育児とは愛するということ、である。アドラーと岸見一郎による子育て論との対話。
文字数 : 約8,970
岸見一郎いわく、いまだ現代社会はアルフレッド・アドラーの思想に追いつけていないのだそう。こと、「子育て」という側面からみても、確かにそうなのだろうと実感せざるを得ない。アドラーの『人生の意味の心理学』には、このようなことが記されていた。
アルフレッド・アドラーが生きた時代は今からおよそ100年以上前、19世紀後半から20世紀後半にかけて。「われわれは、女性が母性によって人類の生活に貢献することをいくら高く評価してもしすぎることはないことを繰り返しいいたい。」、「母親が家を守ろうと家庭の外で働こうと、母親の仕事は夫の仕事と同じほど重要である。」。アドラーは100年以上前の社会で、既にこのようなことを語っていたのである。
このような社会的価値観は日本でもここ最近、ようやく日の目を見るようになってきた(と私は思う)が、そのような意味ではアドラーの思想は時代を先取りしすぎていたと言わざるを得ない。私自身のことを申し上げれば、昨年末に第一子が生まれ、今は9ヶ月間の育休中である。「9ヶ月間育休を取ります(あるいは、「取っています」)、というとだいだい突っ込まれる。「けっこう長いですね」、と。
今まで子育ては経験したことがないので(当然ながら)、9ヶ月間が妥当なのかどうか、あるいは長すぎるのかどうかは正直に言って分からない。なお、私の妻も1年間の育休中だから、二人で一緒に子育てをしているわけである。今は生まれてから3ヶ月とちょっとで、私たち自身もだいぶ育児のリズムに慣れてきたし、赤ちゃんも少しずつまとめて寝られるようになってきたから(とはいえ、まだ大人のようにはまとめて寝ることはできず、深夜は3〜5時間おきに起きる(汗))、精神的には結構ゆとりが出てきた。
それぞれの家庭で色々な育児のあり方があるとは思うが、私は、私たちがこうして二人で協力し合いながら、赤ちゃんと向き合える時間をいただけていることに素直に感謝の気持ちでいっぱいである。とはいえ、私自身のプライベートなことはそっと横に置いておこう。私は育休取得の是非に関する議論がしたいわけではない。
最近、アドラーの『人生の意味の心理学』と、岸見一郎と古賀史健の『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を読んで、その備忘録をnoteに書き残したが、アドラーの子育て論なるものもここに記録しておきたいと思い、こうしてポツポツとまとめているのである。我が家の場合、まだ乳幼児だから、叱るほめるなどといった意味での子育て論が必要になるのは先の話にはなるのだろうが、その時になって覚えている自信はないのでこうやってせっせと書き留めているわけだ。
また、アドラーが語る(あるいは岸見一郎が語るといっても差し支えがないし、むしろそう言うべきなのだろうとも思う)子育て論は、実際に子育てをしている方々はもちろんのこと、その概念の本質は、あらゆる対人関係への態度を考える上で有効であろと感じている。例えば、職場での人間関係に悩んでいる方々にも応用できるだろう。なので、少しでも、そのような問題意識を持つ方々の参考になればとも思う。
さて、今回、参考にした文献は以下の2冊。
岸見一郎『叱らない子育て』(学研プラス)、岸見一郎『子どもをのばすアドラーの言葉 子育ての勇気』(幻冬舎)
まず、叱るほめるのどちらが良いかという問いについて、アドラーおよび岸見一郎の答えは非常にシンプルである。
つまり、そのどちらでもない、と。
「勇気づけ」について考える前に、なぜ子供を叱ってもいけないし、ほめてもいけないか、について熟考しようと思う。というのは、シンプルそうにみえるこの問いに対する態度は、理解することは容易でも、それらを自身の態度にまで落とし込み、さらにはそれらを体現することは簡単ではないと私も思うからである(岸見一郎いわく、アドラー心理学とは実践の心理学と言われている)。もちろん、叱るほめるの是非には、色々な言い分があるのだろうが、私はアドラー心理学の論理性がより正しさに近しいものなのだろうと今のところは腑に落ちている。
一つ一つ、考えていこう。
まず、なぜ叱ってはいけないのか。
アドラーと岸見一郎いわく、この答えも極めてシンプルで、それは、老若男女問わず、親子、上司部下、教師生徒問わず、もちろん国籍や肌の色の違いも問わず、私たちはみな、人間としては異なるが、対等な関係性にあるからだ、と。
