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まずは開園時の豊島園について、資料収集からはじめました!

 豊島園の「古城の塔」保全・活用キャンペーン発起人の岡田です!

 本キャンペーンは「『古城の塔』の文化的価値を認めた形で保全し、地元住民とともにその活用方法を検討する事を関係機関に求める」ことを目的に10月26日にスタート致しました。

 noteで初めてこのキャンペーンを知ったという方は、是非一度我々のキャンペーンを覗いてください!

 本来であれば、十分に資料を集め、ある程度学術的な価値を確定させた上でキャンペーンを立ち上げるべきところではありますが、この建物がある「としまえん跡地」については現在公園化の計画がありながらも、西武鉄道から東京都への土地の譲渡の見通しが立っておらず非常に不安定な状態であることから、「築90年以上の戸野琢磨先生の設計による建物である」という情報だけを確定させた段階で、市民の声がある事を先に表明する意味で、賛同者を集める活動と調査活動を平行して進めております

・・・と、言いつつも賛同をさらに呼びかける上ではちきんとした根拠に基づいた情報の発信が必要不可欠であり、最初の約2週間は資料収集を最優先としてきました。

 今のところ収集(複写)した資料は以下の通りです。

戸野琢磨先生が豊島園について書かれた文書
「遊園地としての豊島園」戸野琢磨 庭園と風景 9(10), 6-8, 1927
「遊園地の設計と施設」戸野琢磨 総合園芸大系第11篇 249-300
戸野琢磨先生自信が執筆された文書
「アメリカにおける日本庭園:国際交流への契機」戸野琢磨 造園雑誌 26(2-3), 27-30, 1962
「アメリカ合衆国の造園事情」戸野 琢磨, 石原 耕作, 池ノ上容 造園雑誌 1954年 18 巻 3-4 号 18-23
戸野琢磨先生の功績に関する考察
「名誉会員 戸野琢磨先生をしのぶ」金井格 造園雑誌 49(1), ii, 1985-08-19 「戸野琢磨 : 日本の"ランドスケープ・アーキテクト"第1号」鈴木誠 ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌 60(4), 291-294, 1997-03-28
戸野琢磨先生の作品に対する考察
「ポートランド市ワシントン・パーク日本庭園の形成過程の特徴に関する考察」土沼隆雄、鈴木誠 日本建築学会計画系論文集 64(521), 195-202, 1999
「ポートランド日本庭園のディレクターシステムが果した役割・意義と国際交流の多面的効果」土沼隆雄、 内山貞文、D.BLOOM Stephen 造園技術報告集(6) 2-5
「ポートランド日本庭園をはじめとする米国での長年の造園家としての活動実績」平欣也 創立九十周年記念式典東京農大緑のフォーラム
初期の豊島園を紹介している資料
「武蔵野の一角に出来上がる豊島遊園地」 事業之日本5(8) 1926 114-115
「西武鉄道の遊園地事業」遊園地事業の実態 1967 121-134
藤田好三郎氏について書かれた資料
「大川田中内閣の名翰長と名高い 樺太工業専務 藤田好三郎君」財界の名士とはこんなもの?第一巻 46-48
「大川氏座談会」 経清雑誌ダイヤモンド 972-979
豊島園についてまとめられた資料
「練馬区内の遊園地紹介「豊島園(としまえん)」」練馬区立ふるさと文化館 夢のエル・ドラド黄金郷遊園地展冊子 66-103


・・・ざっと書いてみましたが、これだけではよく分かりませんよね。

 そこで本日はそれぞれの資料がどんなものなのか、いくつかを大まかに紹介したいと思います!

