TureDure 13 : ようこそ、即興の三叉路へ(前半戦)

    ほりこーきがお送りする根も葉もへったくれもないパルプ随想録「ネモハモ」じゃなかった「TureDure」(とぅれどぅれ)。
    昨今のコロナの影響で地縛霊のように家の近辺にしか生息していません。

が!

    予定は詰め詰めでして。毎日のように勉強会をしております。「ミテラボ 」という勤めている会社の社内研究会ではイヴァン・イリッチ『脱学校の社会』、インプロ・グループの「IMPRO Machine」ではキース・ジョンストン『Impro for Storytellers』、また最近はナラティブ・アプローチの勉強会も始まりまして、斉藤清二『関係性の医療学』に続き野口裕二『物語としてのケア−ナラティブ・アプローチの世界へ』を読み始めています。また、出身校のゼミではジョン・ホルト『教室の戦略−子どもはどうつまづくか』、如月小春『続・八月の子どもたち』を読み、また別の勉強会ではヴァイオラ・スポーリン『Improvisation for the Classroom』を読み進めています。

    そして、今回の記事で取り上げるアンソニー・フロスト&ラルフ・ヤロウ『Improvisation in Drama』を読んでいる勉強会「IMPRO FRIDAY」です。毎月最終金曜日の夜に即興に関する英語文献を読み進める会です。それが今回第1回目を終えました。

(これとは別に個人のための勉強で読み進めている(予定の)本が数冊と、もう乱◯です。乱読です。備忘録的に書き起こしてみたらこんなに勉強会してんのかそりゃ全然暇だって感じないわけだ。)

     そんなこんなで今回の「TureDure」では、その勉強会で学んだ内容を惜しみなくシェアしてしまえと思い立っています。英語の本なので、読もうと思うと骨が折れますからね。まぁ簡単に「おさわり」程度に触れていって皆さんを即興の世界に道連れにできればこれ幸いです。あとは単純に自分の思考の整理のためです。それでは、気合い入れてひあうぃーごー!

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「即興」=「自由」なの?

   今回の該当箇所は第1章「Improvisation in Traditional Drama」の冒頭「The Principle of Improvisation(即興の原理)」という節になります。本書では古今東西の舞台芸術における「即興」についてその実践家やその思想を押さえつつ記述してくれている名著で、第3版が現在出ています。版ごとに章構成が変わっていたりとまるで生き物のように姿を変えているようです(さすがに全版は追えていない)。

   そんな本書なので、まぁまずは「即興って何よ?」ってところから考えていきます。なので「即興」とはそもそも舞台芸術の分野に限らず、音楽(特にジャズ)、ダンス(特にモダンダンス)、演劇的パフォーマンスにおいて即興がいかに位置付けられてきた/いるのかを明らかにしていきます。今回扱うのはかなーり前半部分、議論の中心に差し掛かる前の論点の整理です。要は、「Improvisation:即興」という言葉は単に自由を意味するだけではないのではないかということです。

まず、筆者らはこのように書き出しています。

即興とは、単にスタイルでも、もしくは演技テクニックでもない;それはあらゆる分野において操作される動的な原理(原文イタリック)であり、あり方、知り方、やり方の独立した/可変的な方法なのである。(TPI ; 3)

   すなわち即興が捉える射程は広いよってことなんすけど、その広さというのは「あり方(being)」や「知り方(knowing)」や「仕方(doing)」という人間存在全般の領域に関わることであることが示唆されています。(ちなみに「◯◯方」としているのは、私たちが私たちのことをどう捉えるかという、その認識の作用の仕方を対象とするからです。たぶん。)

20世紀という名の「即興の世紀」

  まぁそんなこんなでそういった人間存在に関わる試みが即興なんじゃい!とはじめて、特にこうした実践の爆増を目撃したのが20世紀であったと筆者らは指摘しています。音楽の領域ではジャズが生まれ、ダンスの領域ではイサドラ・ダンカンやマーサ・グラハムがクラシック・バレエから離脱しモダンダンスが生まれました。

   1960年代には政治哲学と結びついた実践が“なんか生まれちゃった性”(spontaneous)と“この場所でないといけない性”(site-specific)と結びついたことを契機にして、単なるパフォーマー→観客という一方通行な芸術のあり方ではなく、両者だけでなくそれを取り囲む環境や時間や身体が互いに有機的に結びつくような新たな現象の構造を捉えようとする潮流が生まれました。

