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国語はなぜ自習できないのか(教科書の「目次」を考える)

 先の記事で、国語で学ぶ要素を分解し、整理するという話をしました。思ったよりも反響があり驚いています。おそらくは読者にとっても当たり前のことだったと思うのですが、今まで暗黙のうちに皆がそう思っているだけで、言葉にされていなかったのではないかと思います。
 さて、学習の要素を整理したのは良いのですが、いざ教科書をめくってみると、どう勉強すれば良いか全くわからないというのが実際のところだと思います。というのも、学校の国語教科書は、基本的に生徒一人では学び進められない構成になっています。

国語は自習できない科目?

 勤務している高校のオープンスクールで、中学3年生に向けて公開授業を任されたことがあります。そのとき、「国語」「数学」「英語」「理科」「社会」の5枚のカードを用意して、「家で勉強している時間(自習時間)が多い順番に並べ替えて下さい」と指示したところ、参加している全ての生徒が「国語」を5枚目に並べて、生徒たちが互いに苦笑いをしたことがありました。

 このエピソードを読んで、自分もそうだったと共感する読者も多いかと思います(私も同じでした)。どうして、このような結果になるのでしょうか。

 予習を例に説明してみましょう。例えば数学(Ⅰ・Aを想定)の場合は例題で解法とそのプロセスが明記されており、頑張れば一人で問題を解いてみることができます。残念ながら答え合わせができませんが、予習程度であれば特に指示されなくてもできます。地歴公民などは、科目の特性もあってそれだけでも自学自習ができます。教科書を十分に読み込めば早速市販の問題集に取り組むことまでできます。

 ところが、国語はそうはいきません。教科書の本文を読むことはできますが、そこから何を学ぶことができるのか、脚注や学習の手引きでの発問はどのようなアプローチで考えれば良いのかが書いていない。授業で教員の解説を待つほかありません。

 また仮に意欲的な学生が頑張って予習したとしても、(なんと悲しいことに)担当する教員によって教材のどの箇所を重視して解説されるかが全く異なるため、予習で考えてきた発問に触れられないまま授業を終えるということもままあるわけです。考えてみれば、めちゃくちゃ不便な話です。

教科書の目次

 こうした背景には教科書の構成という問題があります。それは目次がきわめて端的に象徴しています。
 例えば、私の手元にある東京書籍の『数学Ⅰ Standard』(数Ⅰ318)の目次の一部を見てみましょう。

1章 数と式
   1節 式の計算
     1 整式
     2 整式の加法・減法・乗法
     3 因数分解
   2節 実数
     1 実数
     2 根号を含む式の計算
   3節 1次不等式
     1 不等式の性質
     2 1次不等式
     3 1次不等式の応用
2章 集合と論証
   1節 集合
     1 集合
   2節 命題と論証
     1 命題と条件
     2 論証
(以下略)

 目次を見れば、何を学ぶ(学んだ)のかがひと目でわかります。それは見出しと学ぶ内容とが合致しているからです。一方で、国語の教科書はどうでしょうか。三省堂の『精選国語総合 改訂版』(国総338)の目次を見てみましょう(※当然ですが、この教科書を悪く言うのでは決してなく、国語教科書の特徴を説明するための例示です)。

現代文編
 一 随想  ぐうぜん、うたがう、読書のススメ    川上未映子
         「待つ」ということ        鷲田清一
 二 小説(一) 羅生門              芥川龍之介
         ゴール              三崎亜記
   読解から表現へ① 引用
 三 評論(一) 水の東西             山崎正和
   読解から表現へ② 比較
         言語は色眼鏡である        野元菊雄
         自然をめぐる合意の設計      関礼子
 (以下略)

 文章ジャンルが見出しにあって、文章のタイトルと作者名が列挙されています。学習内容という視点で見たとき、この不親切さは数学と比べれば一目瞭然です(教科書としては「読解から表現へ」というコラムで学習内容を示しているつもりなのかもしれませんが)。

