「関心の宛先になる」ことが、誰かの孤独をいやす、ということ。
キャリアコンサルタントの国家資格をとるとき、労働法規やらカウンセリングの技法やらをたくさん勉強する。そのなかでも一番「学んでよかった!」と思っていることが「相手に好意的関心を持つこと」、だったりする。
資格の勉強では実技がある。先生や他の生徒の前で、10分とか15分とか、模擬カウンセリングをおこなうのだ。当然だけど、緊張して問いかけが出てこない。僕だけでなく多くの生徒がそうだった。
どうしたらうまいこと「問いかけ」ができるんだろう? 先生に尋ねてみると、「そんなの、相手に関心を持ったら自然と出てくるでしょ?」と。
つまり相手にちゃんと関心を持とうねと。この好意的関心は、カウンセリングでもとても大事なことだとされている。(それがむずかしいんだけど)
関心を持っていれば、「それってどういうこと?」って、気になることが出てくる。そしてそれ以上に、あなたに関心を持っている、という聴き手の態度が、相手に影響を与えるのだ。
この「聴き手の関心」について、哲学者の鷲田清一さんはこんなふうに書いていた。
求められるということ、見つめられるということ、語りかけられるということ、ときには愛情のではなく憎しみの対象、排除の対象となっているのでもいい、他人のなんらかの関心の宛先になっているということが、他人の意識のなかで無視しえないある場所を占めているという実感が、ひとの存在証明となる。
(引用:鷲田清一『「聴く」ことの力』)
「関心の宛先」って、すごくいい言葉だな。僕らは誰かの話を聞きながら、「関心の宛先」が相手になっていないことがある。うんうん、と相槌を打ちながら、内容も100%理解していて、けれども「関心の宛先」が相手になっていないことがある。
たとえば営業相手として、いかにこの商品を買ってもらおうかと考えているとき、「関心の宛先」は相手自身というより「相手の財布」に向かっているし、いかに恋心を抱いてもらおうかと考えているときでも、「関心の宛先」は実は相手じゃなくて、「こんな素敵な人と付き合う自分」に向いている時がある。
そういうときに、相手は「関心の宛先」が自分に向いていないことに、けっこう敏感に気付くのだと思う。気づいて、傷ついたりする。ほら、買い物にいって「お似合いですよ〜」って店員さんに言われるけど、「思ってないじゃんぜったい!」ってときありません? そういうとき、ちょっとげんなりしてしまうのである。
なのに、僕なんかも自分がいざ話を聴く側になったときに、「関心の宛先」を相手に向けられていなかったことがある。(もちろん、取材やカウンセリングの時は別。プライベートでのはなし)。
ミヒャエル・エンデの『モモ』では、主人公のモモができたのは「関心の宛先を相手に向けて聞くこと」だった。
なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。
でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。そしてこのてんでモモは、それこそほかにはれいのないすばらしい才能をもっていたのです。
(引用:ミヒャエル・エンデ『モモ』)
「関心の宛先を相手に向けて聞くこと」。それができることは、すばらしい才能だ。それは生まれながらに持っている、といったたぐいの才能ではなくて、自分のなかに「関心の宛先を相手に向けて聞く」という意識のスイッチを持つことで、今からでも身につけられるものだと思う。
楽じゃないけど、たぶんピタゴラスイッチをつくるよりは簡単なんじゃないかな。
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