叱るという行為の問題点の根っこは、その前提にある否定しがたい上下関係に存在する。親が子供を叱る、教師が生徒を叱る、上司が部下を叱る。大抵の場合において、その逆の関係性が成り立たないことこそが、叱ることの根本的な問題を証明している。
つまり、叱るという行為は、上から下への運動であり、それは何かを持っていたり、足りていると思っている人々が、何かを待っていなかったり、足りていなかったりする人々に対して、それらを保有し、足りるように促す忠告である。さらにより詳しく観察すれば、この関係性においては、誰々が何々を持っていない、あるいは足りていないということ自体の判断は、持っていなかったり、足りていなかったりする当事者たる本人がなすのではなく、すでにそれらを保有していて、満ち足りていると思い込んでいる人々の側によってなされるのである。
それは、持たざる張本人による自分自身への自己評価ではなく、持てるものによる持たざるものへの判決であり、一方通行的で断定的な意見の押し付けであり、大抵の場合においては、それらの上から下へと運ばれる意見には、怒りを伴う感情が付与されている。
「なぜ、こんなこともできないのか?」
「なんで、そんなことも分からないの?」
「なんで、あんなことをしたの?」
上から下への評価において、正解はすでに決めつけられている。この関係性においては、正しいのは持てるものであり、正しくないのは持たざるものである。そのようにすでに決めつけられている。
叱ることの目的は、教育である。ではその教育とは、どのような教育であるか。それは、持たざるものを持てるものとなるようにするための躾である。
持てるものにとってみれば、「こんなこと」や「そんなこと」や「あんなこと」とは、いわば常識であり、それらを知らない人々は、それらを知るように促されなければならない、そのように彼らは考えがちである。つまり、知らない人々を知っている人々へとなるように進ませることが教育である、と。確かに、何かを知っている方が、何かを知らないということよりも、社会的にも個々人的にも有益ではあるのだろう。
私は中学生のときに、野球部に所属していたが、当時、監督やコーチから、こっぴどく叱られ、怒られていたことをよく記憶している。それは、監督やコーチが目指すチームの在り方に対して、足りていないものになされる、いわゆる愛のムチである。職場でも学校でも、なんでもいいのだが、理想とするチームがあるとする。その理想は、監督者によって決められたものであるとする。すると、その理想にそぐわない人材は、その理想とつり合うように学ぶことが要求される。
かつて、私が学生だった頃、世の中の価値観は、恐らくは今ほどには多様性が認められていなかった。そこには、模範解答なる価値観がすでに用意されていた。人々は、ただそこに向かって進めばよかった。そうすれば、人生は勝手に進んでいくものであると教えられてきた。みんながそうであるように見えたし、自分もそうなるのだろうと信じていたし、そう信じ込まされてきた。
もしも仮に正解が一つなのであれば、人々はその正解を知りさえすればよい。そして、ある集団や組織では、最も効率的な方法でそれらの情報が伝達される。すなわち、感情的に叱ること、である。
現代社会において、叱るという行為が、過去よりも認められなくなってきたことは、世の中の多様性の向上が一つの要因でもあるだろう。私たちの生きている社会においては、正解は一つではないからこそ、いやむしろ正解などないかもしれないのだと大勢の人々が気づき始めたからこそ、上からの抑圧的な意見や態度は、いわば「昭和的」だと揶揄されるのであり、ハラスメントなのだと認識されるようになってきたのだろう。
今の世の中、なんでもハラスメントと言っても過言ではない。何かの記事で読んだのだが、ある世代の人々にとっては、LINEでのやりとりで、「。」がつくことを嫌うらしい。いわく、「。」が付いていると、抑圧的であり怒っているように思われるからだそうだ。
おそらくは、私たちにはまだ、対話へと踏み出す勇気が足りていないだけである。過去の日本において、叱ることが教育の現場において正義だった頃、論理と言葉の力を信じ、対話を尽くす勇気が足りていなかった人々は、自分たちの思うようにいかない「子どもたち」を、断定的で情熱的な言葉と行為の刃で串刺したのである。
では、今はどうだろう。今は「子どもたち」が反旗を翻しているようにしか私には見えない。叱るという行為は、すでに正義から悪へと成り下がっている。そして、すべての関係性は逆転したのである。
