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TureDure 40 : 自由な発想の上手な潰し方〜戦さ場(バトルフィールド)ではなくて遊び場(プレイグラウンド)としての身体宣言〜

即興演劇なんて嫌なことだ

ほりこーきです。例にもましてインプロの話です。
「インプロとは即興演劇のことです」と言えば多くの人にとって最悪な言葉として響く。「即興」だけでも嫌だし、「演劇」だけでも嫌だ。本当にその通りだと思う。人前で何かを表現するのだけでも嫌なのにそれを即興で行うなんて正気の沙汰じゃない。

そもそも即興なんてのは才能があって、十分にスキルがある上に度胸がって自己肯定感が爆高いクラスの中でも一軍の奴らが一軍の奴らを笑わせるためにキャッキャするものであって、自分には縁もゆかりもない。そんなすごいことできるわけがないし、やりたいとも思わない。

そんなイメージが「即興演劇」という言葉に響いている。まるで私たちの精神的な地図の上に「ここには絶対踏み込むな!」という意味の太くて赤いバツ印がついているかのようだ。

ところで話は変わるけれども、こんなことを思い浮かべてみてほしい。例えば、あなたは大学生だとしよう。ちょっと興味はあるものの単位を取るためだけに出席した授業が終わって、先生が期末レポートのアナウンスをして教室を出て行った。目の前の人がそそくさと急いで教室を出て行った。あなたは学内のコンビニへと向かおうと思って席を立った。すると廊下に学生証が落ちていることに気がついた。あなたは拾って持ち主の名前を確認した。その学生証の持ち主の名前はなんて書いてありますか?

またまた話は変わるけど、例えばあなたは10年ぶりに実家に帰ってきた人だとしよう。あなたはおばあちゃん子だったので、自分の大切なものは何かと祖母の部屋に隠しておくような子だった。特に大好きだった絵本はずっとおばあちゃんの部屋の戸棚にしまっていた。そのことをふと懐かしんだあなたは祖母の部屋に行きその戸棚を開けてその絵本を取り出した。その絵本のタイトルはなんて書いてありますか?

自由な発想ってこういうこと


ここで「学生証の名前」とか「絵本のタイトル」とかを聞かれるといかにもなんか試験されているような感じがしちゃって急に真っ白になった人もいるかもしれない。とはいえ、もしかしたらそれまでの「教室の風景」とか「期末レポートのアナウンスをする先生の容姿」とか「学内のコンビニのブランド」とか「祖母の容姿」とか「戸棚の色とか大きさ」とか「絵本の表紙に書かれている動物」とかこうしたイメージは別に指定されなくても映像や絵とかで思い浮かべた人もいるんじゃないだろうか。もちろん中にはビジュアル的なイメージじゃなくて純粋に記号的な幾何模様の人もいるかもしれないし、言葉がそのままの状態で見えている人もいると思う。

まぁなんでもいい。これらの短い物語を読んであなたの脳があなたに与えたなんらかのイメージや表象はおよそというかほとんど努力を要しないであなたに与えられていると思う。あるいは、この物語を読ませることで、ほりこーきはきっとこういうことを企んでるに違いないとか考えた人も同様だ。その推測にほとんど努力を要しない、自動的であると体験されることが大事だ。

このほとんど自動的な自由連想機能のことをインプロではSpontaneity(スポンタナエティ)と呼ぶ。直訳すれば「自然発生性」とか「自発性」とか訳される言葉で、なんらかの事象が自ずから生成することを指す。そんな状態のことをスポンテイニアスって表現したりする。インプロで必要なのはひとまずはこのエネルギーに委ねてみることを許すことだ。

自由な発想の上手な潰し方


インプロが難しく感じられる、あるいは楽しくないのはこのSpontaneityにまつわる困難に起因していると考えている。まず、ありきたりな困難はこのSpontaneityを頑張って押さえつけていることに気づいていないことから生じる。Spontaneityはとっても簡単だが強力な仕組みで押さえつけることができる。

たとえば、「むっちゃ褒められたい」とか「むっちゃ失敗したくない」とか「むっちゃスマートにものごとを運びたい」とか思いすぎていると余裕でSpontaneityを抑圧できる。裏を返せば、この人のSpontaneity抑圧したいなぁ〜って思ったら「もっとちゃんやれよ!」とか「君ならもっと上手くやれると期待しているよ!」とか「もっとよく考えてやれよ!」とかのアドバイスを言っておけばその人の自然で自由な発想は余裕で封じることができる。

このように「先読みさせる」とか「頑張らせる」とか「言語的に考えさせる」ような関わり方をすればその人の自然で自由な発想を抑止することができる。本来は自動的で、努力も苦労もない表現活動が多くの人にとっては途端に地獄に様変わりするので、その人はきっと表現することが嫌になって、「即興演劇」はきっと地獄のメロディを奏でることになるだろう。こんな具合でインプロや即興への恐怖心は作られていくとインプロは考える。

そのためインプロを教えるときはインプロに必要なスキルを身につけてもらうというよりもむしろ、Spontaneityを邪魔しているものを取り払うことをまずは考える。これまでの教育が足し算の教育だとすれば、インプロの教育は引き算の教育ということになる。それくらいインプロは即興することに特権的な地位を与えない。むしろ即興することを楽しめないなんてことの方がおかしいぜと言わんばかりの態度である。

じゃあ解放しちゃえばいいってこと・・・?

