般若心経はそらで言えますか?

「般若心経はそらで言えますか?」

外はまだ暗く寒い朝7時、暖かな多目的室のようなフロアでお坊さんにそう聞かれました。
“はんにゃしんぎょう”
耳慣れない言葉は、久しぶりの友人に偶然ばったり出会ったような、新鮮さと懐かしさを与えてくれました。
わたしは「いえ まったく」と手をぶんぶんと振って初心者アピールをふんだんに出しました。

部屋にはすでに何人かの人がいて、みんな壁の方を向いて足を組んで座っています。
大きな窓はカーテンでしっかりと隠され薄暗く、まどろんだ分厚い空気が充満し、目と耳の感覚器官を鈍らせます。ほのかなお香の香りだけが鼻を心地よく刺激します。




毎週楽しみに聴いているNHKのラジオ番組「飛ぶ教室」で、7月7日に平山亜佐子さんという方がゲストに出演されていました。平山さんのnoteのある記事を読むと、「5のつく日、つまり5日、15日、25日に(中略)noteを始めようと思う。」と書かれていました。

わ、なんか仏教みたいでカッコイイ!

その一文を読んだとき、わたしは仏教を意識した日のことを思い出しました。




“毎朝 坐禅をしているお坊さんがいて、誰でも自由に参加できるよ”と知人から教えてもらい、2019年の冬が始まる頃、わたしはその場所へ足を運びました。
そしてそこで「生きた」仏教に触れました。

普段 信仰を意識することはほとんどありませんが、食事の前には「いただきます」と呟くし、米粒には八百万の神がいると教わり、お正月には神社に初詣にも行きます。
キリスト教だった中学・高校では毎日聖書を読み、聖歌を歌い、洗礼を受けた人々の言葉に耳を傾けました。

当時わたしの中には、無意識に身についた仏教や神道や儒教のような習慣と、学習したキリスト教の知識が無造作に放り込まれていました。


「朝の坐禅教室」のような気軽さで参加しましたが、実際には知己の集まりといった雰囲気でした。各々が慣れた様子で座蒲をひとつ取り、そこに決まった手順をふみながら座り、瞑想へと入っていきます。
事前に連絡するべきだったか と場違いのように突っ立っていたわたしに、お坊さんの「般若心経を言えますか?」という何気ない問いかけには、脳が振れるような響きが含まれていました。
その時の感情をうまく言葉にできませんが、驚きが60%、嬉しさが30%、不安、好奇心、期待..
料理で例えると一流シェフの渾身の一作のような複雑な味でしょうか。

ちなみにお坊さんが質問した理由は、般若心経が書かれた紙が必要かどうかを確認するためでした。
投げかけられた問いとわたしの答えは感情的には全く整合が取れていないのですが、その場の雰囲気に気圧されていたわたしにとって、歓迎の言葉として感じ取れました。




曜日を日本で日常的に使用するようになったのは、グレゴリオ暦を使い始めた明治初頭です。平日働いて週末は休む。現在では当たり前のように浸透している習慣ですが、120年前くらいまでは意識されてなかったのかと思うと驚きです。

旧約聖書では神様が世界を創造して7日目に休息したことで、日曜日が安息日になっています。安息日=労働しないことなので、遊んで自由に時間を使うというより、本当に心身を休ませるという感覚でしょうか。

地球が自転することで太陽が登り再び落ちていきます。そうしてわたしたちは目覚め、また眠りにつきます。
地球が太陽の周りを回転することで月は満ち欠け、わたしたちは春夏秋冬を感じます。

日常の確かにある循環は、1分1時間、何曜日何日と、数字によって管理することが容易になりましたが、同時に管理される側になったようで、私にとってどうも窮屈です。
体と心を数字から離し、肌感覚に合わせて、気ままに揺れる軸に身を任せてみることも、たまにはよいのかもしれません。

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