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FACTはファクトではない、ということについて。ハンス・ロスリング『ファクトフルネス』との対話。

文字数:約4,610

大学生時代にロンドンに1年間の語学留学をしていたときのことだ。とある授業で先生が目を丸くして私の方を見ていた。何か英語の文章を朗読していたときだったと思うが、私が F**K と連呼していたからだった。

まずは弁明をさせてほしい。私は F**K と言いたかったわけではもちろんなくて(授業中に F**K を意図的に連呼するほど、idiot な世間知らずはそうそうこの地球上にはいないだろう)、実は FACT と発音したかっただけなのである。

日本語は、カタカナ英語の便利さゆえに、ときとして思わぬ落とし穴にはまってしまう言語だと思う。FACT はその良い例だ。FACT はカタカナではファクトと表記されるが、そもそもこの発想がいけない。なぜならファクトは FACT ではなく F**K の発音にきわめて近いからだ。

留学して早い段階で、この「事実」に気がつくことができて本当によかったと思う。カタカナ英語は ENGLISH ではなく、単なる日本語なのだと気がつくことができたことは私にとっては大きな進歩だった。これは私自身の間違った「思い込み」をアップデートできた貴重な経験とも言えるだろう。

でもやっぱり正直に言って、日本語にない発音は難しい。知らなくちゃ分からないことなんていくらでもある。知識がなければ「常識」外れな言動をしてしまうことだってあるのだろう。

しかし、世界は思った以上にやさしいのだ。英語のクラスで F**K と言っても、おそらくは多くの人があなたのことは嫌いにはならないはずだから。この人はネイティブではないんだな。そう相手が気を遣ってくれさえすれば、少しの間違いは単なる間違いにしかならなくなるのだから。

だから、ミスは直せばいい。ただそれだけのことで、恥ずかしくもなんともない。ただし、おそらく地球上の全ての人があなたの F**K に気がつき、やさしく接してくれるわけではないということも同時に知っておく必要があるのだろう。

なぜなら、発音を間違えることが「常識」ではない「常識」の世界も同時に存在しているのだから。(実は今でも極力、日本人以外にFACT と言うことはためらっていて、代わりに少しニュアンスは違っても TRUTH とか別の類義語を使うことにしている。だって見ず知らずの人に F**K というのはあまりに失礼なのだから。たしかに発音を矯正すればいいだけの話ではあるのだが、そんな厳しいことを言わないでほしい。)

さて、留学とは、相対性を学ぶことだ!

そのような意味において、海外での経験は私の人生の中でも、とっておきなのだ。

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今、ハンス・ロスリングの『ファクトフルネス』を読んでいる。

ファクトフルネスとは――データや事実にもとづき、世界を読み解く習慣。賢い人ほどとらわれる10の思い込みから解放されれば、癒され、世界を正しく見るスキルが身につく。世界を正しく見る、誰もが身につけておくべき習慣でありスキル、「ファクトフルネス」を解説しよう。amazonの説明文より引用

詳しい内容の解説については、中田敦彦が熱くエクストリームに語っているので、そちらを参考にしたい。

自分自身の「思い込み」と「常識」をくつがえす。世界の見方をガラッと変えるには、例えば世界旅行が有効なのだとハンス・ロスリングは本文中で指摘していた。私自身もそう感じている。日本での常識が他国での非常識というケースもたくさんあるし、Vice verca(その逆も然り)。

これは今思い返せば、ぞっとするし、あまりにも「非常識」で世間知らずで命知らずの行動だったなあ、と我ながら関心しているのだが、例えばお酒に酔っ払って公共の場で眠りこけること。これは是非やめていただくか、もしくは精一杯の妥協点として日本の中だけに留めてほしい(自分への厳格な戒めとして)。私はお酒が弱いにも関わらず、その場の雰囲気が気に入っているので、思わず飲んでしまうからいけない。

大学生時代には居酒屋で睡魔に襲われ寝てしまうことは少なくなかった。そのあまりに「非常識」なノリが当然のことと勘違いしていた大馬鹿もの(私のことだ)は、日本以外の国で3回もパブリックの場で眠ったことがある。一つは NY 、もう二つは LONDON でだ。一つずつ昔の記憶を思い起こしながら反省をしている。

NY は大学2年生のときに訪れた。気の合う友人と、1週間の男二人旅だ。当時、私は英語が一切できず、旅行中はそのほとんど全てを友達に任せっきりにしてしまった。そのためか、残念ながら特に旅行自体の記憶はほとんどなくて、実のことを言えば、残っているのは当時の写真だけなのだ。だが、旅行中の失敗だけは鮮明に覚えているから人間の記憶力は不思議なものだ。

確か本場のステーキ屋でディナーを堪能した帰り道だった。慣れない異国の地によっぽど疲れていたのだろう。私たちはあろうことか SUBWAY で眠りこけてしまったのである。よくもまあ、何もなくならずに奇跡の生還を果たせたものだ、と我ながら自分の強運に関心してしまう。だって目を開けたらハーレム地区付近の駅に停まっていたのだから。(もちろん、何事もなかったことは安全の証明にはなりえるけど、だからと言って安全だと「決めつける」ことこそ、あまりに危険な発想でもある。)

