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今週のMornin#50

そろそろ一年


このよくわからない。言語化というか外在化の一つの手段だと思うけれど、自分の写真感想 と講評会もそろそろ1年になる。体調不良で1回書けずに流したことがあった気がするけれど、それ以外はなんとか1年続いている。日記を書くこともそうだけれど、自分はかなりの飽き性なので1年何かが続くだけでもかなり珍しくおかしな事態だ。写真もその類で、写真に関わっている毎朝のアレもこのnoteも。どうして続いているのかではなくて勝手に自分で義務化した気になって、自分で自分を律して、言ってしまえば呪って、続けざるを得ないように縛り付けているのだ。辞める時もきっとつらいのに、続けるだけでそのつらさを感じないようにするために頑張る。あまり生産的でないような気もするけれど。Twitterと一緒でただの備忘録の一つなのである。

line


今週のMornin

sit place


写真の解説


先週、人生で2回目(だったと思う)のライブに行った。ライブハウスに行って音楽を聴いた。SNSの繋がりでお誘いがあって、前回のライブは体調不良で行けなかったので今回はまず行けただけでも良かった。そして音楽は歌があるタイプの音楽ではなく演奏に近かったと思う。そのライブの後に、みんながライブハウスを後にした、大部分の人が帰った後のその写真を撮った。やっぱりこれも人間の存在を感じる写真で、椅子に当たる定常光の無機質感、床の擦れ具合から人間が使ったという存在感、赤黒とどこか二項対立を感じる。男女、だけでない、強弱や明暗や、甘辛とはちょっと違う。赤と黒なら黒が好きだが、そこでは赤が主役でアクセントで、意味があったような、気がした。そういう気持ちで撮っていた。中央の赤い椅子にピントを合わせて、そのほかは明確に見えなくてもわかる範囲にうつしたいものが集まっていて、絞りはめいいっぱい開けた。SSは最低限、屋内暗所としてはちょっと心許ないが最低限でいい。ISOは全然許せる。ノイズがあったっていいと思っているからノイズを上げているのだ。画質のためではない。人間らしいじゃないか、どこかを犠牲にする感じが。写真は結構そういう側面があると思う。どれかのためにどれかを捨てる。選択を迫られることと向き合うことと、それでも残したいのかと一瞬刹那判断すること。人生っぽい。

F1.2 SS1/80 ISO2000
NOKTON 35mm F1.2 X mount

烏龍茶


個人的に好きなお茶は烏龍茶だ。でもそれも飽き性のため時期がある。今は烏龍茶でも、いつかはジャスミン茶の時期もあったり、でも緑茶の時期はこれまでもきっとこれからもない。ほうじ茶の時期はあっても、絶対にとうもろこし茶の時期もない。人間と何かの関係性って流動的なもので、そもそも流動的であるべきで、それでいいと思う。ある/ない、で関係性や依存性や終わりのあるもののように決めてしまうのはちょっとつまらないしいろいろ勿体無いと思う。もっと水みたいに風みたいに、海みたいに満たされたり干されたり増えたり減ったり時化たり、居なくなっちゃっても見えなくなっちゃってもいいと思う、な。と思う。これは決して柔軟なのではなく、めんどくさいからそういうふうに考えるようにしていると思う。残ったものが遺産になるのではなく、残そうとしたもので、そうありたい。

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夏はアイス、秋は焼き芋、冬はおでん、春はさくらもちを食べます