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戸野琢磨先生の「遊園地としての豊島園」を読み解く

 豊島園の「古城の塔」保全・活用キャンペーン発起人の岡田です!

 我々練馬区民にとって古城の塔は、としまえん入口にある不思議な建物でした。近年は年間パスポートである「木馬の会事務所」として利用されていましたが、いつからある建物なのか、誰が設計したのか、どうして古城の形をしているのか分からないまま、「当たり前にある光景」として認識していた方がほとんどだったのではないかと思います。

 そんな古城の塔を紐解くにあたり、我々が現段階で収集した中で最も重要な資料であると思っているのが、設計者である戸野琢磨先生が書かれた「遊園地としての豊島園」という文書です。

 今日はこの文書について紹介をしていきます。

「遊園地としての豊島園」とは

 「遊園地としての豊島園」とは、1927年(昭和2年)日本庭園協会の機関紙である「庭園と風景」の9巻10号に掲載されたもので、論文と言うよりも豊島園の設計に対する戸野先生ご自信の思いや意図が書かれた随筆文です。
 ちなみにどういうわけか、紙面上では先生の名前が「戸琢磨」と誤って掲載されています。

 昭和2年、つまり大正15年に豊島園が開園して1年経過した頃の文章。冒頭にはこのようにあります。

 武蔵野の荒涼たる風致、殊に現在運動場となつてゐる低地が、毎年雨期には水害を蒙り、一大池を現出してゐた頃を知る人は、今昔の感に堪えないことと思ふ。
 今設計の大意を紹介して此の豊島園の現在と比較し、其の當時を偲んで戴ければ幸ひである。

 豊島園は元々、樺太工業専務の藤田好三郎氏が自分と家族の静養地として購入した土地を一般向けに公開した景勝地でしたが、開園前は文章の通り、人の手がほとんど入っていない土地だった様子が伺え、その頃と全く異なった風景になったという事を先生はこの文章で強調しています。
 一体どのように変わったのか、戸野先生は設計の大要を「園芸的施設」と「體育的施設」とに分けて書いています。

「園芸的施設」の一つであった古城の塔

 初期の「練馬城址豊島園」の設立主旨の中で、オーナーの藤田好三郎氏はその目的を

 體育の奨励と園芸趣味の普及

と明記しているのと同様、この随筆の中でも「園芸的施設」と「體育(体育)的施設」に分けて設計の意図を戸野先生は書いてはいますが、文字数で言うと園芸的施設部分が8割で、體育的施設については2割程度しか書かれていません。
 それは造園家としては園芸的施設が力の入れどころであるのと同時に、園芸施設のあった南部は地形の凹凸が多く、設計者としての腕の見せどころだったのだろうと思われます。

 古城の塔については「園芸的施設」の中の「B、英国式古城の食堂」にて述べられており、園芸的施設の一つとして作られたものである事が分かります。
 ちなみにこの項目には他に「A、英國風の花園」「C、睡蓮の池と大階段」「D、プール及び大瀧」「E、大温室と苗圃花壇」「F、日本式庭園」とありますが、全て石神井川の南側の施設で、特にA~Cは非常に密接な関係を意図して設計された事が書かれています。

 実際に位置関係的にもそれらは隣あっていますので、下記の図で確認をしてみてください。

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引用元:受付終了【ふるさと文化講座】初公開映像上映と解説~昭和初期の遊園地「豊島園」・「花月園」他~ | 展覧会・イベントほか | 練馬区立石神井公園ふるさと文化館・分室

古城の塔の設置目的

 古城の塔の設置目的を紹介するにあたっては、「園芸的施設」の中核である「A、英國風花園」についての理解がまず必要ですので、先にその冒頭の文章を下記に引用します。

 土塁は東京府史蹟名勝保存會に依りて保護されるものであつて、これに手をつけることを許されない。そんな關係上、此の土塁を取入て何か造園的施設をと思ひついたのが現在ある花園の起源である。
 それも出來る丈け清楚に且つ過飾を避けたものを望み、其の上花弁の美を應用して城址を記念せんとした爲め、英國風造園を適用するより他に良きものを見出し得なかったのである。

 この英國風花園というのは、今のハイドロポリスの場所にあったもので、中央には噴水が設置されていました。ただし昭和30年の絵葉書にはその噴水付近を「古城大芝生」として紹介していますので、花園として利用されていたのがいつまでだったのかは分かりません。