とはいえ、ぼくはこの図式には半分賛成で半分批判的である。Spontaneityは確かに良さそう、楽しそうで、魅力的だ。だが、そんな抑圧からの解放みたいな単純な図式だけにしちゃって良いんすかねという感じだ。だって、別にぼくらはそうした「先読み」や「頑張り」や「言語」から得ている恩恵もあるはずだ。それらとだって遊びたいじゃないか。ぼくは個人の解放も欲しいが、同時に公共性だって欲しい!そのためにはSpontaneityの論理の中にそこから生まれる表現がいかに他者と共有可能で、公共性を持ちうるのかという話も含まれていていいはずだ。でないと、楽しくなくない?あるいはそこで生まれた楽しさが特定のマジョリティだけを楽しませる限定的な価値しか持たなくなってしまうではないか。

加えてがんばっちゃう社会的な自己に抑圧されている本当の心奥の自己、すなわちSpontaneityがあるのだみたいな論理にしちゃうのはSpontaneityに神秘的な期待を寄せすぎだし、ちょっと違う意味で危なっかしい。Spontaneity解放しちゃったわ〜俺(キラーン)みたいな肥大した自意識を生産しかねない。それはそれで迷惑である。

「私ちゃん」と「スポントちゃん」

そんなこんなでぼくはきっと「Spontaneityが抑圧されている」というテーゼのその先があると考えた。スポンテイニアスになった先の話として、考えたのが次のテーゼだ。それはすなわち「Sponateityだって学ぶ主体である」ということだ。

すなわち、私たちが何らかの言葉なり物語なりを聞いて努力なく思い浮かべるイメージは、変わりうる。考えてみれば当たり前のことを言っている。こんなに単純なことでいいのかはさておきながらも、たとえばある人が「りんご」と聞いた時に「赤い」とか「ハチミツ」とか「丸い」とか思い浮かべていたが、ひょんなことで旧約聖書を学んでみたら「禁断の果実」が「りんご」らしいみたいなことを経験する。そうすると「りんご」からの自動連想イメージの中に「禁断の果実」やら「アダムとイヴ」やら「原罪」やら「ヘビ」やら「喉仏」(Adam's apple)やらのイメージが書き加えられることになる。これはSpontaneityが学んだということである、と考えてみる。

こういうことを考えると、私たちは普段私たちが「私自身だ」と感じている自分の他に子どものようにあれこれと好きなように興味を持ち行動に移そうとしちゃうSpontaneityちゃんを飼っていると表現しちゃってもよいように思う。仮にその子のことを「スポントちゃん」と名付けてみよう。社会的なアバターである「私ちゃん」は社会の中で理性を食って育ち、自動的/児童的なスポントちゃんはイメージを食って育つ。この大きく2つの独立した人格がぼくの身体を住処にして生息している。

プレイグラウンドとしての身体

すなわち、「ぼく」という存在は「私」と「スポントちゃん」との交渉の場所なのである。理性を食った「私」は常に安全を意識し、危険を察知し、他者の無用な干渉を許さなかったり、他者に不必要に干渉したりして自分の身を守ろうと頑張っている。この「私」のおかげでぼくは死なずに生きていられる。ありがとう「私ちゃん」。一方でイメージを食った「スポントちゃん」は常にあらゆるものが気になったり、危ないかもと思いながらもワクワクする方を優先し、その結果他者に何でもかんでも贈与してしまう。現行の社会では「私ちゃん」がいないと成り立たないシステムが多いので「私ちゃん」は絶えず「スポントちゃん」を管理して出しゃばらないようにしている。そんな「私ちゃん」にうんざりしながらも「スポントちゃん」は遊んじゃえるタイミングを虎視眈々と狙っている。

時々「スポントちゃん」は「私ちゃん」の管理の網の目をかいくぐり、社会の場に躍り出てくる。「私ちゃん」は大慌てでそれを引っ込める。「スポントちゃん」は傷つく、悲しむ。なんだか「私ちゃん」も間違ったことをしているかもしれないと思いはじめる。そうして自己を顧みた「私ちゃん」は勇気を出して管理の手を緩めてみて、「スポントちゃん」がどんなことをするのか観察してみることにした。すると「スポントちゃん」が生み出してくれる姿に「私ちゃん」はこう思う “なんか、いいやん” 。そうして、「私ちゃん」は「スポントちゃん」との関わり方を変える。管理的な関わり方から、インプロ的:相互浸透的な関わり方へ。「私ちゃん」の態度が変わったことに「スポントちゃん」はすぐに気がつく。そして「私ちゃん」に自分が面白いと思ったこと、好きだと思ったこと、楽しいと思ったこと、大切だと思ったことをお話しするようになる。「私ちゃん」は「スポントちゃん」の大切なものがきちんと大切にできるように社会環境を調整しはじめる。「スポントちゃん」に任せても大丈夫な時は「私ちゃん」はお休みして、「スポントちゃん」が危なくなったら「私ちゃん」が守る。こうしたコントロールのシェアリングが首尾よく行われる。

こうしてぼくの身体は「私ちゃん」と「スポントちゃん」どちらも楽しめる遊び場=プレイグラウンドになる。ぼくの身体は政治的にもなるし、ビジネス的にもなるし、管理者的にもなる、それと同時に、芸術的にもなるし、探究的にもなるし、詩的にも、冒険的にもなる。決してぼくの身体を「私ちゃん」と「スポントちゃん」とが対立し合う戦さ場=バトルフィールドにしたくない。どちらかを優先するあまりどちらかを傷つけなくてはいけないのは間違っている。ぼくという場所では「私ちゃん」も「スポントちゃん」も仲良くやって欲しいのである。2人の織りなすインプロヴィゼーションをぼくはずっと観て笑っていたい。

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