成功しなくても、幸福にならなくてもいい。このゲームをプレイしても、プレイしなくてもいい。 ドリー・クラーク『ロングゲーム』との対話
文字数:約4,890
なんだかふと、ビジネス書(ただ多分これは自己啓発書なのだろうとは思うが)を読みたくなって、YoutubeでDaiGoが紹介をしていたドリー・クラークの『ロングゲーム』を読んだ。
Amazonの説明文にはこのように書かれている。
私は多分、まだまだひねくれた性格の人間で、この手の本を読むときにどうしても斜に構えたくせが抜けない。ではなぜ、わざわざ読んだのか?という厳しい質問はどうかしないでほしい。「ただ読んでみたかったから」、本を読むのにそれ以上の理由は必要ない。私の好奇心が読書に私を向かわせたから、それだけで充分な論拠になりうるどころか、むしろそれだけが私の読書の動機のすべてであるとも思う。
とはいえ結局、最後まで読了してみても、私が最初に抱いた疑問はそのままに残りつづけた。ただこれはあくまでも私自身の所感にすぎないのであって、だからこの本を読みなさいだとか、だからこの本は読んではいけませんだとか、そのような断定的な物言いは私にはできない。なぜなら私にはそのような権限は与えられていないからだし、私自身の傾向がそのような言い方を否定したいと言っているからである。
『ロングゲーム』というタイトルは文字通り、何かがゲームであることを示す。では何がゲームであるのか。その主語はおそらく人生が、である。「人生とはゲームである。だからそのゲームの攻略方法を教えましょう」、と数多くのビジネス書は指南する。ゲームであれば、そこには攻略方法が必ずあるからである。
もし仮に人生がゲームであれば、そこには攻略方法があるのだから、要するに成功するというシナリオも、失敗するというシナリオも、幸福になるというシナリオも、不幸になるというシナリオも、ほぼ全ての道筋がゲーム設計者によってプログラミングされていることになる。だから、もし仮に人生がゲームであれば、私たちはその攻略方法を探して、自分に合うようなメソッドを導入し、その通りにキャラクターを進めていれば、大きく道を外すことなく目的を達成できる仕組みだ。
そしてその攻略方法というものは、無限に存在している。最も効率の良く、最も分かりやすく、最も大衆のレビューを稼いだ攻略方法を大多数のプレイヤーは活用してこのゲームをプレイする。あえて攻略方法は一切見ずにゲームをエンジョイする人々(俗にいうエンジョイ勢)も中には存在する。だが、エンジョイ勢は俗にいうガチ勢には勝負では勝てない。
ガチ勢は多くのデータを読み込み、戦略を練って、修練を繰り返して勝負に望む。ガチ勢の中でもトッププレイヤーと呼ばれる人たちは、彼ら自身の経験と勘と知識を駆使して、敵の何十手先までをも見通す。彼らは常に最新の一手を生み出し、その斬新なメソッドがその他大勢によってもてはやされ、トレンドとなる。多くの人々がそのようなメソッドを真似事のように活用するようになれば、もはや敵に対してそのような方法は流行る前の段階よりもその効力を著しく減少させる。
要するに陳腐化したということだ。大勢の人々が同じやり方をしている場合、私たちはゲームの世界ではその他大勢には勝てない。トッププレイヤーに勝ち上がるには創造力が欠かせないのだろう。本当のトッププレイヤーは、もはやそのゲームの設計者よりもそのゲームのことを知っている可能性がある。つまり本物のトッププレイヤーたちは、もうゲームをプレイする側ではなく、プログラミングをする側にまわっているに等しいのである。
彼らにはこのゲームにおけるほとんど全てのアルゴリズムがクリアに見通せる。手に取るように彼らにはこの世界のマトリックスが見通せる。どうやったら彼らに勝てるのだろうと考えること自体が無謀である。私たちその他大勢のプレイヤーは、ゲームの設計者に勝てるはずがない。確かに彼らが設計をしたラスボスには勝てるのかもしれないが(そしてそれは必ず勝てるように設計されている)、その先の本当のラスボスはゲームの画面を通り越したところに存在している。
「人生とはロングゲーム」である。よくわかった。その攻略方法も把握した(あくまでも無数にあるうちの一つという意味で)。
だが、私たちは「人生とはロングゲームである。さあ、このゲームを楽しみましょう」と語るゲームディベロッパーには勝てっこない。もう私たちにはそのゲームをプレイする前提に話が勝手に進んでしまっているからである。私たちは開発者の顧客、大事な大事なお客様のワンノブゼムになってしまっているではないか。顧客の中には大口・中口・小口がいるが、どれも顧客であることには変わりがない。
