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新東京大学物語第0章:後編

 僕が来ていたパーカーは、古着屋で買ったものでシルエットとデザインが気に入って買ったものだった。真っ黒なゆったり目のパーカーの正面には、ジャングルっぽい背景の中、猿やシマウマなどの生き物がデフォルメされ、巧妙に計算された上でランダム配置されていた。一般的に見て、東京の要素をそこから読み取ることは不可能なように思われた。
 彼女が、僕の中に東京を見出したことをどう評価していいか分からなかった。


 会話をどう続けていいか少し迷ったのだけれども。率直に、彼女がどういう女性なのか興味を持ち、ありきたりだけれども(新入生にとって)大切な質問を心掛けた。モールス信号のように。相手と通じ合えるかを確認するようにして。
「高校の時って、部活何かやってた?」
「高3の夏まで新体操をやっていたから、身体は柔らかい方かな。浪人時代を経て、すっかり固くなっちゃったかもだけど」
「そっか、運動神経いいんだね。僕もバスケやってたから。運動は好きな方かな」


 彼女が、会話に退屈していないかを確認しつつ、さらに続けた。


「なんか、東大に入学できた実感ってなかなか持てないよね。あんまり頭が追い付いていないかも」
「私も。本当慌ただしいし、もっと合格した喜びだけを噛みしめたかったのになあって。贅沢なのは分かっているけど」
「文一が第一志望だったの?」
「うん。数学で大失敗しちゃって、前期で落ちちゃって。。。散々泣いて。。。。後期試験受けられるかどうかも怪しい状態だったんだけど、ダメ元で受けたら何故か合格できちゃって」
「小論文というか、文章力があるんだね。石影さん」
「そんなこと言ったら、上杉くんの理系なんてすごすぎ。あんなに難しい理科と英語ができるなんて」


 僕に関して言えば、たまたま難し目の問題でそこそこ点数を取るのが向いていただけなのだけれども。まあ、そこは割愛することにした。会話で大事なことは、テンポ。自分の話よりも相手の話がモットーだった。


「大学入ったら、サークルとか何かやりたいことってある?僕は、運動が好きだからバスケサークルくらいには入ろうと思っているけど」
「私は、、、どうだろう。特に何も考えていないけど、いろいろやってみたいなーとは思ってるかな」
「如何せん、大学生をやるのは初めてだから、何やっていいかわかんないよね」

 少し気の利いたことを言ったつもりだった。それこそ、東京の空気が染み込んだパーカーを存分に活かして。
 しかしながら、彼女の返答は僕が想定していない類のものだった。パーカーに描かれたキュビズム的な猿は、一筆書きの真ん丸の目で宙を見つめていた。


「なるようにしかならないよね。きっと」


 彼女は、達観したように僕の方を見上げながら言った。問題集の答えを知っているかのように。少しだけ目を細めた彼女は、優しくも何かを見透かしているような微笑みをまとっていた。少し、こちらが怖くなるくらいの。
「え、どういうこと?」
「上杉くんって話しやすいから、ついつい。ごめんね」
 何て答えたらいいかわからなかったが。誉め言葉なんだろうなってことだけを感じ取った。同時に、引き出しの奥の方に隠してある大事な小箱の中身を見られたような気持ちになった。一方で、大事なものをしまっていたはずなのに、何がしまってあるのか、もう忘れてしまっていた。


「そうかな。ありがとう」
「どういたしまして」


 そんな会話をしていると、健康診断の列は一気に進み始めた。安田講堂の中に入ると、男女がすぐに分かれるようになっていて。僕たちは、すぐに離ればなれになった。


「それじゃあ、また」


 会話をする間もなく、彼女は会釈だけをして女性専用の健康診断室へ入っていった。無線が突然途切れるみたいに、僕たちの会話は盛り上がっている最中に突然終わりを告げ、ノイズ音だけが後に残された。『ザザー、ザザザー』通信はもう不可能だった。
 健康診断は、特別なこともなく流れ作業で終了。身長は174センチで変わらないまま。体重も66キロと不変。浪人期間中に眠くなるが故、昼ご飯を食べない習慣を持てたおかげで、そこまで太らずに済んだようだ。

