オリンピックとハンドボール
はじめに
東京オリンピックが日本に招致されることが決まったのは今から約8年前の2013年9月初頭。今年で25歳になる私は当時17歳の高校2年生だった。
一つだけ印象に残っていた場面がある。招致が決まった際に誰よりも喜んでいた現日本ハンドボールリーグ理事の1人に任用されたフェンシング元日本代表、オリンピックメダリストの太田雄貴さんである。
そうこの場面はとても印象的だった↓
「東京にオリンピックが来る」
そう言われてもあまりしっくりこなかったというのが当時の本音だったが、年を追うごとに1964年以来56年ぶりの開催はこの国にとって大きな出来事だったのだと感じる。
8年前の自分はコロナウィルスという脅威が2020オリンピックを延期にさせ、その1年後に及んでも収束せず、日本中に多大な影響を及ぼしていると全く想像していなかった。
良い機会なので日本ハンドボール界とオリンピックの関係性について、歴史的な背景を含めて知りたくなった。
今回は杉山茂さんが書かれた「物語 日本のハンドボール」で学んだ歴史の中から「オリンピック」と「ハンドボール」について自分なりにまとめながら書いていきたい。↓引用文献
近代オリンピックの始まり
フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵によって、古代ギリシャのオリンピア祭典をもとにした世界的なスポーツ大会を開催する案が決議された結果、1896年にギリシャのアテネで第1回近代オリンピックが開かれた。
第1回大会は「女人禁制」だった。↓
女性がオリンピックに初めて出場したのは第2回パリ大会、しかし、1066人の競技者のうち、わずか12人に過ぎなかったそう。
その後たびたび戦争によって中止が余儀なくされており、第一次世界大戦によって1916年ベルリン大会が、第2次世界大会によって1940年東京大会、1944年ロンドン大会が開催見送りになっている。(後で詳しく述べる)
ちなみに、日本が初めて参加したのは1912年の第5回ストックホルム大会。大河ドラマでも取り上げられた「金栗四三」がマラソンで出場している。
ハンドボールの始まり
ハンドボールの起源には諸説あるが、1990年にIHFは『世界で最初のハンドボール試合は1896年(明治29年)夏、デンマーク・フェーン島の東端ニュボルで行われた』との見解を証明する文章などを元に発表。
ドイツが発祥やら、チェコが発祥やら、デンマークが発祥など。本当にたくさんの説があるが、それらはすべて「間違いではない」と思っていて、様々な背景の中でボールを手で扱ってゴール(目標)に向かって運ぶ競技の原型は多岐に渡る。
デンマークなどの北欧は夏は日が長くカラッとした気持ちのいい時期になるが、冬は日が落ちるのが異様に早く、長く寒い夜を過ごすことになる。デンマークの地で屋外にて行う11人制ではなく、室内で行う7人制のハンドボールが流行ったのはそんな背景があったのだろう。
デンマークではそれ以前にも学校体育として各地でハンドボールが親しまれていたがルールが定められている訳ではなかった。
1906年、ホルガー・ニールソン(デンマーク)によって「ボール保持を3歩、3秒」の大原則を定めた世界で最も古いルールブックが完成したという。(以下のサイトには「ホルガー・ニールソンがルールを整えたのは1989年とある」)
11人制の初代ルールは1919年にドイツのハンドボール考案者と言われている「カール・シュレンツ」が女子のスポーツとされていたトア・バルを改良してハンドボールの競技規則を制定した。
初めてのゲームは男子が1925年のドイツ対ベルギー戦、女子の初めてのゲームは1930年のドイツ対オーストリア戦。
IAHF:インターナショナル・アマチュア・ハンドボール・フェデレーション(1946年からIHFへ)は1927年にそのままそのルールを採用した。
その後、7人制のルールは11人制と共に併行してまとめられ、7人制の国際的なルールとしての正式な制定は1934年8月。