それは下から上へと進む運動であり、自分たちのことを「持たざるもの」や「足りていないもの」であると勝手に決めつけた上の人々に対する反発であり、新たなる正義感の確立である。この正義では、答えを一つに決めつけないことこそが正義であり、抑圧的な意見や態度がないかどうかの判断は下から上へと流れていく。
皮肉にも、これらの関係性は以前となんら変わっていないとも言える。彼らにとっての答えは、叱ることを容認した人々と同じく一つなのであり、したがって、答えが一つであるのならば、その答えを求めるための最も効率的な方法も同じなのである。つまり、言葉ではなく、感情的に反抗すること、である。
叱るという行為の問題点の根っこが、その前提にある上下関係に存在したように、叱るという行為に対する反抗を正義とする世間的価値観もまた、その前提には、上下関係が存在しているのである。そして、大勢の人々は、それらの腫れものには触らないようになっていく。人々は、実際には無関心なのではない。彼らは無関心を装っているだけである。
極端で断定的な意見は、感情的になりがちである。なぜなら、極端であり断定的であるということはそれ以上の余地はない(ように見える)ということであり、もはやそれらの意見を通すには、力技で押し通すしかないからである。私には論破とは、実際には論理的な対話というよりは、感情的な行為にしか見えない。残念ながら、そこには建設性は一切感じられない。
叱ることも、ただ叱らないままでいることも、どちらも間違っていると私は(私も)思う。それはどちらも建設的とは言えないからである。ゲーテもこのように言っている。
建設的な対話を行うにはどうすればよいか。そのためには、私たちは私たちを関係づける鎖をほどかなければならない。人間の価値そのものには、優越などないのだと、人間そのものはみな対等な存在であるのだと、心に染み込ませなければならない。
感情が顔を出したがっているときには、そっと口を閉じていればよい。そうすれば、誰も傷つけることはないから。相手の背後に隠れる感情と言葉を読み解き、限りないやさしさを持って話し合うことができれば、なんて素敵なのだろう。また、それは、なんて理性的な行為なのだろう。そう私は思うのである。
さて、随分冗長になってしまい、また子育て論という題名からは割と脱線してしまい反省している。なので、ここからは駆け足で進める。
ほめるという行為もまた、その構造はほとんど、叱るという行為と同じである。
「〇〇ができて、えらいね!」
何気なく、親が子に話しかけるこのフレーズのニュアンスへの違和感は、その関係性を逆転させることで明確になる。これらは、子が親に、あるいは部下が上司に、生徒が教師に、使えるフレーズではない。もっと言えば、このフレーズは、対等な関係でも使用することはできない。例えば、友達から友達へと、妻から夫へと、同僚から同僚へと、このようなフレーズが使用されることはない(もしあるのだとすれば、そこには何らかの上下関係が隠されている)。
叱るという行為と同じく、ほめるという行為も、とある一つの断定的答えの押し付けと言える。持てるものが持たざるものを叱り、持てるものが持てるものをほめる。持っているか持っていないかの判断は、上がなすものであり、下がなすものではない。そのうち、これも上下関係が逆転することは目に見えている。そして、もっとも残酷な無関心なる世界がやってくるのだ。
誰かをほめるとき(あるいは、ほめたいと思っているとき)、そっと胸に手をおいて、自分自身の心を観察すると、そこにあるのは凝り固まった固定観念であることに気がつくはずである。私たちはそれらの固定観念を否定されることを嫌い、そのような批判的な意見には感情的になりがちである。そのことが、私たちが個々に抱く意見が固定観念にすぎないことを証明している。
つまり、ほめることも、ただほめないままでいることも、どちらも正しくはないと私は思う。なぜなら、繰り返すが、それは建設的でもなければ、理性的でもないからである。
アドラーと岸見一郎は、叱ったりほめたりする代わりに「勇気づけ」をせよ、と語る。「勇気づけ」についての岸見一郎の定義は上述したように、「子どもを勇気づけるとは、一言でいえば、子どもが自分の人生の課題に取り組めるように援助するということです。」とおっしゃっている。「人生の課題に取り組む」とは、「自立」とも言い換えられよう。