ーーー


 安田講堂の外の出ると、サークルの勧誘の人間で溢れていた。華やかなサークルジャージを着た他大出身と思われる女子大生、ゴリマッチョの東大アメフト部にラグビー部、さらには、好きな漫画のキャラクターを扮した服装で現れる漫画研究会。京都の祇園際にも負けないような熱気で、新入生は次から次へと勧誘され、両手で持ちきれないほどの勧誘パンフレットとチラシがいつの間にか山のように積み重なっていた。
 勧誘の列を抜け、何とか本郷キャンパスを脱出し、丸ノ内線の地下鉄に逃げるようにして乗り込んだ。
 帰りの電車では、受け取ったパンフレットやビラを隅から隅まで読み込んだ。僕なりにざっくりと解釈するに

・サークルには、学内のものと、インカレのものとが存在する
・その中でも、テニスサークルにはセレクションと呼ばれる入会審査みたいなものがある
・特に、東大の有名テニスサークルには、スポ愛テニスパートとグリーンとトマトというものがあり、セレクションは早くに終了してしまうので申し込みは早めにするべし
・東大女子が入れるテニスサークルは、スポ愛テニスパートとグリーンとトマトしかなく、3つのうちのどれかを選ぶ必要がある
・基本的には、部活もサークルも複数掛け持ちしても構わない

 丸ノ内線から山手線に乗り換えるころには、概ねの分析を終えていた。東大女子が入れるテニスサークルが3つしかないということは疑問だったが。まあ、時代錯誤が解決されるまでには時間がかかるのだろうと片づけた。その後、高校時代からの同級生との約束通り、慶応大学の日吉キャンパスの食堂に待ち合わせをし、よく食べに行った『らすた』という日吉商店街にある家系ラーメンをみんなで食べた。味は変わらず最高に美味しかったが。僕たちは、高校生から大学生になっていた。
 自宅に帰ると、さらに大学入学に向けた書類作成と提出が必要だった。ミスがあってはいけないと何回も見直していると集中力が削られたのか。22時過ぎには眠くなってしまい、そのまま寝てしまった。


 それでも、寝る直前、重要な事実に気が付いた。『石影桜ってどんな顔だったっけ?』
 もっと話がしたいなと思わせてくれる女性だったはずなのに。僕は、彼女のモンタージュ作りに失敗し続けた。

ーーー

 いよいよ3月30日、語学のクラスごとのイベントがあり、僕たちは駒場の古めいた1号館と呼ばれる建物に入った。本当に古めいていて、中に入ると、鼻腔から脳まで一気に古い木材特有の甘い香りが貫いた。何となく、歴史の匂いなのかなとか、そんな感覚を持った。


「オリ合宿は、この日だけど、プレオリと呼ばれる懇親会があるから、前日も是非」
「オリパンフに大学生活についてまとめておいたから、質問があればいつでも」
「授業の履修届は、締切がマジで厳しいから早めにね」
「お酒とかは好きな方?」
「新入生とは思えないほど垢ぬけてるね?もしかしてチャラい方?笑」
「進フリで行きたい学部は決めてる?特に無いなら農学部二類が人気みたいよ」


 先輩たちから矢継ぎ早にアドバイスと質問をされ、頭は思考でパンパンだった。それこそ、はちきれんばかりのビニール袋にたくさん詰め込まれたキャンディーやチョコレート。もちろん、嬉しいキャパオーバーではあったのだけれども。 
 この日の駒場キャンパスは、僕と同じような立場の新入生で溢れていた。上級生である2年生は、いきいきと大学生活について語り、初めての大学生活に不安を持った1年生は、徐々に緊張と警戒を解いていった。健全な宗教とまではいかないが、そこには、新入生を祝福する、明確な教義があった。