 既に多くの指摘がされてきた通り、国語の教科書は名文集としての構成を有しているのです。文章から何を学ぶことができるかが示されていない目次を見て、生徒は必然的に授業での解説を待つしかなくなります。言い換えれば、教科書が、学習における教員への依存度を高めることに貢献して(しまって)いるのです。これでは、よほど国語が好きという生徒以外は、自らすすんで教科書を読んでみようという気にはなれないわけです(ちなみに、冒頭に掲載されている川上未映子「ぐうぜん、うたがう、読書のススメ」では、「四月になると配られる教科書を学校が始まるまえに何回も繰り返してよむ」という筆者の思い出が語られており、皮肉にも生徒と国語教科書の距離を開くことに貢献しています)。

目次を作ろう(教科書の分析)

 教科書における目次(構成)は、その教科で何を学ぶかを指し示す「地図」の役割を果たすはずです。ところが、あらゆる教科の中で国語(と一部の英語)だけがその役割を果たしていない。では、どうすればよいでしょうか。私の提案はシンプルです。教員が自分で地図を作ればいい。国語の授業の目次を作ってしまえばよいのです。

 そのためには、教科書から何が学べるのか(教えられるのか)を読み取る必要があります。

 試みに、先に上げた三省堂『精選国語総合 改訂版』の現代文編から、発問にあたる箇所を全て取り出し、分類してみることにしました(脚注の「問」と、文章末の「学習の手引き」「言葉と表現」。今回はコラムの「課題」は除いた)。教科書の問題を「解き方」の観点から整理、分類できるならば、それらが目次を作成する手がかりになると考えたためです。↓のような作業です。

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 187ページまでの「現代文編」を通して読んでみたところ、問題は152を数えました(意外と多かった)。次に、これらが何を問う発問や問いかけなのかを整理してみました。

 すると、やはり問いには形式があり、分類できることがわかりました。そのうち数の多かったものを紹介します。ただ、私個人による分類のため、あくまで目安として、かなり大雑把なものとご理解ください。また一つの問いで複数の要素を問う複合問題もあるため、数字は延べ数です。

1.内容説明(27問)

 「(傍線部)とあるが、どういうことか」というパターンの問題です。多く登場していますが、「どういうことか」という形式は、何を問うているのかをぼかしたまま問うことができるため、問題の要素や解き方が多岐にわたります。いくつか紹介します。

・単純に、本文が読めているかを問う問題
例:筆者は、「鹿おどし」と「噴水」とを、どのようなものとして捉えているか。本文中から対句的表現を三つ探し、それを手がかりにして整理してみよう。(評論「水の東西」)

・傍線部が抽象的な説明となっており、解答のためには具体例から理解する必要がある問題(具体と抽象)。
例:「世界は自分の色眼鏡で見る世界しかないと思いがちのものである」とはどういうことか。わかりやすく説明してみよう。(評論「言語は色眼鏡である」)

・傍線部の中に比喩が含まれている問題(比喩)
例:『都会の人は絵を見るように自然を見ます。しかし、我々は絵のなかで暮らしているんです』とはどのようなことか、具体例をあげて説明してみよう。(評論「自然をめぐる合意の設計」)

・傍線部を換言する問題(言い換え)
・傍線部の中に指示語が含まれている問題(指示内容の特定)
・形式名詞「こと」を具体化する問題。
例:「同じこと」とはどういうことか。(評論「創造力のゆくえ」)

2.指示語(22問)

 おなじみ、「その」「それ」「こうした」等の指示内容を問うものです。
例:「そういう外面的な事情」とは何か。(評論「水の東西」)

3.心情読解(17問)

 主に小説における登場人物の心情を読み取り、説明する問題です。
例:下人の心理の推移を、箇条書きにして整理してみよう。(小説「羅生門」)
例:次の場面での小十郎の心情をそれぞれまとめてみよう。(小説「なめとこ山の熊」)

