釈迦様、チューラに手を差し伸べる

 お釈迦様はチューラに一本のほうきと布を手渡して、こう言われました。
「よいかチューラ、これから毎日これで掃除をするのだ。
ただ掃除をするのではない。
「チリを払わん、あかを除かん」と唱えながら欠かさず毎日掃除をするのだ」

チューラはお釈迦様の言いつけを守り、毎日授けられた言葉を唱えながら掃除をしました。
初めのうちこそ授けられた言葉をちょくちょく忘れてしましますが、その都度お釈迦様がうしろから……、
「チリを払わん、あかを除かん」と思い出させてチューラを助けます。

そのうち「チリを払わん、あかを除かん」の言葉を覚え、来る日も来る日も欠かさず掃除を続け、それから数年が経ちました。

するとチューラにはいくつもの気づきが生まれていました。

「長い間掃除をしていると、キレイだった布もすっかり汚れた。
お釈迦様の言う通り、物事は移りゆくもの、とどまるものなど何も無いのだなぁ」

「チリやほこりは「ある」と思っているところばかりじゃなくて、「ここにはないだろう」と思っている所に意外とあるものだ……」


チューラ、悟る

 あるとき掃除をしていると、子どもたちが遊んでいました。
その子どもたちはチューラが一生懸命に掃除してキレイにしたところを汚してしまったのです。
これをみたチューラは怒鳴り声をあげます。

「こら!せっかくキレイにしたところをどうして汚すんだ!!」

この時、チューラは本当に汚れていたところに気づいたのです。

そう、自分の心です。


掃除をする時、人はつい手の届きやすい所、その中でもほこりが「あるだろう」と思っているところに手が伸びます。
でも、ほこりはそこだけじゃなく、ないと思っていたところ、手を伸ばすにはめんどくさいと思うところにも沢山あるのです。
つい自分の好むこと、楽な方楽な方に流れてしまう人の心の癖を「貪欲(どんよく)」といいます。

そしてせっかくキレイにしたところを汚した子どもたちへ向けられた憎しみ、自分のこころに叶わないものを嫌悪する人の心の癖を「瞋恚(しんに)」といいます。

また、精舎を去ろうとしたあの時からずっと、自分はなんと愚かなんだろうかと嘆き悲しみ、人生に迷っていました。
自分の貪欲と瞋恚のために子どもたちを怒ってしまい、自分はなんと愚かなのだろうとチューラ悔いたことでしょう。
無知のために人生に惑う人の心の癖を「愚痴(ぐち)」といいます。

チューラはこの3つの心の癖、「三毒」すなわち「貪瞋痴(とん・じん・ち)」に気づいたのです。


この気づきは掃除という行いと結びついてより一層深い気付きになります。

「人の心の癖は、掃除し続けた布のように少しづつ汚れていく。
好むことばかりして、嫌いなものを憎み、不甲斐ない自分の将来に不安になる。
時が経てば経つほど、心はどんどんどんどん汚れていく。
これは避けられない。
でも、その汚れに気づいたらキレイになるよう掃除しよう。
掃除してもまた汚れるだろうけど、それならまた掃除すればいい。

心の癖はどうやっても無くせない。
だからその心の癖を受け入れて、その汚れに気づくたびに、お釈迦様の教え、真の法を心の掃除と思って、その教えを守っていこう。
これが大切なんだ」

そしてついにチューラ・パンタカはお釈迦様の教えを理解して阿羅漢果(あらかんか)、つまり最高の悟りを得ることが出来たのです。


これには周りのみんながびっくりしました。
まさか、お釈迦様の弟子でいちばん出来の悪かったチューラが悟ったのです。

お釈迦様はそんなチューラが一生懸命掃除している姿にいつも手を合わせて拝んだといいます。


心の癖「貪瞋痴」 それに気づいたら省みる。

 人はみんな「貪瞋痴」、この3つの心の癖を持っています。

勉強しなくちゃいけないのについ遊んでしまう、ダイエットしたいのについ食べてしまう。
職場の、学校の嫌いな人を憎んだり、自分の思い通り行かないとイライラする。
これからの将来に不安を感じて二の足を踏んだり、悲しんだりする。

これで別にいいのです。
みんな大なり小なり同じ思いを持っているし、つい思ったりしています。
自分一人で嘆き悲しまなくていいんです。

この癖に執着している自分に気づいたらその都度でいいんです。
その都度、反省して変わっていく努力をすればいいんです。

変わることが第一じゃないんです。

変わらず努力し続けることが何より大切なのですよ。

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