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生きることへの緊張感を持つために。フランクル『夜と霧』との対話。

文字数:約6,660

ヴィクトール・フランクルの「夜と霧 新訳」(みすず書房)を読みました。

これは、夜陰に乗じ、霧にまぎれて人びとがいずこともなく連れ去られ、消え去った歴史的事実を表現する言い回しだ。

ヴィクトール・フランクル「夜と霧 新訳」(みすず書房) 翻訳 池田香代子
池田香代子によるあとがきより引用

「夜と霧」とは、池田香代子によればそのように解釈されていて、ナチスの強制収容所でフランクル自身が体験した、凄惨な記録のドキュメンタリー作品です。英語では、初めは「From Death-Camp to Existentialism(実存主義)」というタイトル、その後「Man’s Search For Meaning」という題名に書き換えられたとウィキペディアには載っています。

実は、私は大学生時代に間違いなく「夜と霧 新訳」を読んだことがありました。表紙のイラストを見たことがあるな、そう記憶が薄っすらと語っているからです。しかし、本当に残念なことでもあるのですが、内容はかなり曖昧というか、そもそも何が書いてあったのか、鮮明には思い出せませんでした。一番上にAmazonのリンクを載せていますが、そこに表紙絵も小さく見えると思いますので見ていただきたいのですが、そこには数字列と黄色い星、薄黒い背景がシンプルにデザインされています。

どのような意味なのだろう、そのような基本的な疑問すら大学生時代には思い浮かべなかったことは、本当に悲しむべきことです。能動的ではなく受動的な読書に意味などないのです。むしろ、それなら読書をしないほうがましですし、もっと言えば、読書はするべきではないのです。なぜなら、それは明らかに貴重な時間の浪費ですし、セネカの言うところの「怠惰の忙事」にほかならないからです。少なからず厳しい口調にはなってしまいますが、過去の私にはそのように叱責を送り、今現在の私への戒めとしたいなと思います。

ところで「夜と霧 新訳」の表紙のデザインなのですが、概ねこのようなことを意味しているようです。書かれている「119104」という数字はフランクル自身につけられた番号(収容者は、髪を剃られ、丸裸にされ、全ての持ち物を没収され、名前は記憶されず、それぞれの人間を示すものは、彼らの身体、それから収容者番号だけであった)を意味しています。黄色い紋章はユダヤ人を意味する「ダビデの星」。それからおそらく背景には2つの意味があると思っていて、一つはタイトルのイメージと、もう一つは収容者の衣服(実際に薄暗い縦のストライプが強制収容所の統一の服装であった)そのものです。

これらを総合すれば、「夜と霧 新訳」の表紙はこのように語りたいのだと私は解釈をしています。つまり、これは強制収容所のフランクル自身を意味しているにほかならず、牧場の家畜のように残酷な統一化がなされた収容者たちにとって、個人とはなんなのか、一人一人の人間が生きているとはどのような意味があるのか、そのような静かな問いかけにほかならないのだと私は思うのです。

Man’s Search For Meaning. 死と苦しみと隣り合わせの強烈な人生経験、それらは、文字を読んで写真を見て、イメージすることはできても、本当の意味で私はそれらを知ることはできないですし、できることならば、いや、絶対に断固としてそのようなことは経験したくないとはっきりと言い切ります。しかしながら、凄惨な歴史と、苦難を乗り越えた人間の記憶は、のほほんと朝に起きて夜に寝ている現代人の私たちに対して、生の緊張感を与えてくれることには間違いがないのかと思います。

上述したように、読書にも、どんな行為にも同じことが言えるのですが、何不自由なく仕事もあり、家族もあり、友人もあり、学識もあり、知識もあり、家もあり、本を買うだけのお金に余裕もある世間一般の私たちにとっては、そのような緊張感をもって生活を送ることは、そんなに簡単では無いように私には感じられます。確かにスティーブ・ジョブズがスタンフォード大学で述べたような、死への哲学というものは、まあその通りだと思う一方で、そうはいっても毎日の行為の忙殺に、息をしていることのあまりの当たり前さに、四六時中に安心しきっている無意識に、それらと向き合うことを忘れてしまいがちなのです。

さて、ここで一つの問いが必然的に生まれます。これは神谷美恵子が「生きがいについて」(みすず書房)という本の中で語っていたことと、その本の解説をしていた柳田邦夫も同じように指摘していたことでもあるのですが、それはつまり、死と向き合わざるをえないような強烈な体験を経なければ、人間はこのような生の緊張感をもって生活をするはできないのだろうか、という人生への質問です。

生きがいの喪失者、たとえば、がん患者や失業者、精神的に苦しみ果てた人たちなど、これらの苦しみを乗り越えるために、人生の喜びを再発見するためには、自己の内面に寄り添うことが必要であると、「生きがいについて」でも「夜と霧」でも語られていました。少しだけ言葉を替えるのであれば、真の自分の心の声を聞くことが大切だということです。要するに強いメンタル力である、そう形容することは、あまりに乱暴であり私はあまり好きではないのですが、少なからずそのような意味合いのことです。

