見出し画像

夫のこと(2)

夫のこと その1から続きます。

体調の変調に見舞われつつも、努力を重ねた彼は博士を取得。
私の実家がある町に戻ってきました。

結婚から十年が経過しようとしていました。
私が子供を産み育てることを希望していたので、
その希望を叶えようと、就職をして必死に働いてくれたのです。
私も職を変え、妊娠するまでは働いていました。

すれ違いの生活

当時は共働きの忙しさもあって、
食事の時しか顔を合わせないような状態で、
この頃の夫がどういう状態だったのか
私自身何を考えていたのか、正直なところ思い出せません。
それくらい色々なことに無関心になっていたのです。
ただただ、世の中のスタンダードに溶け込むように
自分たちが「普通になること」に最大限のエネルギーを注ぐような
今から考えてみれば全くもって無意味なことに注力して疲れていました。

でも、心のどこかでお互いに求めるところがあり、
以前のように恋人時代の二人に戻りたいという気持ちは
持っていたのにもかかわらず、それをうまく表現できなかったのです。
それが私たちのデフォルトになっていました。

しばらくして妊娠が分かって、
子供の成長に集中したい。育児に専念したいという
希望を持っていたので、
仕事を辞めて出産に備えることになりました。
その間も一馬力で彼は頑張ってくれました。
娘の誕生を彼はとても喜んでくれました。

しかし、自己紹介に記述した通り、
私の妊娠、出産後のホルモンバランスの乱れ、
生い立ち、考え方の癖など色々なものが影響して
私の彼に対する態度をコントロールできなくなってしまい、
必要以上に冷たく接するようになってしまったのです。

カメラを携え放浪

家庭と職場、どちらにも居場所が無くなってしまった彼は、
休日には趣味である写真を撮るためにカメラを携えて
歩き回るようになりました。
その時に巡った場所は、いつか私と娘を連れて行くという
密かな希望を持ち下調べを兼ねて行っていたそうです。

子供が生まれたのと時を同じくして
業務がだんだんと多忙になり、
役職も上がったことで様々なストレスが大きくなりました。
心臓の疾患の疑いが出てきたところで、死を意識したそうです。

娘が成長して余裕がでてきたところで、
私たちは雪が解けるように、少しずつ会話ができるようになりました。
けれど、夫の中で家が少しずつ安心できる場所に変化してきたことで、
今度は会社でのストレスのウエイトが大きくなり、
会社に向かうことが恐怖となり起床できず、
悪夢にもうなされ、起床しても震えが止まらない症状が続きました。

もう、どう見ても家庭でどうにかできる状態ではなくなったので、
私が精神科を受診するように勧めました。
そこでやっと適応障害の診断が下り、休職を経て退職しました。

日常生活の何かの拍子にフラッシュバックに襲われ、
今でもそのフラッシュバックと戦っています。
適応障害だけでは症状の説明ができないということで
傷口に塩を塗るように医学書や専門書など
様々な本を読み漁って彼なりの終点が見つかりました。

適応障害として現れた症状も、
若い頃から様ざまな不調が現れてきたことも全部
生い立ちが影響していることが分かりました。

私たちがずっと感じていたけれど、
何となくやり過ごしていた違和感は
子供の頃の心の傷から生まれてきたことなのです。

私たちのあたらしいこれから

今では何でも話し合って解決する関係になった私たちは、
正面から向き合う事ができるようになりました。
生い立ちに傷のある人間には、
感情をぶつけ合う事は簡単なようで難しいことです。
もしかしたら相手が拒否するかもしれない
という恐怖を抱きながら飛び込むような行為だからです。

私たちは生い立ちの負の部分が連鎖しがちな事を理解しています。
この連鎖を私たちの子供に対しては引き継がせないように、
断ち切るように気を付けて子育てをしているつもりです。

また、子育てをすることで、彼の中のインナーチャイルドも
そして私の中のインナーチャイルドも同時に養育しなおしているような状態なのだと思います。

娘と遊んでいる時も心から楽しそうにしているし、自分が娘に悪影響を与えているんじゃないか?というネガティブな気持ちはだいぶ減ってきているそうです。

前向きになった彼は少しずつですが、社会とかかわる事ができるような状態になりつつあります。次は、彼にあった進み方をしていけると信じています。


最後までお読みいただきありがとうございます。 サポートをいただくことで、文字の海に舟を進めていく勇気をもらえます。