見出し画像

Ture Dure 32 : 付喪神とSDGs

私は昔からオカルトが好きでした。ネッシーやスカイフィッシュ、UFOやキャトルミューティレーション、チュパカブラなどそうした情報が手に入る雑誌や漫画やテレビ番組など子どもながらできる限りアクセスしていました。その中でも妖怪/もののけという存在は幼い私を絶えず惹きつけました。水木しげる氏の『妖鬼化』(これで「むじゃら」と読ませる)シリーズは特に大好きで、古今東西日本各地の妖怪を地域別にイラストと共に紹介するもので、現在では完全版として全12巻もあります。そこにいるおどろおどろしさというものに、怖さと共に妙な魅力を感じていました。幼い私にとって妖怪とはどのような存在であったかを考えるに、私はそこに2つの魅力を感じていたのだと思います。
水木しげる妖怪原画集 妖鬼化(ムジャラ) 完全版 妖怪動画集DVDセット 第1巻 沖縄・九州(全12巻)

1つ目、「別の仕方で世界を説明する」という魅力です。現在では自然科学の研究も技術も発展し、あらゆる現象は科学的な説明が可能になりました。しかし、そうした科学的説明ができなかった時代において、妖怪は1つの説明形式であったと思いました。つまり、なぜ時々家のところどころで何かで叩いたような音がするのか[i]、なぜあの人はいつもせわしなく走り回っているのか[ii]、そうした日常の中で日々感じる「なぜ?」を説明するための想像力が魅力的であったように思います。

2つ目、「恐怖の軽減の仕方」という魅力です。私たちにとって最も恐怖を喚起されることの1つが「なにがなんだかわからない」という状況です。何が起きているのか、なぜ起きているのか、だれに起こるのか、そうしたことが全くわからない状況というのは悪夢です。ではまず何をするかというと、名前をつけてこちらから呼びかけることを可能にします。名づけるという行為は単にある対象にペタッと名札が貼り付けられる以上のことを行うことなのですが、ここでは割愛します。この呼びかけによる恐怖の軽減が妖怪という存在には感じられました。

これら2つの魅力はすなわち妖怪を知ることで、昔の人々がどのように世界と関わろうと/コミュニケーションしようとしていたか、またはどのようなものに畏れ/恐れを抱いていたかが分かる、そのようにまとめられると思います。

なお、「妖怪はいるのかいないのか」と問われれば、私は「いる」と答える立場にいます。加えて「しかし、知覚の仕方が現代では特殊な仕方で行われる」と言うと思います。それはすなわち、妖怪においては“目に見えるかどうか”が存在を保証するわけではないということを意味しています(南方熊楠は脳力とも表現しました)。後述しますが、妖怪が、目に見えるかどうかによって存在するかしないかの基準となることは、おそらく近世以降に徐々に作られていった価値観ではないかというのが私の予想です。それ以前において、妖怪/もののけは私たちの知覚を超えた、圧倒的他者として、「畏れ」と共に身体全体で知覚されていたと私は思っています。

念のため付言しておくと、そのような妖怪観がどの程度学術的な裏付けがあるのかと言われるとかなり怪しいので、本記事での主張は、ほとんど私の妄想に過ぎないと思ってもらっていいです。ただ、これから述べる私の“杞憂”は「妖怪の不在」が現代社会における際限なき消費と開発と暴力を可能にしているのではないかということです。その上で、そうした際限なき消費と開発と暴力への抑止力として推進されているSDGs、それに伴う「持続可能性」というものをラディカルに推し進めるとしたら、私は「妖怪」(特に中世頃の)が必要なのではないかと主張しようと思います。

本記事で私が特に取り上げようと思うのは「つくも神/付喪神」という妖怪です。「付喪神」という言葉は中世、室町時代において御伽草子系の絵巻物である『付喪神絵巻』において登場します。それによると、道具は100年という年月を経ることで霊的エネルギーを持ち、付喪神に変化することができるといいます。付喪神は人を惑わせると思われていたので、人々はそうなる前に毎年立春の頃に古道具を路地に捨てました。ですが、もうある程度長く使われているとすでに霊的エネルギーを持っているんです。そうすると、その捨てられた古道具たちが節分[iii]になると「せっかく長年奉公したのにひどい!」として人間たちに復讐をはかるのです。