 そこは練馬城の城跡でもありました。当時は史跡上を開発する事ができず、城址を記念するものとして花壇が作られたというのです。そして古城はこの花壇があったからこそ設計された、というのが「B、英國式古城」には書かれています。原文を下記に記載します。

 此の花園を眺め休憩すると同時に食事を取ることが出来たならばとの希望から、それともう一つには給水と云う大問題に直面したので、何虜かに水塔を建てる必要を生じた。そんなことで城址に古城がふさはしく、且つ塔中にタンクを入れれば外観頗る體裁良くするであろうといふことから遂に古城それも英國風のものを設置するに至ったのである。

 つまりは、この英國式花園を眺められる食堂として計画されたのが古城の塔だったのです。
 水塔とは給水塔のことで、花園は先にも書いた通り練馬城の城山の上、つまり高台の上にありました。この高台を眺められる食堂を作るとなると、当時の給水システムの技術的には水圧を安定させるために給水塔の設置が必要不可欠であり、その装飾として英國式古城の外観が考えられたということになります。
 すなわち、古城の塔の内部には現在は不明ですが、建設当時は水が入ったタンクがあったということになります。
 古城が英國式なのは、花壇に合わせた結果なのでしょう。

 ところで、練馬城址の城山が高台であるという事がピンと来ない方もいるかもしれませんが、それは現在としまえん入り口側の谷が古城の塔の高さまで埋め立てられているからで、開園時は当時の絵葉書を見ても谷がもっと深く、古城の塔は城山のかなり上部に位置していることが伺えます。

絵葉書の古城

画像:昭和13年頃の練馬城址豊島園絵葉書(石神井ふるさと文化館 夢の黄金郷遊園地展冊子より)

 まとめると、

1.練馬城址の城山は開発ができなかったので花壇が作られた
2.花壇は史跡を記念する目的で「清楚な」英国式が採用された
3.花壇を眺める食堂が必要になり、食堂を作るには給水塔が必要になった
4.英国式花壇に合わせ、給水塔と食堂を英国式古城の外観で一組の建物として建てた

 ということになります。

往年の古城の食堂の様子

 古城の食堂が当時どのような雰囲気の建物であったかについては、資料をもっと探せば当時の来園者によるエッセイやレポートなども出てくるのではないかと思っているのですが、現段階で分かっている事を紹介します。
 まず、「遊園地としての豊島園」にはこのように書かれています。

 丁度土塁の一角に地下室をも入れて澁い廃墟の趣きを出すに努力した。且つ一方にはテレスの利用とふものいの實例をも紹介した積りである。

 現在「木馬の会事務所」として我々が出入りしていたのは入口側の地下室にあたる部分で、レストランはその上、練馬城の城山の山頂部分と同じ高さの階で営業されていました
 今の古城の塔は二階部分が増築されているようですが、当時の写真を見ると一部を除いてテラスになっています。

花園から見た古城の塔

画像:昭和10年頃の豊島園御案内(石神井ふるさと文化館 夢の黄金郷遊園地展冊子より)

 写真を見る限りあまり座席数は無さそうですが、宴会も開催できる本格的なものでした。それについては昭和3年の「練馬城址豊島園案内」に下記のように書かれています。

古城の食堂・・・東京丸ビルの東洋軒の出張、御定食、一品料理が出来ます。材料は當園供給の新鮮なもの英國風花園と練馬城の松林とに囲まれてのお食事はキットお氣に召します。御宴會は、お一人一圓より、お受け致します。

 この東洋軒というのが良く知られている東洋軒であるかはまだ裏付けがとれていませんが、材料が豊島園内で生産されたものであるというのに驚かされます。
 食堂については新たな資料が確認でき次第、今後も紹介していきます。

戸野琢磨先生が設計した豊島園の痕跡

 豊島園は94年の歴史の中で大きく姿を変え、戸野琢磨先生が設計したものは古城の塔を除いてほとんど残っていません。

 しかし、「遊園地としての豊島園」を読むと、古城の塔以外にも戸野琢磨先生の設計したものの痕跡がある事が分かります。次回は残されたもう一つの施設について紹介していきます。


引き続きインターネット署名に宜しくお願いします。


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