それから世界ではしばらく7人制と11人制の両方が行われることになるが、コートが大きすぎることや、展開が短調なことが原因の一つになり、1957年に女子を中心に7人制へと移行していくことになる。
国内では1963年を境にすべての公式戦が7人制で行われるようになる。
日本への伝来、そして「競技スポーツ」としての認識へ
日本には1922年に東京高等師範学校(筑波大学の前身)の助教授であった大谷武一がアメリカ研修の帰り道ドイツを訪れた際に見かけた「ハン・バル(ハンドボール)」を日本に持ち帰った。
学校の授業で扱い、広めていくという大谷の目論見はその後、日本体育大学の全校への講習会で実現していく形になるが、競技スポーツとして広まるには時間がかかった。
日本では1938年に今の日本ハンドボール協会が「日本送球会」として創設され、これによってハンドボールが「教材」としてだけでなく、「競技」としての認識をされていくようになる。
ハンドボールとオリンピック
まずオリンピック史において、ハンドボール競技はいつから採用されてきたのかを書いていく。
初めて採用されたのは1936年ベルリン大会。この頃世界的な主流は11人制ハンドボールで、現在の屋内で行われているハンドボールとは異なり屋外での競技というイメージだった。(その後、北ヨーロッパを中心に7人制がスタンダートとなり、1950年代から60年代にかけて完全に移行することになる。)
前述にあるように次回1940年、1944年は二次世界大戦の影響で開催中止、それ以降1972年ミュンヘン五輪(7人制)まで計8大会(36年間)ハンドボール競技の実施は見送られてきた。
その後、ハンドボールは毎大会実施され、7人制の大会は今回の2021東京大会が開かれれば13回目となる。
19世紀後半はユーゴスラビア、ソビエト連邦などの東ヨーロッパに加えてドイツ、ルーマニアが中心になって表彰台を飾り、20世紀に入ってからはソビエトに代わりロシアが、ユーゴスラビアに代わりクロアチアが優勝するが、スウェーデン、スペイン、フランス、アイスランドが力をつけて、2008年、2012年はフランスが初優勝してから2連覇、2016年にはデンマークが初優勝している。
過去2回叶わなかった「東京五輪でのハンドボール」:1940年
1度目は1940年。前回のベルリン大会が終わった直後に「1940年の東京オリンピック」その実施が決まる。
その1936年ベルリン大会で初めて採用された「ハンドボール」がこの大会でも採用されることが決まる。
当時日本ではハンドボールが伝来して10年近く経っていたが、中学や高校など体育の分野で紹介されるに留まっており、「競技スポーツ」としての活動はほとんど見られておらず、
男女とも「11人制」はスポーツ関係者でも「手で行うサッカー...」くらいの知識しか持ち合わせていなかったそう。
そんな中でも1938年3月、当時の大学生を中心に合計27人の代表候補がリストアップされ、慶應義塾大学グラウンドで3日間の合宿を行った。
そのわずか4ヶ月後の7月、1940年の「東京オリンピック」は返上された。
この大会のために陸上連盟から分立して成った「日本ハンドボール協会」が誕生してわずか163日のことだった。
過去2回叶わなかった「東京五輪でのハンドボール」:1964年
2度目は1964年。誰もが知っている「平和・復興のための東京オリンピック」である。1936年から6大会(実施、未実施含む)、ハンドボールは五輪の舞台から遠ざかっていたが、この大会においては実施されるとの見込みがあった。
それも、当時ヨーロッパで主流になりつつあった室内の7人制ではなく、11人制での実施を国際ハンドボール連盟のハンス・バウマン会長は望んだ。
ハンドボールを含む全22競技実施のインパクトは強かったが、IOCの一部には大会規模の拡大を懸念する意見があったそうだ。(前回1960年ローマ大会は18競技、1956年メルボルン大会は17競技、1952年ヘルシンキ大会は18競技と、20競技を越える見込みは1936年ベルリン大会以来だった。)
