仕事や介護での「燃え尽き症候群」はうつ病の危険なサイン
うつ症状と燃え尽き症候群
わたくしは、「自殺防止サポーター」である。と以前申し上げました。それがなんだ、言われればそれまでですが、これまで多くの「うつ症状」のことに関連するご相談をいただき様々な対応をしてきました。
「燃え尽き症候群」はうつ病を抱える方の中でも、明らかに危険なサインだということを最初に述べておきます。
通称:バーンアウトと呼ばれるこれは病気の域に入ります。
それまでひとつのことに没頭していた人が、心身の極度の疲労によって、ある日突然、まるで燃え尽きたかのように意欲を失い、社会に適応できなくなってしまうことをいいます。(「日本の人事部」人事労務用語辞典より)
介護従事者の「燃え尽き症候群」
介護は自宅で認知症等の親を介護する時が、肉体的にも精神的にも疲労し空虚感に包まれてしまうようなことがあります。他の家族もいなくて一人で介護に従事する場合が特に多いです。
わたくしも当初、わたくしにとって母親を亡くしたときに喪失感に苛まれましたが、妻を亡くした父親はそれ以上に落胆していましたので、その時は別居でしたので、毎日夕方には電話をして雑談をして、時々実家に顔をだしては、一緒に母親のことを語り合ったりしていました。
認知症が始まっていた父親
父親には再三、一緒に住もうと声をかけていましたが、トランスジェンダーを理由に、「恥ずかしくて一緒に住めない」と断られていました。しかし実家に帰るときには女性として帰っていたのは実際のことですし、たまに食事に出かけたり、買い物に出かけたりしていた時も女性でした。
確かに「ほら、皆、あんたを見とるやろ」と父親は言ってましたが、「ほっといたらいいやん」とわたくしはそういうしかありません。
そんな中、わたくしが実家に行った日には必ず車で最寄りの駅まで送ってくれて、別れ際には「無理したらあかんで」という父親に、「何かあったら言ってな」と励ましあいながらの日々を過ごしていました。
わたくしは仕事上の経験から父親に精神科に通うに進めていました。何度か断ってきましたが、「試しに行ってみよう」という誘いに月に1回通うことになりました。病院は実家の近くの個人病院だったのですが、通院日には必ず付き添っていました。
認知症のテストもしてもらいました。軽い程度ですが「認知症」と診断はされていましたが、相も変わらず同居は断っていました。
実は深刻だった父親の認知症と腎不全
上記のような日が1年以上は続いたでしょうか。
ある日、父親から「寂しいわ、もうあんたが女の恰好でもいいから一緒に住みたい」と、ようやく口にしてくれました。
父親には前から介護ヘルパーを依頼していたので生活面の日々のフォローは任せていましたので、(本人は他人が家に来ることを嫌がっていました)なんとか一緒に住む住居(府営住宅)、しかも今後のことを考えて階段の上り下りが殆どない部屋を抽選で1年後に当てることができました。
しかしタイミングが悪く、父親が腎不全を患っていて大学病院に通院していたのですがある日自宅で倒れてしまい、大学病院に入院することになってしまいました。以前から何度か大学病院には一緒に行っていましたので、大阪の方にはわかるのですが、わたくしは堺市の自宅から高槻市(片道約53キロ)を車でなるべく日を開けず見舞いに行っていました。それは父親の認知症の進行を早めないためでもありました。
遅かったのです。ものすごく後悔しました。もっと早く同居しておけばよかった、となすすべもない後悔でしたが、行動が遅かったのです。
いよいよ父親と同居
父親は人工透析を余儀なくされました。
わたくしは病院の担当指導員の方と相談し、病院を移れるかをお願いし、なかなか認知症緩和策もしてもらいながら1か月後くらいに堺市の病院に移ってもらいました。
ですが実家はそのままでしたので明け渡しや役所への手続き(実家は摂津市・これもローカルな話ですみません)へ福祉の手続きなど何度も通い、ようやく父親が退院後、人工透析で通える病院も手配し同居の準備も整いつつありました。
数か月後、父親は退院して念願の同居が始まりました。しかしこの時には父親の認知症は結構進んでおり、感情の変化を表現することが少なくなっていました。
人工透析は週三日、朝5時に起きて朝ごはん食べさせて車いすで迎えのワゴン車に父親を乗せたら、今度は自分の仕事へでかけ、人工透析からの帰宅は介護ヘルパーさんにお願いしていたので、ヘルパーさんが帰る夕方には仕事から戻って父親の介護をしていました。別に寝たきりではないのでなんとか雑談などしながらの毎日でした。
人工透析以外の日はわたくしは自宅で仕事をするしかありません。介護をしながらですので夜間遅くまでの作業と、そして中々父親の睡眠が続きませんので中々仕事には集中できず介護と仕事を毎日続けていました。まだヘルパーさんがサポートしてくれる日はいいですけど時間が限られていますので、わたくしの睡眠も寝ずの番になるのは当然のこと。
遂にわたくしが「燃え尽き症候群」
このような毎日は続けられません。わたくしはとうとう倒れてしまいます。
しかたなく同居も空しく父親を施設に預けることになってしまいます。無念でした。
わたくしは、丁度仕事で使うことにしていた車いすが乗せることのできる車をリースし、それで父親を内科や精神科などに通院しながら仕事をしていました。以前より楽にはなりましたが、仕事に時間を割くことが出来てなかったので仕事は下降線をたどり遂に脱線です。
業者への支払いも滞り、電話では喧嘩腰の押し問答。
そして勢い余ったわたくしはオーバードーズで自殺未遂をしてしまうのでした。
「燃え尽き症候群」の後遺症は残ります。後日、父親はこの世を去ることになり「喪失感」「空虚感」「後悔の念」しか残りませんでした。
「もっと何故早く行動が起こせなかったのか。そうしたら父親を早死にさすことはなかった筈なのに。」今でも心を痛めています。しかし結局わたくしは持病の「躁うつ病」を悪化させただけでした。今は静かに回復を待っています。
(瑚心すくい)
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