死というゴールに向かって。何を使ってどこを通るのか?
どこかへ行くとして、
何を使っていくのか?
何を使えば早く行けるのか?
どうやっていったら、楽しく過ごせるのか?
それはとても重要な問題で、
人は人と比べて、
電車に乗っている人を見て羨ましいと感じたり、
車を持っている人をいいなと思ったり。
飛行機はもっといいなと思ったり。
ただそれだけなんだな、と感じた経験があります。
いったい?
何言ってるの?
って感じですよね
これ、僕の過去の経験から感じている感覚なのですが、
若い頃に、オーストラリアを自転車で一周したことがあるんです。
旅立つ前に言われたことは、
「それやって意味あるの?」
「そんなことしなくても………。」
「一周ならバイクですれば。車で回れば?」
等々。
確かに、一周回るという目的を果たすためには、
車で回ったほうが早い。
バスで回れば、楽ではある。
お金があるのであれば、ツアーで回ればいい。
そんな中、自転車です。
まあ、あまり人が選ばない方法なので、
やらない方法を考える方が容易なんです。
オーストラリアを一周するのに、約18,000㎞
自転車だと、約1年間かかる。
なぜ?そんなことを…
ってなりますよね。
ただ、一周回った後の感動はとんでもないものだった。
毎日毎日、自転車を漕いで。
自分の力を使って、次の街に行かなくてはならない。
特に、オーストラリアの南の方は、街がなくて。
街と街の間が最大で、1500㎞キロなんていう所もある。
持っている水が無くなったら、通過する車に助けを求めたり。
道路上にあるカンガルーの亡骸に自転車で衝突してケガをしたり。
地図上はあるはずの道が、砂漠で進めないような道だったり。
それはそれは、大変な目に遭った1年間だった。
時間もお金も、コストパフォーマンスを考えれば、やらない事。
そんな1年間。
進んだ距離でいえば。
自転車で1年かけて進んだ18,000㎞は、
車で進んだ18,000㎞よりもノロい。
飛行機はもっと速い。
速さだけで比べたら、自転車よりも車、車よりも飛行機。
その方が早く目的地に着ける。
お金を出して、出来るだけ早く目的地に着いて。
また、次の目的地に向かう。
どれだけ効率的に、目的地に早く着くのか?
どれだけの距離を進んだのか?
現代社会では、そんな価値観が主流であるように感じる。
歩いている人は、自転車に乗っている人を見て、いいなと思って。
自転車の人は、車を見ていいなと思う。
車の人は、電車や飛行機を見ていいなと思う。
そんな風にして、自分の乗っている乗り物や移動手段を誰かと比べている。
移動した距離を使った時間で割って、コストパフォーマンスを測る。
そんな世界なのかなと感じる。
自転車で旅した経験から言えることは、
それぞれの乗り物、移動する速さ。
それによって得られる経験は、移動距離に比例しない。
たとえ移動距離が大きかったとしても、得られる経験が少ないこともあるし。
移動距離が少なかったとしても、得られる経験が多いことがある。
それは、その人の一瞬一瞬の過ごし方、感じ方に影響を受けていて。
どれだけ、自分の心を表現したか?
どれだけ、自分の心を感じることが出来たか?
それが、移動距離に関係なく、得られる経験になる。
移動するスピードが、誰かと違っていたって、羨ましく思う必要はないし、
出来るだけ早く、移動する必要があるわけでもない。
今、自分が選んだ移動手段を、最大限味わって、最大限感じて生きていくこと。
それが、目的地に着いた時の感動になる。
大切なことは、やっぱり自分の心。
自分の心が、感じたこと。
自分の心が、動いたこと。
そういう事が必要。
自分の心を知る事。
自分の心を表現すること。
大変なことがあった時。
辛いことがあった時。
そういう時ほど、自分の心が表れてくる。
後々に、感じる感動の元になっている。
亀には亀の時間があって。
ウサギにはウサギの時間がある。
どちらが良いという訳でもないし。
どちらが悪いという訳でもない。
進んだ距離を比べる必要もない。
どんな人に会って、どんな時間を過ごして。
どんな経験をしたのか?