外的な苦しみに耐えきれないとき、もしくは死への恐怖が間近に迫っているとき、内面の精神世界が無ければ、拠り所とする自己の領域に気づいていなければ、人間は、もうどうでもよいと自暴自棄に陥ることにもなりかねないし、最悪の場合には、非常に残念なことではあるし、嘆かわしく全力で阻止しなければならないことでもあるのですが、人生を投げ捨ててしまうことも往々にしてあるのでしょう。

この点について、フランクルはこのように書いています。

並みの人間であるわたちたち、凡庸なわたしたちには、ビスマルクのこんな警告があてはまった。「人生は歯医者の椅子に座っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう。これは、こう言い替えられるだろう。「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくると信じていた」けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。

ヴィクトール・フランクル「夜と霧 新訳」(みすず書房) 翻訳 池田香代子

さて、わたしは本を読むことの目的を、自己の人生の指針とすること、と決めていますので、ここでも自分個人の生活に当てはめてみて、どのような教訓を得られるのか、そのように考えを巡らす必要があります。さあ、「夜と霧」の一つのキーワードとも言える、生きることへの緊張感、これに関しては、どのように解釈をして、どのように折り合いをつけていけばよいのでしょうか。

ジョブズの格言がそうであるように、またこの手のトピックスが取り上げられるときに、私には少しばかり思うところがあります。このようなとき、世間一般では何がクローズアップされるのかといえば、大抵はこのようなことなのではないでしょうか。つまり、「やりたいことをやりたいようにやろう!」だとか、「人生は一度きり、だから楽しもう!」だとか、「生きたいように生きよう!」だとか、「本当に今の仕事にくすぶっていていいのか、さあ起業しよう!」だとか、あくまで私のイメージにすぎませんが、そのようなニュアンスの、よくある自己啓発書の本帯に書かれているような、足し算でもありポジティブでもある人生設計に関する思想に傾くことがほとんどなのではないか、ということです。

もちろん、これらを否定するつもりはありません。なぜなら、字面を見ただけで突発的に批判することは、自己の思考を放棄していることだからです。そんなものはいわゆる匿名の誹謗中傷と同じく、良くも悪くもなく、突き放してしまえば、全くもってどうでもよいものであり、それ自体が意味をなさないただの文字列にすぎませんから、無視するのが得策ですし、自分がそこにまで陥ることは愚の骨頂でもあるからです。

少し話がずれましたが、わたしはどちらかと言えば、足し算的でポジティブな思考というよりは、引き算的でネガティブな思考に、この生への緊張感を考えるヒントがあるのではないのかと思っています。「どうしたら毎日を楽しく過ごせるのか?そのために今日は何をしようか?どこに行こうか?誰と遊ぼうか?何を食べようか?どんな勉強をしようか?」、そのように何かの楽しみを無理矢理に付け加えるように探すのではなく、一度立ち止まって、まったく逆方向に考えるのです。

つまり、「わたしの苦しみはなんなのか?どんなことをされたくないのか、したくないのか?なぜこれこれは嫌いなのか?なにが不快で、なにが不安なのか?」、そのようにいわゆる不幸と思われる事柄をどんどん書き換えていくこと、この点にフォーカスをした方が個人的にはしっくりとくるのです。

なぜなら、平日の仕事の愚痴は休日の喜びでは埋め合わせることができないと私は考えているからです。それらは本来的には全く別のベクトルを向いている事柄なのです。確かに休日の娯楽で不安を紛らわすことはできるにはできるのでしょう。しかしながら、無慈悲にも月曜日は働くことをやめないではありませんか。つまり、気晴らしとは、もしそれが不安を紛らわす目的であるのならば、そのように思っている人は全くの見当違いをしているのであり、言ってしまえば、気晴らしは気晴らしそのもののための行為にほかならず、不安は不安として心のしこりとして残り続けているのです。

だから、「ああ!今日も仕事だ、早く休みになって欲しいなあ。」、そのように愚痴をこぼすことは、本当に悲しいことなのです。何が悲しいかと言えば、休暇が平日を帳消しにできると取り違えていることが悲しいのです。であるならば、やはり平日の苦しみにこそ、焦点を当てる意味があるのではないでしょうか。

色々な古典を読んでみて思うことでもあるのですが、ほとんどの人生の苦しみは各自の思い込みである、そのように今のところは私の腑に落ちています。たとえば、怖い顔をしたおじさんを見て子供達が怖がるのは、彼らの想像力のおばけが邪魔をしているにすぎないのです。怖いというビクビクした臆病は、子供らしく想像力が豊かな証拠でもある一方で、大人になってもそれらの性質をいつまでも持っていることは、未成熟の証であると世間では捉えられてしまうことでしょう。