「人生とはロングゲームである」、このような言葉は多くのゲーム開発者たちによって、それぞれの言葉に変えられて、無数に形を変えて語られている。だが、その本質はほとんどすべて共通している。大抵の場合には、そこにはそれらのゲームをプレイする目的、要するに「成功」への道筋と「成功」とは何たるかが記されているのである。
ここで今一度、問おう。人生とはゲームであるか、否か。
これに対する私の答えは決まっている。人生とはゲームなんかではないと私は思う。
ゲームという言葉の定義を「勝ち負けをあらそう遊び」と捉えた場合、私はそもそも人生とは勝ち負けでは計ることなどできないと思っているからである。19世紀アメリカの思想家 エマソンはこう言った。
ではここで再度、別の角度から問おう。人生の目的とは成功することであるか、否か。
あるいは、これはどうだろう。人生の目的とは幸福になることであるか、否か。
これに対する私の答えも決まっている。これには賛否両論あるかとは思うが、私は成功や幸福は人生の目的なんかではないと思う。なぜなら、私は成功や幸福は行動の副産物ではあるが、行動の目的生産物ではないと思っているからである。19-20世紀フランスの哲学者 アランはこのように述べた。
また、19世紀スイスの哲学者 ヒルティもこのように述べている。
成功したいと思う、幸福になりたいと思う、その動機は間違っていはいないとは思うが、多くの人々はその甘い誘惑にかられがちである。短期的な目標を追い求めることもそうだが、長期的な目標を追い求めることでさえも、もはや私たちがいちプレイヤーであるとする限り、この人生までもがこのゲームの設計者のシナリオ通りにすぎないのである。
この視点においては、私たちはゲームの設計者の顧客である。ドリー・クラークの『ロングゲーム』は税込で2,200円。Kindle版であれば税込で1,980円と少しだけ安い。Amazonのサイトには5万部突破と書いてあるし、世界中で何部売れているのかは調べても出てこないので、この数字が日本だけのものかどうかは不明だが(私の調べ方が足りないだけなのかもしれないが)、単純計算で少なくとも『ロングゲーム』は1億円以上の売り上げをあげている。
仮に印税が10%とすれば(ググると一般的には本の印税は定価の10%が多いらしい。もし仮に彼らが印税で儲けていると仮定するのであれば)、1千万円近くがドリー・クラークの収入となっている。私はそれを否定する気はないが、事実としてこの本だけで1千万円近くを彼らは稼いでいるのである。
私たちは彼らの顧客にすぎない。これがビジネスの構造である。彼らはこのゲームにおけるトッププレイヤーであり、ゲームの設計者に近い存在である。ローランドはこの構造を的確に、このように表現していた。
ローランドのこの発言はとても謙虚だと思った。彼は間違いがなく、この世界のトッププレイヤーであり、このゲームの設計者に近い存在の一人ではあるが、彼自身はあくまでもいちプレイヤーとして、自身を分析しているからである。その言葉には、虚栄心のかけらもなく、ただ純粋で高貴な謙虚さが溢れかえっているからである。
それに比べて、この私の文章はどうだ。否定的で、達観的なふりをする、傲慢で捻くれた代物である。おそらくは私はこの構造を否定しようとすればするほど、その構造のことを肯定していくことになるだろう。もはやこの構造、つまりはゲームからは抜け出すことなどできやしないのかもしれない。
もはや論理の堂々巡りである。おそらくローランドであれば、このような問いかけにはシンプルに、やさしく、こう答えてくれることだろう。「難しいことは気にせず、行動してみよう」と。
行動をしていれば、そこには成功や幸福が付随してくる。あるいはどんな言葉に変えてもよいが、そのような概念が生活と人生に付随してくる。すると私たちは大切な人々がまわりに存在していることに気がつける。思いやり、やさしさ、愛が芽生えてくる。
このゲームはプレイしたっていいし、プレイしなくたって構わない。もはや、どちらでも構わない。
なぜなら、私たちは何者かになどなれないのだから。なぜなら、私たちはもうすでに私たちであるのだから。
どうか、倫理の光が私たちを照らしてくれますように。
2023/05/13