 まだ大学内に知り合いがいないこともあり、先輩方の説明を聞き、必要書類を受け取ると、キャンパスの正門出口に向かった。その途中で、突然に思った。電球のスイッチが入るように突然かつ明確に。『あの娘の連絡先、聞いておいた方が良かったのかな』
 女の子の連絡先を聞くことは、別に僕にとって特別苦手なことではない。慶應高校の文化祭(日吉祭)で散々培った積極性があれば何てことなかったはずなのに。
 何故か、あの時は、聞くべきではないと直感し、そこを後にしてしまった。いつだって同じだ。積極性を失うと必ず後悔だけが残る。


 ちょっとした後悔が、駒場東大前駅の階段を上ると一段一段、大きくなっていくのを感じた。足の裏あたりにあったものが、改札にたどり着くまでにには完全に心臓と脳とに到達するほどに。
 今度は、階段を下り、、また会えたらいいなと優しい希望を一段一段、身体に刻んでいった。駒場東大前駅の階段は、アップダウンを経験するように設計されていた。
 駅のホームから見える駒場キャンパスは、7分咲きの桜と相まって、新入生を歓迎していた。そこには、近くのバレーボールコートから聞こえる男女の笑い声や、サークルや部活の勧誘をする上級生たちの嬉しそうな声があった。


『よろしくお願いします』


 これから始まる青春の予感に期待をし、そう呟いて渋谷方面の電車に乗り込んだ。

ーーー

 自宅に帰ると、新生活への興奮からか、身体を動かしたい衝動が抑えきれなかった。ジャージにトレーナー、それと携帯音楽プレーヤーを持って、いつものランニングコースを走った。
 ランニングの目的地は、桜坂と呼ばれる、桜が綺麗な場所だった。ライトアップの演出もされていて、夜なのに鮮やかなピンクの花びらを楽しむことができ、同時に、夜の中の不気味な桜も感じることができた。


 悩むことがあるとよくここまで走った。付き合っていた彼女に振られた時、現役の大学受験で落ちた時、さらには、浪人中、思ったように成績が上がらなかった時。
 今までの苦しさが全部詰まっている景色だった。悔しさ、情けなさ、そしてやりきれなさ、自分の中から湧き出る感情で窒息しそうな時、必ずここに来た。桜が咲いていようと咲いていまいと。


 桜坂は、いつしか僕にとっての酸素補給地点となっていた。結局、最後は自分との戦いだったとしても、全ては比較から始まるのだ。他人との。特に、東京は、比較を強要する。その強制は、僕を季節的に酸素不足にしていった。


『特別な悩みがないのにここに来るのは初めてだった気がする』


 風は、完全に春の柔らかさをまとっていた。かろうじて冷気を感じさせる程に。1つの物事が終わり、新しいものが始まる。始点と終点とが同時に混在する矛盾した風だった。
 舞い散る桜と相まって、春の風は僕の心を優しく刺激した。別れがあり、悲しみがあり、喜びがあり、それらを全て内包した未来がこれから来るということ。
 過去の延長線上にしかない未来は、放物線以上の高い軌道を描きそうだった


「女の子に振られたら、またこの坂に来ることになるのだろうか」
「東大の人は、みんな優秀だろうし。自分は勉強についていけるのだろうか」
「石影桜にはもう一度会えるのだろうか。意外にもう一度会ったら何てことも思わないのかも」


 全ては、可能性の話であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。自分にコントロールできる範囲で努力をし、考えても仕方がないことは考えないしあきらめる。それが、僕のポリシーだったはずなのに。それでも反省した。石影桜のメールアドレス、やっぱり聞いておけばよかったな。聞ける雰囲気じゃなかったけど。
 こちらの桜は、満開で明日には大部分が散ってしまいそうだった。満開の夜桜は、可能性の結晶のようにキラキラとその輝きを空に放った。未来を反射させるように。それでも、その射影をとらえきる前に、アスファルトの上に着地してしまう。掴めそうで掴めなかった今までのことが思い出された。


 夜桜に光を当てるなんて、眠っている妖怪を起こそうとするくらい、罰当たりな気もするけど。だからなのか、いつまでも眺めていられた。
 特に何か結論を出したわけではないけれども。その場を後にした。夜桜の魅力に完全に心を奪われる前に。


 オリ合宿は明後日。僕の東京大学物語がスタートするまで、あと1週間もなかった。


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