これが『付喪神絵巻』に描かれる付喪神の姿です。しかし、ここで注意しておきたいのは付喪神といった場合、道具だけを指すわけではないということです。小松和彦氏の『日本妖怪異聞録』において触れられているように、物に限らず人間や草木、動物も長い年月を経れば霊性を獲得すると考えられているので、こうした広義のものを「つくも神」、道具に由来するものを「付喪神」として仮に分けて論を進めています[iv]。つまりは、長く生きることで霊的エネルギーを持つようになったものの総称としてつくも神/付喪神はいたようなのです。

本記事において特に重要なのは、中世における「つくも神/付喪神」と近世以降における「道具の化けた妖怪」との間の差異についてです。「道具の化けた妖怪」と表現しているのには理由があります。小松氏によると、江戸時代あたりからか、妖怪がキャラ化しており、境界の向こう側にいた存在であったはずの妖怪が、人間側に取り込まれていったことを指摘します[v]。すなわち、妖怪が人間にとって怖くない存在となり、コントローラブル/操作可能な存在になったということです。たしかに、「化け傘」や「提灯お化け」などの道具が化けた妖怪はどこか可愛らしいうえ、祟るというようなイメージはなく、日常の中のちょっとした刺激のような感じで、いたずらっ子のようなイメージを持ちます。

このように中世頃には霊的なエネルギーを持っていて、うまく付き合うことはできるが人間の操作の範疇を超えている存在だったものが、「商品」や「娯楽」、あるいは一種の「作品」になることによって操作可能なものとみなすことができるようになったことは近代以降の社会のことを考えるときに重要なように思います。なぜならこのプロセスによって人間を超えたエネルギーを最も効率よく減じられてしまうように思われるからです。このような観点から、本記事では怖くない、ある種かわいい存在で、向人間的な存在であるエンターテイメント妖怪を指して「道具が化けた妖怪」として付喪神とは区別してみようと思います。中世の「付喪神/つくも神」と近世頃の「道具の妖怪」にはこのように明確な価値転換があるように思います。それは人間の境界の肥大化と言えるかもしれません。それは裏を返せば他者性の喪失と言えるかもしれません。

人間がコントロールできる範囲を広げるということはあらゆる他者を所有するということです。するとどうなるか、人間の思い通りにならないことは「使えない」「危険だ」とされ、無価値とされ、排除されます。それはあまりに人間中心主義の見方であり、人間が自然に預かっており、そのシステム内での相互作用/フィードバック機構に依存しているということを忘れさせてしまいます(もちろん、だからと言って近代以前に排除のシステムがなかったわけではなく、「妖怪」はそうした差別や排除を正当化する論理としても使われたことだろうと思います)。ありとあらゆるものを人間が所有することで、システムエラーが起こり、取り返しのつかないことになるかもしれません。こうした危機感はただの直観ではなくむしろ世界中で指摘されており、SDGsという形をとって国際的に共有された危機感だと言えるでしょう。

これは何も真新しい議論でもありません、1970年代に活発に支持されたグレゴリー・ベイトソンの精神のエコロジー概念でこの関係を主題に置き、さらに遡ってまさしく100年ほど前の日本においても、近代化を目指し急激に開発が進んだ頃、「エコロジー」という概念をほとんど日本で初めて使用した南方熊楠も、人間の過剰な所有への欲望、操作への欲望に警鐘を鳴らし、神社合祀反対運動を展開しました。こうした感覚を一般庶民に「畏れ」という感覚としてインストールしたのが、認知的・心理的媒介物としての「妖怪」というものだったのではないかというのが私の妄想です。かつて私たちは自然を他者として、他者のままコミュニケーションを図ろうとしていた。それは「妖怪」という形をとって、人間にとっての圧倒的他者を想定することで「ここから先は行ってはいけない」という言わば自動制御システムを機能させていたことで、時には祟りに惑い、時には恵みを授かるように自然とのバランスを保っていたように思います。

私はこの記事で、「だから近代以前に戻れ」と言いたいわけではありません。それはすぐには難しいですし、あまり現実的とは思えません。ただ、「あらゆるものを所有し、操作する」というOSのままではいくら「持続可能性な発展」を唱えても、裏腹な結果しか招かないのではないかという“杞憂”があるのです。現代の私たちにとってはじめに必要なのはもしかしたら発展/進化的思考ではなく、自分の身の回りに「いる」妖怪たちの霊性と共に踏みとどまることではないでしょうか。

この記事が参加している募集

SDGsへの向き合い方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?