教育とは、「子どもたち」の自立を援助し促すことであり、教育の目的とはそのような自立した個人を育成することであるとも言える。「自立」するのはあくまでも「子どもたち」であり、「大人たち」が「子どもたち」を「自立させる」ことはできない。それは、「子どもたち」自身の課題であり、「大人たち」はそれを見守ることしかできない。
問題は、「大人たち」である私たち自身は、果たして「自立」できているのだろうか、という問いかけである。私たちは気を抜けば、容易に安直な意見に絡め取られる。要するに、私たちは無意識に、私たちは「何でも知っている大人」であり、彼らは「何も知らない子ども」であると自分自身と他者とを判断しがちであるが、果たしてそれは本当に真実であるのか、という問いかけである。
「いいや、私は自立している」。
おそらく真に自立している人々は、このようなことすら意識には上がってこないのだろう。そもそも自立とは何か。(これはアドラーと岸見一郎に関する私の個人的な解釈にすぎないのかもしれないが)逆説的ではあるが、それは、自己からの脱却であり、共同体感覚の獲得と、他者貢献へのライフスタイル(性格あるいは人格と訳される)の獲得と、それらを志向する態度の確率である。
叱ったり、ほめたりしている段階では、まだ私たちは私たち自身から脱却できてはいないと私は思う。それはまだ、私たち自身の思い込みに支配された状態だからである。私たちの思い込みが私たちに感情的になるように命令するとき、私たちは自分たち自身の殻に閉じこもろうとする。自分自身を必要以上に可愛がり、この思い込みに賛同しない連中を片っ端から倒そうと躍起になる。そこに、他者への思いやりが入り込む隙間は少ない。
また、叱ったり、ほめたりすることは悪いことであるとして、ただ何もしないのであれば、それは単なる放置であり、最も残酷な人間のコミュニケーションたる無関心へと進行する危険性がある。もしも私たちがそれぞれの存在は価値あるものであり、私たちはみな対等の関係性であるのだと認識しないのであれば、私たちの世界には無関心という病が蔓延し、やがてそれは光を包み込み、大きな闇を生み出すだろう。今まさに、世間で活躍し光り輝いているように見える人々と、公園をゆったりと散歩する幼児との間には何ら優劣など存在しないし、その人間的価値は全く等しいのである。
他者の人間的価値を認める人々は、無関心にはなりえない。無視するということはつまり、そこに価値を見出していないということである。だから、私たちは誰かに無視されたり、無関心な態度を取られたりすると、他者に私たち自身の価値を否定されたような気がして、反発的な感情が湧いてくるのである。他者に無関心的な人々は、ただ能動的勇気が欠けているだけである。
私たちが親友と一緒にいるとき、自分のことをあまり意識しないで自然体でいられることに気がつくだろう。私たちは親友を叱りもしないし、ほめもしない。もちろん彼らを無視したりなんかしない。ただ、一緒にたわいもない話で笑顔になり、一緒にいるこの時間をかけがえのないものであるとして、ともに喜ぶのである。
そこには、自我に固執する青臭い態度は見られない。ただ、純粋な他者への愛が存在するのみである。
おそらく、私たちはまだ「自立」できてもいないし、「何でも知っている大人」でもない。むしろ、そんなことはどうでもよいことであると、そう思えるまで他者を愛さなければならないのかもしれない。「子どもたち」には成長が必要であるが、私たち「大人」もまた、愛するということについて成長し続ける必要があろう。
「子どもたち」が私たちの言うことを聞かないとき、彼らが私たちの意向に背くようなことをしてしまうとき、私たちは彼らを親友であると思おう。彼らは私たちの道具ではないのだと、改めて自省しよう。彼らの尊厳は私たちと等しいのであると、心に誓おう。
等しい尊厳を持つ私たち親友同士は、仲直りすることができる。互いに相克し合う感情をぐうっとなだめながら、最も理性的な言葉を使って、話し合うことができる。残念ながら、すぐには理解されないかもしれない。しかし、それでも愛という能動性は私自身が意志しなければ、達成されることはないのである。
だから、まずは私たちから始めよう。
そうして、ふと気がつくのだ。私たちのまわりは、すでに愛で溢れていることに。
子どもは、愛すべき親友である。
2024/03/25
PS:『嫌われる勇気』および『幸せになる勇気』も子育て論を考える際に、非常にためになると思われます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?