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自分を信じることは、ちっぽけで弱々しい自分を黄金に変える魔法。エリック・ホッファー 『魂の錬金術』との対話。

文字数:約3,020

私は大学生のころはやたらと自己啓発が好きだったように思う。不安になれば図書館か本屋に行き、自己啓発本を手に取る。一時的に不安が解消されたような気分になるからだ。しかしどんな本を読んだのか、あまり覚えていない。

唯一覚えているとすれば、とある英語教師のモチベーションに関する講義だろう。人間は本質的には無意識に支配されていて、一時的に高揚した気分は無意識によって鎮火される。これにはコンフォートゾーンとホメオスタシスの原理が働いている。

コンフォートゾーンとは自分にとって居心地がよいと無意識が感じている状態のことだ。このとき人は潜在意識では不安とストレスを感じない。例えば英語学習やジムでのワークアウトが続かないのは、その行為が自分のコンフォートゾーンから外れていることが原因である。

新しいことをしようとするとき、簡単に前に進めないのは、潜在意識が邪魔をしているからだ。人間を含めた動物はその恒常性を維持する機能を持っている。これをホメオスタシスと呼ぶ。この機能のおかげで三日坊主で参考書を投げ出してしまう都合のよい言い訳ができるわけだ。コンフォートゾーンから外れている状態は無意識が危険と判断するから仕方がないことなのだ。

ではどうすればモチベーションを維持して英語を学習できるようになるのかと言えば、なりたい自分を具体的に想像して今ここにいる場所を無意識的に不快であると信じこませればよい、とその先生は言っていた。

そのためにはまず細分化されたゴールを設定する必要がある。自分の経験を棚卸し(自己分析)して、なぜ英語を勉強するのか、英語を勉強してどうなりたいのか、このような動機付けを行う。そしてアフォメーション(肯定的な言葉を自分に投げかけること)を唱えれば、より効果的なのだ。

そうすると英語を勉強していない状態が自分のコンフォートゾーンから外れていることになる。つまり無意識では不快に感じるのだ。そのような状態になればすでに勝ったようなもの。意識が高いとは、無意識が高いと言い換えてもよいかもしれない。つまり他の人とはコンフォートゾーンが違うのだ。

自己啓発本を繰り返し読むと無意識を高くできる。自分に確信と自信が持てた気になり不安定な精神状態は一時的に情熱に包まれる。そして自分は他の人よりもその炎の勢いが強いと思い込む。

意識が高い人は、そうでない人と比較したがる。上から目線で無慈悲に世界を見下している。意識が高いとはステレオタイプとして、大学生くらいの若い人たちの間で語られることが多く、正直あまりいい意味を持っていないように感じられる言葉だ。

情熱の大半には、自己からの逃避がひそんでいる。何かを情熱的に追求する者は、すべて逃亡者に似た特徴をもっている。情熱の根源には、たいてい、汚れた、不具の、完全でない、確かならざる自己が存在する。だから、情熱的な態度というものは、外からの刺激に対する反応であるよりも、むしろ内面的不満の発散なのである。

エリック・ホッファー『魂の錬金術』(作品社) 翻訳 中本義彦

自己を啓発して志は高く、目標に向かって行動することにはまったく問題はないばかりか、むしろそうあるべきだろう。しかし問題は啓発される自己そのものにあると私は思う。つまり自己啓発本を受け入れる器の大きさが足りないのだ。器が小さければ、情熱は外に溢れ出るが、それは他人にとってはしばしば有害な毒となる。

不安を解消しようと努力することは素敵なことで、足りない自分を補うために学習することは喜ばしいことだ。しかしそのような学習や行動を通じて自分が満ち足りたと少しでも思い込んだとき、不安定だった気持ちはプライドとか自惚れなどに変色して黄ばんでしまう。

弱い自分が輝かしい武器を手にしたとき、人に見せびらかしたい欲望に簡単に支配されてしまう。私はすごい、自慢がしたい、他人に認められたい、他人にすごいと言われたい。気がつけば強欲で傲慢な何かの卑しい動物に変身しているようだ。

エリック・ホッファーというアメリカの哲学者がいる。ホッファーはプライドは自尊心の代替物に過ぎないと言った。

自尊心に支えられているときだけ、個人は精神の均衡を保ちうる。自尊心の保持は、個人のあらゆる力と内面の資源を必要とする不断の作業である。われわれは、日々新たに自らの価値を証明し、自己の存在を理由づけねばならない。何らかの理由で自尊心が得られないとき、自律的な人間は爆発性の高い存在になる。彼は将来性のない自分に背を向け、プライド、つまり自尊心の爆発性代替物の追求に乗り出す。社会騒乱や大変動の根底には、つねに個人の自尊心の危機が存在する。そして、大衆を最も容易に団結させる偉業達成の努力も、基本的にはプライドの追求なのである。

エリック・ホッファー『魂の錬金術』(作品社) 翻訳 中本義彦

プライドのベクトルはつねに他人に向いていると思う。他人にとっての自分という存在が、プライドが高い人には重要事項なのだ。自分にとっての自分という存在のことには、目も当てられないからだ。

私は弱い自分ともっと真剣に向き合う必要があるのかもしれないし、何か行動しなければいけないという焦りや不安に、もっと寄り添って考えてあげなければいけないのかもしれない。

コンフォートゾーンを広げて、人の活動の多くの判断を担う潜在意識に働いてもらうことは、目標達成のためのある種の技術だと思う。一方、潜在意識がせっせと働いているあいだ、肝心の意識は何をしているのだろうか。きっとコーヒーでも飲みながら、のんびりとあくびをしていたに違いない。

意識とは器の大きさのことで、心の広さのことだと思う。器が小さいからといって目を背けていては、いつまでも息がつまるような狭い部屋に閉じ込められたままだ。足りない自分を拒絶するのではなく、根本的に足りないからこそ向き合うべきなのだろう。

比較すべきは昨日の自分と今の自分であり、もう他人との比較なんてどうでもよいと言い切ったほうがいいのかもしれない。誰かに褒めてもらいたい、すごいといってもらいたい、注目されたいという欲望に、これっぽちの価値もないと突き放したほうが健康なのかもしれない。その代わりに、たまには自分で自分を褒めてあげるだけでいいのかもしれない。

不安な日常は、意識一つでどうにでもなる可能性を持っていることをホッファーは教えてくれる。弱さを勇気という黄金に変えてしまう人もいれば、せっかくのひかり輝いているダイヤモンドをどこにでも生えているキノコに変えてしまう人もいるのだ。

人間とは魅惑的な被造物である。そして、恥辱や弱さをプライドや信仰に転化する、打ちひしがれた魂の錬金術ほど魅惑的なものはない。

エリック・ホッファー『魂の錬金術』(作品社) 翻訳 中本義彦

身につけるべきは技術力ではなく精神力だと思う。しかしこれは賢人が口を揃えていうように全人生をかけて取り組むべき課題のようだ。毎日の行動と反省を繰り返すことでしか人格は作られない。

だから、断言したほうがいいのかもしれない。嬉しいことも嫌なことも、善も悪も、何に意味があり何に意味がないのかを、世界の本質を、何が信じるべき真実なのかを、人生の全責任は自分にあるのだと。

自分の人生という自然で高潔な領域にとどまり、自分の心に従いたまえ。By ラルフ・ウォルドー・エマソン

2020/07/28


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