戸野琢磨先生ご自身が豊島園の設計について書かれた文書

「遊園地としての豊島園」戸野琢磨 庭園と風景 9(10), 6-8, 1927
「遊園地の設計と施設」戸野琢磨 総合園芸大系第11篇 249-300

 これらは、今後このキャンペーンを展開していく上で最も重要になる資料だと思っています。
 「遊園地としての豊島園」についてはタイトル通り、豊島園の各施設設計に対する戸野先生の意図が書かれており、我々が外から見るだけでは気づくことができなかった真相が多く書かれています。
 また、「遊園地の設計と施設」は戸野先生が遊園地設計のマニュアル書として書かれたもので、やはり先生の作品である豊島園が具体的な事例として多く登場しています。

 これらの資料については今回は紹介しきれないので、別記事にて改めて詳しく紹介します!

戸野琢磨先生の功績がまとめられた資料

「名誉会員 戸野琢磨先生をしのぶ」金井格 造園雑誌 49(1), ii, 1985-08-19 
「戸野琢磨 : 日本の"ランドスケープ・アーキテクト"第1号」鈴木誠 ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌 60(4), 291-294, 1997-03-28 ※cinii

 これらの資料はいずれも、日本造園学会様に問い合わせた際にいただくことができた資料です。古城の塔のみならず、豊島園を設計された戸野琢磨先生は日本造園学会の名誉会員であり、その功績は学会誌の中でも顕彰されています。
 戸野琢磨先生の人物像についてはまた別の記事で紹介しますが、ここでは金井先生が戸野琢磨先生から直接聞いたと言う、造園家になったエピソードを紹介しましょう。

 先生は造園へすすむ気はなく、中学時代の英語の教科書口絵に12頭立ての場所が農園を駆けている景をみて将来この様な農園を営む夢をいだき、北大農学部へすすんだ。
 日本ではその夢を実現するにはほどとおく渡米したが、アメリカでもその夢を果たすのは難しく、親戚がニューヨークで骨とう商を営んでいて灯籠などを売る手伝いをさせられたのがきっかけで、コネール大学で造園を学ぶことになった。

 まさかのきっかけが中学の英語の教科書だったというのに驚かされますね。
 先生は結局「中学の英語の教科書の口絵のような農園」を開くことはありませんでしたが、たまたま出会った造園の世界において大きな功績を残す事となりました。

 戸野琢磨先生の人物像についても、これらの論文を元にまた別の記事で紹介させていただきます。

戸野琢磨先生の作品について書かれた資料

「ポートランド市ワシントン・パーク日本庭園の形成過程の特徴に関する考察」土沼隆雄、鈴木誠 日本建築学会計画系論文集 64(521), 195-202, 1999 

 戸野琢磨先生の作品で最も有名なのものはポートランド日本庭園でしょう。
 ポートランド日本庭園は1967年に開園したアメリカのワシントンパークの中にある22,000 ㎡もの広大な日本庭園であり、年間30万人が訪れる観光名所です。庭園築造と維持管理・運営管理において1991年まで一貫して日本人造園家が携わる「ディレクターシステム」を行ってきた事でも知られ、北米に於ける日本の伝統文化の発信、文化交流の拠点としての役割も担ってきました。
 この論文には戸野先生がポートランド日本庭園の設計・監理者として選ばれる前日譚としてこんな話が掲載されています。

 戸野は、この頃からテレビ、ラジオを通じて市民に日本庭園の紹介を行ったほか、協会員にはたびたび借景、見え隠れ、生け取りなどのテーマで日本庭園の精神的、技術的解説を行うなど、日本の庭園文化を異なる風土で育もうと精力的に努めた。これによって以降、市民の間で急速に日本庭園理解が深まっていったと考えられる。

 戸野先生は古城の塔をはじめ、どちらかと言うと西洋式庭園の目立つ豊島園設計者のイメージとは異なり、アメリカでは日本の庭園文化を伝え、育む事に尽力をされていたのです。

戸野琢磨先生ご自身が執筆された文書

「アメリカにおける日本庭園:国際交流への契機」戸野琢磨 造園雑誌 26(2-3), 27-30, 1962

 この寄稿文は造園学や豊島園からは少し離れた内容ですが、単純に読み物として面白かったので紹介します。
 この文書が書かれたのは1962年。終戦から17年が経ち、日米関係の親密さが増していく中で、日本文化に関心を持つアメリカ人が増えつつあった様子を造園家としての視点で考察しています。
 その理由について戸野先生は、

