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振り返ってみたら何も成してなかった。

この半年を振り返ってみると何も成してなかったように思える。
成したことはすべて、今思えばそんなに時間が必要なことではなくて、
もう一度同じ成果を出そうと思えば1ヶ月もあれば終わるようなことに思える。

半年前に研究室に所属した。
今までの生活が一変する環境の変化で、この環境の中にいれば自分も変わると思っていた。これから3年も時間がある。

異変に気が付いたのは8月過ぎである。気が付けば新品のTOEICの参考書が埃を被っており、毎月TOEICから受けもしない受験案内のメールが来ていた。
同期は学会発表が決まり、自分はデータが足りていない。テーマによる特性もあるので焦る必要はないと自分に言い聞かせながら、自分を保った。

9月の夏休みの中間発表、振り返ったときに自分が春から目に見えた進捗がないことに気が付いた。それまで環境に甘えて過ごしてたことを反省した。

気持ちを切り替えて、朝10時に登校していたのを8,9時にした。
初めは継続できないと馬鹿にされたが普通に続いている。

11月終わりの今、またしても振り返った時の進捗がない。

なぜだろう

時間だけでいえば明らかに春よりは増えた。残る時間も増えた。
手が動いてなかったのか。成果がでてないだけなのか。いや自分の研究内容から見て成果がでないというよりもトライアルアンドエラーが足りてないだけではないか。TOEICも全く進んでいない。

もう次に入ってくる後輩の面接が終わる。次の人たちが決まるのだ。

春に1学年上の先輩に色々質問した。基本的なことから応用まで聞いた。
ほとんど全部に回答が来た。1年後こんな風になれるのだろうか。不安はあった。けど研究生活の中でどうにかなるだろうと思っていた。
今はたぶん卒論を書くときに色々精査するために詳しくなるのだろうと思った。

今思い出したが夏に高校同期とあったときに先輩の話をした。高校同期は自分よりも1学年上のために参考になると思ったのだ。

返ってきた返答は、院試を受けることで賢くなるといった回答である。

そうか、自分は院試を受けていない。

これは死ぬほど頑張る期間というものの欠如である。

死ぬほど頑張る期間が欲しいとは思いながらも、内的要因では実行できず、実行できない理由を外的要因に求めているのだ。

だから自分は外的要因に責任転嫁する。

先輩は、自分の話をあまり真面目に聞くことがなくなったように思える。今では知識の面では尊敬しているが、全面的に信頼できるかはまた別の話になった。

こういったように外的要因を頑張らない理由とすることで自分を保つのだ。

もう一つは、

死ぬほど頑張る期間がないことによる自信の欠如である。

死ぬほど頑張ると自分の知識に自信もつきそれに基づき研究を行うことができる。PDCAサイクルが早いのである。また研究に必要な基礎知識が盤石であることで思考プロセスが速いことも挙げられる。

さらには、目に見える成果がないとしても自信があるのでいい。これをやった。それでもダメだったということを自信をもって発言できる。

私はできない。なぜなら、自信がないから。これでは循環論法である。
できないのは、自分のやり方が確実に正しいと思える知識がないから。がむしゃらに実験を行ったところで成果を得られないのは当たり前である。

そして振り返った時、これは手法が洗練されている状態と考えていい。
手法が洗練されているため、なぜこれに気が付かず他の頃をやっていたのか甚だ疑問になるのである。これが振り返ったときの絶望である。

しかし、ここには落とし穴があると考える。

後で考えれば当たり前、簡単、なことなんて世の中にありふれているのだ。

数学の証明を考えればすぐにわかる。答えをみれば、自分の持っている知識で実行可能なことのはずである。しかしできない。
発明だってそうだ。同じこと考える人はいるかもしれないが実行する人が少ない、実行した成功した人を見ると当たり前で、簡単で、自分でもできそうで(でもやらない)こういったことばかりなのである。

なぜできないのか。それは、思考方法に問題があると思う。知識は揃っている。しかしできない、思いつかないのは思考に問題があるとしか言えない。

私は常に考えることによって自分を保護し、他者を批判し自己嫌悪とともに生きていく。


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