   こうした新たな音楽のあり方や新たなダンスのあり方の性格には即興性が伴っているようです。そしてジャズにしてもモダン・ダンスにしても、形式的であることと、自由であることを含み込んだ実践であることを筆者らは指摘します。

   しかし、私たちが即興と聞くとどちらかと言うと「自由であること」を意味すると思いますが、筆者らはその観点に疑問を投げかけます。即興においては形式的であることも同じように重要視されてきているのです。ジャズにおいても演奏者や聴衆に了解されたパターンや繰り返しが存在するから、完全に自由奔放であるわけでもないし、かといって形式ばかりでもない。そういった制限的なパターンを習得することが一方で開放的な自由への礎にもなっているのです。

え、じゃあ「即興」ってなんなのさ

   こうなると「即興」という言葉を使うことにある種の戸惑いが生じます。なぜなら私たちは形式ばったこととは違うものとして即興を捉えていたのに、形式も即興においては重要なんだみたいになってきたからです。この戸惑いを筆者らは次のように記しています。

ここで“即興”という単語を使用することはいささか決まりが悪い。なぜなら、即興とは発展過程と同時に、パフォーマンスにおける潜在的で予測不能な“跳躍”にも言及しているからだ。((堀補足)この両義性は)これは能が持ちうる“花咲く”その時、その瞬間だろう。しかし、両時間軸((堀補足)発展過程と“跳躍”)は共に変化の時点、ないしは新しい何かの出来事なのである。(TPI : 4)

    なんと、私たちが信じてきた「即興」の意味は物事の片方のことしか見ていなかったのではないかということです。すなわち、即興には連続的に、段階的に進んでいくプロセスのことも、非連続的に起こるタイムリープのような時間感覚も含み込まれているのです。だけれども、その相容れないような時間軸が向かう先は共に変化のタイミングや、新たな出来事が起こる磁場だと言うのです!!さぁいよいよ分からなくなってきました!
   
 じゃあ即興っていうのは「変化/出来事の時点」ってことでよろし?とは言うものの、その「変化/出来事の時点」っていつなのさ?本当にあるのそんなもの。ほら見せてみなよ、即興をして、その「変化/出来事の時点」とやらを。でないとただの抽象的な議論をしてるに過ぎないんじゃないの?非科学的だねっ!フン!

即興ってトレーニングなの?

   変化というキーワードが出てくるものの、その変化は何の変化なのでしょうか?誰かの変化なのか、どこかの変化なのか、どういった類の変化を言っているのか分かりません。そしてその変化/出来事の時点と即興とが結びついていることは分かったとしても、両者はどのように結びついているのでしょうか?説明すればするほど「即興」という現象の複雑さが増してかえって分からなくなってきます。
   筆者らは次のように述べます。

マーサ・グラハムが記しているように、「言葉が足りない時に、動く必要がある。踊ることすべての基礎とはあなたの深くうちにある何かなのだ」(ルースエバンズ(1970)内に記載)では、ここでいう即興とは物事の“変化”の瞬間、または、まったく新しい何かが(行為体としての身体という機械に埋め込まれた)“自己”と(空間、場所、時間、他のパフォーマー、観客、楽譜、台本、文脈などなどの)“環境”の間柄において“起こる”瞬間を識別するための感受性やらテクニックやらを磨くことなのだろうか?(TPI : 4)

    なるほど?すなわち、自分の中にある何かと環境とが相互作用し、新しい何かが起こる、というより「起こっている!」と認識するその感覚を養う鍛錬が「即興」なのかしら?と筆者らもやや疑念の残る形で記述しております。
    これは確かにそうとも言えるかもしれません。20世紀を代表する演出家であり、「即興演劇」と言えば必ずというほど出てくるロシアの演出家スタニスラフスキー。彼の俳優訓練では、即興は“稽古として”使われます(これをエチュードと呼びます)し、スタニスラフスキーは“芸術的な真実さ”を追求します。それが新しい何かが「起こっている!」と感じる感覚やテクニックを切磋琢磨して身につけようとしているんだと解釈も可能なように思えます。

即興の三叉路へようこそ!

    ですが、ここから議論は即興の三叉路に突き当たります。即興についての記述・議論の行き先が3方向あるのです。それがどういった3方向なのかは残念ながら初回の「IMPRO FRIDAY」では触れられませんでしたが、また1ヶ月後にご紹介できればなと思います。それでは皆さまご自愛ください! Love Yourself !

疲れた。。。。。

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