1.現在アメリカの世代は科学に過信しすべてを科学で制服せんとした。しかしその科学がやはり全能でないことを知りはじめた。
2.この失望と悩み、いい換えると心の不安、心の空白を慰め満たしてくれる何ものかを探し求めている。日本の文化は底の知れない深いものである。これを学ぶことによつて心に一種のウルオイを覚えはじめた。

と書いています。実際、1960年代は「カウンターカルチャー」が花開いた時代と後に評価された時代で、反戦運動、反核運動、フェニズム運動、環境保護運動が活発であした。その黎明期である1962年に既に戸野先生は造園の分野でそういった機運が起きている事を察知していたことが分かります。
 そして、

 騒々しいからこそ静かな憩いの場所が求められる。夜の世界があれば、朝日に醒めた生気に満ちた明るい日が楽しめる。しかし日本の寺院に永い月日を厳粛な静寂の中に生きている石庭が、アメリカ人の自由な構想を勝手にそそりながら楽しんでくれるなら、また日本とよいつながりができるものと信じている。静坐沈思黙考、メデテイトすることが、ただ老成した東洋人のみの独占するものとは限らない。

 という文章からは、アメリカで造園家としての自分の立場や求められている事を冷静に認識している様子が伺えるように思います。

 奇しくも進み過ぎたグローバル化に対する反動として、世界各国の右傾化が囁かれる昨今の社会ですが、これは国際交流とは何かを考えさせられる1962年の文書です。
 この文書についてはJstageから全文がいつでも読めますので、ぜひ皆さんもご覧ください。

藤田好三郎氏についての資料

「大川田中内閣の名翰長と名高い 樺太工業専務 藤田好三郎君」財界の名士とはこんなもの?第一巻 46-48

 最後に、これはまだ本腰を入れていませんが豊島園開園時のオーナーだった藤田好三郎氏についての資料もいくつか入手しています。
 藤田好三郎氏という人物は旧安田楠雄邸を建てた人物でもあり、この点から見てもいわゆる普請道楽タイプの富豪であった事が伺え、「樺太工業の専務」であるということは豊島園の歴史の中で出てきますが、実はすごい経歴の持ち主です。

 簡単に紹介すると、大学は帝国大学。卒業後、日本銀行へ入行しますが恩人である伊藤長次郎氏の誘いで三十八銀行へ入行。そして同じく恩があった田中榮八郎氏の誘いで大川田中事務所へと入り、その系列の製紙会社であった樺太工業の専務となったのです。

 そんな藤田氏について、本書ではこのように紹介しています。

 元來君の生家はあまり豊かではなかった。随つて(したがって)當時三十八銀行の頭取であった伊東長次郎氏からすくなからぬ世話を受けた。そして學校を卒業するや直ちに日本銀行に入り、居る事四年地位大いに進み同僚から未来の総裁を以て擬せられるに至った。
 未来の日銀総裁を夢見、かつ實現の可能性ある君としては、三十八銀行の支配人位では食足らぬは勿論、下手をすれば一生を棒に振らなければならぬ譚であるにも拘わらず、蓄恩に報ゆるはこの時と、直ちに快諾を興へ同行へ入った。

 この藤田好三郎氏については、当時の経済紙に頻繁に登場しているようですが、上記の文章からも分かる通り非常に優秀かつ、非常に人情に厚い人物であったようです。

 そんな人物がどんな思いで豊島園を開園したのかを探ると同時に、どんな人物であったかについても資料を集めながら紹介していきたいと思います。


 以上、今回は現時点で集まっている資料について概論として簡単に紹介させていただきました。
 次回からは各資料を詳細に紹介しながら、古城の塔についてはもちろん、開園時と豊島園の様子、戸野琢磨先生の功績、藤田好三郎氏の功績について紐解いていきたいと思っております。

 ぜひ、今後ともお付き合いいただければ幸いです!


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