試しに、何かに対して「怖い」と思い込んでいる人に、具体的に何が怖いのか?と聞いてみて欲しいのですが(わたしは聞いたことないですが)、おそらくこのように答えるのでしょう。つまり、「なんとなく、そう思う」と。この「なんとなく」が以外に厄介者です。なぜなら、それには今までの人生経験や、文化と習慣、生まれた時代背景、あらゆる外部的な印象が無意識に刷り込まれているからです。

つまり、人間は、怖い人が実際に怖いからではなく、怖いと思うことを怖いと思い込んでいるからこそ怖がるのです。なお、ストア派の哲学によれば、肉体的に物理的な痛みですらも、そのような思い込みが原因だと言っているのですが、それはあまりにストイックというものです。死をも恐れぬローマの兵士と、大都会東京の高層ビルに囲まれた温室育ちのしがない日本人を比べてもらっては困るというものです。

ほかには、私たちが何かに対して「気にくわない」と思うことすらも、この「なんとなく」が邪魔をしている結果だとも言えるのでしょう。それから、私たちの頑固が何かを断定的に「絶対にそうだ!」と決めつけるとき、もしくは、他者を批判するときにも、おそらく少なからず、私たちは「なんとなく」そう思っているにすぎないのではないでしょうか。

たとえばディスカッションをする機会があったとします。誰かが自分の「気にさわる」ことを発言したとします。彼らの発言が事実として間違っていたからこそ、それが自分の気に障ったのかもしれないし、彼らの発言に自分に対する攻撃的な感情がこもっているように聞こえたからかもしれません。間違いに対しては、訂正をしてあげたいという自惚れた饒舌が、いまかいまかと時機を伺っているのにすぎず、否定的な発言に対しては、同じく自分の「正義」に則り、反抗のチャンスを待っているにすぎないのです。

よくよく彼らの発言を分析すれば、それはそれで、理屈が通っているとしたものですが、やはりこの場合にも、「なんとなく」という各自のあまりに曖昧なバイアスが、それぞれの価値観の違いという世間一般の呼称のもとに、邪魔をしているのにすぎないのではないでしょうか。人間がいつ怒りを覚えるのかといえば、おそらく多くの確率で、何らかの他者の行為や物事が、各自の「なんとなく」の領域を踏み荒らすときである、と表現することができるでしょう。

思い通りにいかないとき、たとえば満員電車の中で押し合いへし合い相撲をとるとき、たとえば長蛇の列で横からの割り込みの監視に務めるとき、たとえば子供達がいつまでも言うことを聞かず自由気ままに悪巧みに励むとき、私たちがそれぞれ、絶対にそうだと思い込んでいる「なんとなく」の逆鱗に触れてしまうのです。

私たちが取り組むべき課題は、この「なんとなく」に真っ向から立ち向かうことなのだとわたしは考えています。なぜなら、フランクルが生きた時代の「なんとなく」こそ、ナチスであり、強制収容所であり、人類の恥であり、学ぶべき教訓にほかならないからです。それから「なんとなく」を生きるということはそれこそ、なんとなく生きていることにほかならず、そこに生命への緊張感や、精神的で内面的な向上はなされないだろうと考えているからです。

それは現代社会では、資本主義、差別、貧富の差、などの社会的問題にもよくあらわれているのでしょう。また、ここで思い出すべきは「夜と霧」の一番最初の英語訳の題名である「From Death-Camp to Existentialism」です。Existentialismは実存主義と訳されます。つまり本質とはなんであるのかを、その追求の姿勢を持つことが求められている、そのように私は考えています。

また、さらにこれらの問いを深めるとするならば、「なんとなく」に支配されきった人間は、果たしてまともな人間たりえるのか?ということまで考えていかなければなりません。たとえば暴力を正義であると思い込むことや、不正を公正であると思い込むこと、これらも言ってしまえば、「なんとなく」に刈り取られた結果にすぎないのではないでしょうか。もしそうだとするならば、彼らは本当に間違っているのだろうか?という問いかけを行なわなければなりません。

この点に関しては、フランクルはこのように述べていました。

こうしたことから、わたしたちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともでない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れ込んでいる。まともな人間だけの集団も、まともでない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。

ヴィクトール・フランクル「夜と霧 新訳」(みすず書房) 翻訳 池田香代子

もし仮に「なんとなく」が社会のせいだとするのであれば、それは恐ろしいことです。なぜなら、それが被疑者を生み出すからです。歴史は繰り返してはいけませんが、だからこそ社会通念とも呼ばれているこれら「なんとなく」と真剣に向き合わなければならないのではないでしょうか。

「なんとなく」に支配されそうなとき、そこにはあまりに危険な思想が紛れているということに、私たちは気がつかなければならないです。しかしながら、人類の歴史が語るように、今日もまた、私たちは「なんとなく」に一生懸命に抵抗をしながら生きていこうと背筋をぴんと伸ばして、あくまで個人的な反抗を繰り返していくことしかできそうにない。

2021/02/21

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