1961年、競技数をめぐる投票IOC委員によって行われ、ハンドボールはアーチェリーと共に東京での実施が見送られた。
男子は33年ぶり、女子は45年ぶりの五輪出場
男子はソウル五輪(韓国)が開催された1988年以来33年ぶりの出場になり、女子はモントリオール五輪(カナダ)が開催された1976年以来45年ぶりの出場になる。
これまでのオリンピックで男子が出場したのは合計4回、初回は1972年ミュンヘン五輪。続いて1976年のモントリオール五輪。1984年のロサンゼルス五輪、1988年のソウル五輪。
女子は1976年のモントリオール五輪大会のみの出場。
この年の大会より女子が競技種目として初めての実施。
11人制から7人制に移行したのが1976年モントリオール(カナダ)五輪から。その年男子の参加は12カ国、女子は6カ国だった。
立ち塞がるアジアの厚い壁
その後は、同じ東アジアで出場権をかけて戦う韓国になかなか勝てない時期が続き、2010年代には中東勢の台頭によってアジアでも勝利することが難しい時代に。
女子の韓国代表は勢いがもの凄く、1988年自国開催のソウル五輪と1992年バルセロナ五輪で二連覇の偉業を成し遂げる。その前後の、1984年、1996年、2004年でも銀メダルを獲得しているまさに強豪である。
男子も1988年自国開催のソウル五輪で銀メダルを獲得、その後の大会でも度々ベスト8に入り、アジア選手権では1983年から2018年にかけて9回の優勝。現在の監督尹京信(ユン・キョンシン)はブンデスリーガのチームに所属、世界選手権では1995年、1997年の2大会連続で得点王になっている。
男子において2014年以降は韓国だけでなく中東勢の台頭(カタールやバーレーン)により、アジアで勝ち抜くことが困難になっている状況である。
可能性を感じさせる近年の国際試合
しかしながら、男子は先の2020年アジア選手権ではバーレーンに1点差で勝利。2021年エジプトでの世界選手権ではカタールには惜しくも2点差で敗れたものの試合終盤まで接戦を繰り広げた。最終戦のバーレーン戦で29-25の快勝で大会を締めくくり、世界の強豪との好ゲームも相まって可能性をハンドボール界の内外に大きな関心を寄せた。
女子は熊本で開催された2019年世界選手権ではヨーロッパ強豪との好ゲームの連続で、直接対決はしていないもののライバル韓国の1つ上の順位の10位。次回からの国際大会も楽しみな結果だった。
2021東京オリンピックと私たち
2021東京五輪において、開催国枠での出場が決まっている男女ハンドボール日本代表。日本ハンドボール界にとって、自国で開催されるオリンピックは初めてであり、関係者にとっては願ってもない悲願であると想像出来る。
開催の是非について様々な議論があるが、開催されれば選手たちは出せるパフォーマンスを全て出し切って素晴らしいゲームをしてくれるはず。ハンドボールが魅力的だと、日本に限らず世界中に知らしめてくれるはずだ。
同じハンドボールを愛する1人の人間として出来ることは、自分がハンドボーラーだということに誇りを持ち、こうしてハンドボールへの熱意を発信し、同時進行で自分が関わっている選手と共に一生懸命ハンドボールをプレーすることだ。
ここまで綴った文章の事実は「物語 日本のハンドボール」を参考にしたものであり、その詳細をさらに知るために書籍を購入して実際に読むことを強くお勧めする。
1922年に日本に伝来して以来、多くの人によって「文化」として醸成されてきたハンドボール。今回その一端をまとめた「物語 日本のハンドボール」という一冊に出会えたこと、約400ページにも渡る「熱意」を形にした著者である杉山茂さんに感謝の意を述べて、このnoteを締めることにする。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
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本日もお疲れ様でした!
筑波大男子ハンドボール部 森永 浩壽