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集団行動と協調性と空気を読むことを、阿呆らしく思ってしまった時の鎮痛剤としての思考方法。 ショーペンハウアー 『幸福について』との対話。

文字数:約3,080

ショーペンハウアーは18世紀後半〜19世紀のドイツの哲学者です。徹底的に厭世的で辛辣に世の中を観察する彼の哲学は、非常に強力な魔力を持っていて、読む人によってはその人を良いようにも悪いようにも改造してしまうほどで、読み方には注意をしなければならない本だと思っています。

さて、ショーペンハウアーの『幸福について』では、その人のあり方が幸福の第一要件として前提づけ、その次にその人の有するもの(特に財産)や他人からどう思われるかという印象(名誉や評判など)が幸福に関わるとしていました。

他人からどのように見られるのかということに関しては、当然他人と関わらなければなりません。しかし、ショーペンハウアーの哲学はその人の意志に重点が置かれているので、その人の意志を求めること無く他人の中にそれを求めることは何とも貧弱な精神だと冷徹な態度をとっています。

そこで今回は他人との関わり方という点に着目して、ショーペンハウアーの哲学を考えてみました。他人といっても色々なレベルがありますが、この本では親友や家族など近い関係性以外という意味での他人のことを言っているように思われます。

このような第三者と関わる機会は、この本の中では社交界と一括りに説明されています。社交界とは生きていく上で必要な人付き合いという意味で語られています。私の場合に当てはめれば、会社関連や大学、その他の大きな催しごとや会食がそのような場の一例です。

まず始めに、ショーペンハウアーはこのような場をくだらんと一蹴します。理由がつらつらと愚痴のごとくこの本には書かれていますが、このように述べています。

すべて社交界というものはまず第一に必然的に、人間がお互いに順応しあい抑制しあうことを要求する。だから社交界は、その範囲が大きければ大きいほど味気ないものになる。(この)強制ということが、およそ社交には切ってもきれないものである。社交は犠牲を要求するが、自己の個性が強ければ、それだけ犠牲が重くなる。

ショーペンハウアー 『幸福について』(新潮文庫) 翻訳 橋本 文夫

いわゆる上流の社交界では、ありとあらゆる美点・長所を認めるが、精神的な美点・長所だけは認めない。いや精神的な美点・長所は禁制なのだ。社交界では、どんな馬鹿げたことでも、無限の忍耐を示すのが義務とされている。精神的な優越は、それが目の前にあるというだけで、別段何の意志を発動させなくても、人の気に障るからである。

ショーペンハウアー 『幸福について』(新潮文庫) 翻訳 橋本 文夫

すなわち普通の社交界で人の気に入るには、どうしても平凡で頭の悪い人間であることが必要なのだ。だからこうした社交界では、我々は他の人たちと似たり寄ったりの人間になるために、大いに自己を否認し、自己の四分の三を捨てなければならない。

ショーペンハウアー 『幸福について』(新潮文庫) 翻訳 橋本 文夫

社交界では、仮面を被れと言っているのです。みんな仮面の裏側でペロリと舌を出しているのです。仮面舞踏会で仮面を外す行為は恥ずべきことなのです。

またショーペンハウアーはそのような取り決めのことを礼儀作法であると分析をしています。つまり集団の中で中庸を守るための間隔のことを礼儀というのです。これは面白い見方だと感じました。

面白い見方だというのは、根本的な思想のアプローチの違いがあるように思われたからです。

日本人には武士道の精神が根付いていると思っていて、それは儒教的な仁義を重んじ礼を忘れぬ心がベースにあるはずです。

礼儀作法はマナーと言い換えることができますが、例えば社会生活上のマナーつとって見ても、マナーとは思いやりというイメージが強いのです。

ラ・ロシュフコーという17世紀フランスの貴族がいるのですが、ある本でこのように述べていました。

その人の心の襞にあまり深い入りしないのが、礼儀であり、時には思いやりでさえあるのだ。

『ラ・ロシュフコー箴言集』(岩波文庫) 翻訳 二宮フサ

他人に恥をかかせないことを思いやりだとすれば、ヨーロッパでの礼儀も思いやりということになりますが、やはり文化も違いますので根本からのアプローチのニュアンスも当然ながら微妙に異なります。

エマソンからは個人主義的態度を取りながら、決して利己的にはならないことを学びました。山本常朝からは武士の心得の一つである和と謙譲を学びました。孔子からは渋沢栄一を通して道徳を学びました。ゲーテからは他人から学び続けることの意義を学びました。

ショーペンハウアーは他人を厳しく審査し、また自分を厳格に見つめた結果、世界の苦痛に気づき、そこに仏教的な解脱と諦念をリンクさせたようなペシミズムの哲学だと思っています。

この本の前書きでは、そんなどうしようもない世界で、あえて幸福という幻想に少しだけ近づくとするならば、それは苦痛を少しだけ減らして生きやすくすることだと幸福が定義づけられています。そして、そのためにはその人のあり方が絶対的であると結論づけています。そのように前提すれば、他人との関わり方へのショーペンハウアーの態度もなんとなくわかるような気がします。

ただし、冒頭で述べたようにショーペンハウアーの考え方を字面のまま信じることは、少なくとも私は危険な思想だと思っています。なぜなら、極度の個人主義の行き着く先は一切の社会的関係からの孤立であり、それでは現代社会を生きてはいけないと考えるからです。

私も時々そのような感覚に陥るのですが、集団の会合でどうしても耐えられなくなる時があります。誰でも経験があるのではないでしょうか。何故、こんな馬鹿げた集まりに出なくてはいけないのだろうかと、毒のある感情のことです。

この問いには、それは出席する必要があるからという絶望的で絶対的な理由があるからに他ならないのですが、では、どのようにこの感情と折り合いをつければよいのでしょうか?

そういう人には、社交界に入っても自分の孤独をある程度まで持ち続ける習慣をつけるようにお勧めしたい。したがって自分の思うことをすぐに他人に話したり、また他人の言うことをその通りに受け取ったりしないで、むしろ道徳的にも知的にも他人の言うことにはあまり期待をかけず、したがって他人の意見に関しては、常に堂々たる寛容ぶりを最も確実に発揮しうる無関心の態度をしっかりと身に付けるようにするがよい。そうなれば身は他人の真っ只中にありながら、すっかり他人の社交仲間に入りきってしまうこともなく、他人を見るにもむしろ純客観的な態度を取ることになろう。引用:幸福について-人生論-(新潮文庫)

ショーペンハウアー 『幸福について』(新潮文庫) 翻訳 橋本 文夫

賢者が口を揃えて言うように、寡黙であることは真理だと思っています。寡黙とは、無口で何も発言をしないことではありません。寡黙とは、精神をひけらかさない作法のことを言うのです。

思いやりとは、他人のことを観察してその人の身になって考えること、その上で気遣うこと、と辞書を引くと出てきます。

人の素裸がとても見られたことではないのと同じく、明け透けな精神もとても耐えられる代物ではないのです。これは私から見る他人も、他人から見る私でも変わらない事実だとショーペンハウアーは言っているのです。

現代社会で人が生きていく上で、他者との関係は避けては通れない道です。それでも、もし逃げ出したくなった時には、ショーペンハウアーから棘を借りて人生の防御壁を築くことも一考の価値があるかと思います。

2020/05/30


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