そんなことより、NY。旅行したいなあ。

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さて、LONDON では2回も眠りに落ちた。大学生時代はよく、終点までのろのろと寝過ごしたものだ。だが、あろうことにも LONDON でそれをするとは。つくづくすごい!としか言いようがない。2回のうち1回は、TUBE(正確には私が乗っていたのは LONDON OVERGROUND だけど)で寝過ごし、車掌にあまりに呆れた顔で起こされた経験である。こんな人間いるのか?みたいな顔をされたことを鮮明に覚えている。これはたった一人のときだったから、本当に危なかったと思う。

もう一つは PUB でだ。ホームステイをしているとき、朝までクラブに行こうとファミリー(お父さんとお母さんは家でお留守番。私と同い年くらいの仲間たちと、私含めて4人での夜遊びだった)に提案されて、私はジュークボックスのあるローカルなクラブ(かなり賑わっていた)に連れて行かれた。確かコークハイボールボム(記憶は定かではないが、コーラが入った幅が広めのグラスに、ショットグラスに入ったウィスキーをそのグラスのまま入れて、出来上がったコークハイを胃に流し込むゲーム)をファミリーと腕をクロスさせながら飲んでいた。

気がつけば PUB の定員が私の顔をペシペシ叩いている。酔いに負けて泥酔していたのだ。重たい目を開ければ、ファミリーのうちの一人(女の子)が、 PUB で出会った見知らぬ男性といい感じになり、恥ずかしくて目も当てられないような接吻に耽っていた。もう一人のファミリー(男の子)は、何やら気にくわないことに巻き込まれたようで、ビールのガラス瓶を逆さまに持ちながら、周りの人たちが一生懸命に彼を止めようとしている。最後の一人(女の子)は私の隣で、スマホを見ながらちびちびやっている(おそらく私の面倒を見てくれていたのだ。なんてやさしいお姉さんなんだ!)。

でも、そんなことより、LONDON に行ける機会が早くこればいいなあ。

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上に書いたのは、どれも留学後一ヶ月以内に私自身が体験した失敗談だ。しかし、これはある意味で、とても運が良かったことだと今では思う。これ以来、私には危険センサー(勝手に私がそう呼んでいる)なるスキルが付属され、日本以外の国にいるときには(もちろん日本でも)、この能力が自動的に発動されるようになったからである。

最近ではコロナで海外に行くことすらできていないので、私の危険センサーは残念ながら、おそらくは鈍りはじめている。「思い込み」はみんなが思っている以上にやっかいなのだ。なぜかといえば、おそらく多くの場合、「思い込み」は各自の無意識下で行われるからだ。

「常識」、「非常識」、「思い込み」、「価値観」、「習慣」、「文化」、「性格」、「国民性」。これらは相対的ではあるが絶対的ではありえない。これらは書き換えることが可能なことでもあり、実際に世の中ではその多くが時の流れに従ってどんどん更新されている。

上に並べた括弧付きの言葉は、おそらくは多くの場合は無意識下で行われる。そのためか、それらの変化には気がつきにくいとしたものだ。知らないうちに「常識」が別の「常識」にすり替わっていたなんてことも往々にしてあるはずだ。

いわば、危険センサーは無意識を意識下に戻してくれるような機能の一つなのだ。つまりは「思い込み」を「思い込み」だと認識できるスキルのうちの一つだとも言えるのだ。私たちはあくまで相対的で可変的な世界で生きている。相対的なのだから、それらは容易に変わりゆく。違って当然である。

だからそのような意味で、ハンス・ロスリングも本文中で指摘していたが、「あの人たちは〜」とか「私たちは〜」だとか、もしくは「〇〇人は〜」とか「彼らは〜」などのように、世界を分断させるような思考判断は明らかに間違っている。なぜなら、私たちが立っている場所は絶対的ではないからだ。

たしかに、あちらの国よりもこちらの国の「常識」や「国民性」の方が優れている、と判断したくなる気持ちはわからないでもない。なぜならこれは人間が本来的に持っている虚栄心にほかならないからだ。

相対的なものを絶対的だと勘違いをしたとき、私たちは多くの確率で失敗をする。そもそも、往々にして絶対的なことがあるかどうかも疑わしい。ハンス・ロスリングは自身を「可能主義者」であると表現していた。「可能主義者」とは彼の造語だ。

変化とは可能性である。相対的なことがらをあくまで相対的であると意識的に認識できれば、あらゆるものごとはやさしさを帯びると私は思う。例えば、旅行をしているときに私たちは気がつく。旅行者同士には、やさしさが溢れていることに。

この惑星において人間は異邦人である、と考えるといつも興奮をおぼえる。by エリック・ホッファー

中田敦彦は『ファクトフルネス』をハンス・ロスリングによる全人類へのラブレターであると表現していた。この本には、彼のやさしさがいっぱいに詰まっている。ハンス・ロスリングは「事実」を並べているが、「事実」を全て知ることはおそらく不可能に近いことも「事実」なのだ。

ハンス・ロスリングが述べたかったことを突き詰めれば、COMPASSION(思いやり)なのだと私は思う。それはファクトを F**K ではなく FACT だと気づいてあげられるやさしさに近い。 思いやりとは、相対的な世界においてはなくてはならない、本来は保有しているものの、「思い込み」がそれらを忘れさせ絶対的な世界を作ろうとする愚かな人間たちを、私たちは歴史から学ぶ。

It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent that survives. It is the one that is most adaptable to change. by チャールズ・ダーウィン

2021/03/17


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