豊かな経験とは、違いに気が付く事。
速く動いていれば、小さな違いに気が付くことは難しくなるし。
ゆっくり動いていれば、小さな違いにも気が付くことも出来る。
どちらがいいとか、悪いとかいう事ではなくて。
その経験が、自分の心をどれくらい動かしているのか?が問題で。
そのためには、心を表現する必要があるということ。
思っているだけではだめで、その想いを、自分の身体を使って表現すること。
生きると、死ぬとの違いは、身体を使って表現できるか?出来ないかの違いなのかなって思う。
だから、生きている間に出来ること。
心を、身体を使って表現すること。
感じること。
それが、豊かに生きる素材になるのかなと思う。
話は、オーストラリア一周の時に戻るのだけれど、
当時、現地の人が、
「自転車で回っているお前達は変だが、もっと変な奴がいるぞ」
と言って、現地の新聞を見せてくれた。
キックボードでオーストラリアを縦断している日本人の記事だった。
オーストラリア縦断は、距離にすると、約3,000キロ~4,000キロ。
日本縦断よりも少し長い距離。
北海道から沖縄まで、キックボードで進む感覚。
気が遠くなる。
更に、その現地の人は、
「自転車でオーストラリアを一周する様な奴は日本人しかいない」
「日本人は、何でそんなに変な奴が多いんだ?」
「でも、日本人は、皆いい奴だ」
と言っていた。
当時の記事について、調べてみようかと思って、
「キックボード」「オーストラリア縦断」
というキーワードでインターネット検索してみた。
すると、驚いたことに、今年の1月から、
同じようにキックボードでオーストラリア縦断を試みている日本人がいるらしい。
↓こちら記事のリンクです。
僕がオーストラリア一周をしたのが、1999年頃なので、
そこから、24年経った今、同様の変な奴が現れている。
しかも日本人。
確かに、自転車でオーストラリアを回る人は、日本人が多かった。
僕たち日本人のDNAの中には、元々、そういったものが備わっているのかもしれない。
DNAになかったとしても、日本という環境は、そういう経験を重視する感覚が育つようになるのかもしれない。
コスパだけを重視しない。
そんな素質を、日本人は持っている。又は、そんな環境を一人一人の人間が作り出している。
それが日本。
自分の心を表現して。
誰かの心を感じること。
日本人は、豊かに生きる才能があるのだと思う。
コスパを重視する傾向にある現代社会。
コストパフォーマンスを上げるためには、最小限の労力で、最大限の結果を得る必要がある。
人生に置き換えると、出来るだけ大変な思いをせずに、辛い思いをせずに、長生きをすることになる。
オーストラリアを自転車で一周する。
なんてところにはコスパは存在しない。
もっと効率的に時間を使った方が良い、という事になる。
でも、死ぬときに感動できる人生は、コスパの良いところにはなくて。
コスパ以外のところに、豊かな人生だったり。
感動する素材だったり。
そういう物があるのかもしれなと思う。
そう思えたら。
誰かのコスパの悪い行動だって。
自分がやったコスパの悪いことだって。
全部、愛おしく見えてくるのかなって。
優しい気持ちになれるのかなって。
実は、コスパの悪い行動こそが、感動に繋がってるのかなって。
人間自体が、コスパの悪い生物なのかなって。
そんな風に感じました(^▽^;)
ちょっとくらい、コスパが悪くたって。
あの人と。とか。
この人と。とか。
人と人との繋がり。心のやり取り。
そういうのがあるから、楽しかったなって(*’▽’)
そうやって、思える人になりたいなと思う。
コスパばかり重視しちゃうとね。
ちょっと、忘れてしまう事もあるので気を付けないと。
コスパの悪い行動。
なかなかAIには出来ない事です。
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