4.理由説明(14問)

 「(傍線部)とあるが、なぜか」という問い方の発問です。単純に理由となる箇所を探すだけの問いもあれば、

例:清兵衛が「心で笑った」のはなぜか。(小説「清兵衛と瓢箪」)

のように、心情読解の要素を絡めた問題もあります。

5.表現の効果(15問)

 表現の効果とは、文章に用いられた表現(技法)が、文章の印象や味わいに与える効果のことです。例えば、萩原朔太郎の詩「旅上」で「『ふらんす』という表記にはどのような効果があるか、考えてみよう。」といったものが該当します。

例:次の語句の表現効果について考えてみよう。
   ①「きりぎりす」や「からす」について。
   ②「猫のように身を縮めて」などの動物を使った比喩について。
                         (小説「羅生門」)

 このほか、擬音語や擬態語、句切れや行分けも表現の効果に含まれます。大学受験を経験した読者なら、センター試験の小説問6で「本文の表現に関する説明として適当なものを」という問いがあったのを思い出すでしょう。実は、「教科書の内容を問う」というセンター試験の方針は、国語であっても例外ではありません。

学習内容視点の「目次」

他にも、
・「要約」は教科書の後半になって登場する。
・詩や短歌、俳句では「表現の効果」を考えるものが非常に多い。
・「筆者の考え(思い)」を考える問題が2問だけあった。
・問によって、「読み方」がそのまま「解き方」になるものと、「読み方」に加えて専用の「解き方」が必要になるものの2種類がある。
などの特徴がありました。

 興味深い点は多かったのですが、それぞれ別の記事に譲ろうと思います。

 こうして(かなり雑ではありますが)問いを分類してみると、「国語で問われることが答えられるようになるために何を身につければよいのか」が見えてくるわけです。
 ちなみに、こうした観点で本文を収集し、分類整理したものが最近の学習参考書です。最近は比較的短い文章で「読み方」を教える参考書が増えました。そのうち、この記事で触れたような「解き方(問われ方)」を教える参考書が登場するのではないかと思っています。
 
 そうした「読み方」、「解き方」の視点で国語を捉え直したとき、次のような授業の「目次」が構想できるのではないか
 
 第一章 評論の「読み方」
  一節 論と例
  二節 主張と根拠
  三節 対比
  四節……
 第二章 評論の「解き方」
  一節 内容説明
  二節 理由説明
  三節 指示語
  四節……
 第三章 小説の「読み方」
  一節 心情読解
  二節 象徴性
  三節 表現の効果
  四節……(以下略)

 私はこの方が、学習者にとって利便性の高い「地図」だと思います。ここから更に「読み方」を文章全体を大きく掴むものとそうでないものに分類するなどできると思います。教員がこうした「地図」を持っていれば、「今日から『羅生門』という小説を通して、「心情読解」の読み方を知ろう。できれば、「象徴性」の読み方にも授業の中で触れようと思います。」という学習目標の示し方が可能になるわけです。

 ただし一方で、この考え方には文章を「問題」と「解答」の関係で捉える思考の枠組みを与えてしまうという危険性が潜んでいることには注意が必要です。ちょっと格好をつけた理想を言えば、「問題を解けるようにするためだけに学校で国語を学ぶのではない」という突っ込みもできるわけです。

 また、別の記事でお話したように、国語には絶対唯一の解法はなく、暗黙知の習得のためには試行錯誤が必要です。よって、一度は示した読み方・解き方が修正されて良いわけです。そうすると、目次がたたき台になるという矛盾が生じてしまいます。

 もちろん、どちらか一方というわけでなくとも良いわけです。両方の良い部分を上手く取り入れた授業の構成を模索することができれば、教材(文章)へ依存しすぎない国語の授業の在り方が見えてくるのではないかと考えています。必要なのは、多角的なものの見方と、真摯な姿勢です

 新カリキュラムまで、残すところあと2年です。

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