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相剋の美しき秋の季節に。シェイクスピア『ハムレット』との対話。

文字数:約2,800

湿った空気はもう、どこか少しだけ遠くの、数週間前の哀愁漂う昨日に置き去りにされた。外気温はぐぐっと低下し、手はかじかみ、身体は縮こまる。それでいて、空気は限りなく透き通り、顔にヒリヒリと当たる冷風に心が踊る。

日本の10月。今年こそは、渋谷のスクランブル交差点では、仮面をかぶった喧騒はあるのだろうかと、ふと思う。ハロウィンには仮装し、偽装し、扮装する。幸福な季節の、かつ強烈な瞬間の楽しみに心をかける若者の目がギラギラと情熱的に輝く。美しさとしなやかさを纏ったすらりと長い髪の毛が、冷静な寒空の風と呼応するように華麗になびいている。

無機質な街角は妖艶に彩られ、怪しげな音楽に満たされる。大商戦を見据えるデパートの商売人はせわしく、年末の幸福を待ち焦がれる恋人たちはそわそわし始める。そんな人々で、街々は溢れる。

ところで、私たちは生活の色々な場面によって、種々様々な仮面を付け替えている。家庭の顔に仕事の顔、平日の顔に休日の顔、仕事の顔にプライベートの顔。それぞれがそれぞれの生活を抱えている。彩豊かな日常と、単調な日常との繰り返し。それぞれがそれぞれの役割を演じている。

幼い子供は社会で生活をするうち、それらの役割を認識し順応していくが、それまでは純真な心に毎日を委ねている。大人は、それらの役割性のうちに、世間体のしがらみのうちに、ほんの少しの本心と大多数の妥協とに毎日を委ねている。愚痴や卑屈を仲間同士で言い合いながらも、なんとか耐え忍びながら、何気無い日常性に嬉しさを感じている。

仮面の下には本当の心を隠している。本心は純粋なのかもしれないし、邪念で満ち満ちているのかもしれない。他人のそれは私には知りようもない。表と裏と、裏と表。どちらが本当の自分なのかと、自分でも知らないからである。

自由に生きようと世間は言う。やりたいことをやろうと広告は語る。好きなことをしようとお金持ちは得意げに話す。それでも、日常の本質は変わりっこない。朝起きて、その日の役割を確認し、持ち場を整備し、些細なイベントに一喜一憂し、自宅に帰り、反省と希望と一緒に眠る。これらの単純なサイクルこそ、真っ赤に色づく紅葉のように、複雑で美しいのである。

趣味に没頭するもよし、旅行に行くもよし、仕事に邁進するもよし、家庭に精を尽くすもよし、仲間とビールをかわすもよし。仕事を嘆きながらも、休日を憂いながらも、それでも毎日は行進する。時の流れは残酷である。気がつけば、もうそこには後ろしかないのだから。だが、それもまた生の美しさには変わりない。

社会で割り振られた役目に、私たちは本心を忘れてはいない。仮面をつけていても、AさんがAさんであり、BさんがBさんである限りにおいては、AさんはAさんであり、BさんはBさんである。お互いの尊重を忘れない限りにおいては、AさんはBさんにはなりえず、BさんはAさんにはなりえない。

それでも、誰かが誰かになろうと意欲することがある。羨望や嫉妬、尊敬という名の不幸な卑屈がここに生まれる。これらは仮面であって仮面ではない。これらは仮の仮面であり、飽き性な人間による退屈しのぎにすぎないからである。だから、ここに退屈という最大の不幸が生まれるのだ。退屈と倦怠感とは、仮面の外側で生活をすることである。自分の持ち場の外側で生活を送ることである。

世間の批判は所詮、それら外側の部分を指で軽くなぞったものでしかなく、内側なる世界には影響を及ぼしえない。それらに影響があると思うのは、単なる大いなる勘違いにすぎないし、各々の人生への、各々の濁った冒涜である。私たちは本心を持っているからである。

私個人的には、私たちは人生を演じているという表現はあまり好きではない。それでは、何かのRPGゲームのようだし、なんだか、寂しい感じがするからである。人生ってそんなものなのか、と思わず反論したくなる。

とはいえ、毎朝の希望と毎晩の反省との繰り返しに、人生の演劇性の意味があるのだと私は思う。私たちは演じる。目的に向かって演じる。自分への誠実さに従って演じていく。卵の殻を破ったひよこのような、より良い生活、人格へと成長する過程に対して、演じるという動詞はぴったりと当てはまる。

演劇だとか、仮面だとかの観念を、そのように悶々と考えながら、シェイクスピアの『ハムレット』を読んだ。新潮文庫版の翻訳を担当した福田恆存は、このように『ハムレット』を解説していた。

前にも度々言ったことだが、ハムレットの最大の魅力は、彼が自分の人生を激しく演戯しているということにある。既にハムレットという一個の人物が存在していて、それが自己の内心を語るのではない。まず最初にハムレットは無である。彼の自己は、自己の内心は、全く無である。ハムレットは自己のために、あるいは自己現実のために、語ったり動いたりはしない。自己に忠実という概念は、ハムレットにもシェイクスピアにもない。あるのはただ語り動きたいという欲望、すなわち演戯したいという欲望だけだ。この無目的、無償の欲望はつねに目的を求めている。その目的は復讐である。決して自己実現などという空疎な自慰ではない。欲望の火はそんなものには燃えつかないのだ。

シェイクスピア『ハムレット』(新潮文庫) 翻訳 福田恆存
福田恆存「解題」より引用

これは私の持論だが、人生においても、そのもっとも激しい瞬間においては、人は演戯している。生き甲斐とはそういうものではないか。自分自身でありながら自分にあらざるものを掴みとることではないか。(中略)この自己相克の激しさにおいて、ハムレットは悲劇の主人公の気品と高邁とを獲得するのである。

シェイクスピア『ハムレット』(新潮文庫) 翻訳 福田恆存
福田恆存「解題」より引用

私は、演じるには主体が必要だと思う。演じる本体がなければ、演じることはできないし、仮面の内、そのまた先の内にある自己主体性の礎がなければ、自己の世界はボロボロと瓦解するからである。あるいは、主体を求めることを演戯と言うのかもしれない。私たちは主体を求めるがために、日々の生活を送る。そう言ってもいいのかもしれない。

私にとっては、今日は何気のない一日で、これから仕事という役割が待ち受けている。何が正しいのかなんて、わかるようでわからないようだ。誠実な態度とは、わかるようでわからないようだ。どう過ごすのか、そんな主体性を忘れずに役割を全うできますようにと祈りながら。

秋の寒さは、頭を冷静にしすぎるのかもしれない。しかし、だからこそ心は熱狂を求め踊るのだ。寒さと暑さとの調和は、緑の木々を真っ赤に染めあげるのだ。その一年のうちの大切な瞬間を、私は見逃したくないと思いながら。

2021/10/19

PS : 『ハムレット』のあらすじ解説はアバタローさんのYoutubeが私は好きです。



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