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「悲しみを語る」ことで、出逢える人がいる。-『わたしからはじまる』入江杏-

悲しくて、痛くて、ながいあいだ誰にも語ることのできなかった経験がある。

それは悲しみや怒りやくやしさやもどかしさがミキサーにかけられて青汁みたいにドロっとした液体みたい感情だったけど、誰にも言えず、そっと自分の奥底にしまわれて。そうするうちに自分でも存在を忘れてしまった。

でも、その経験はたしかに澱のように自分の底のほうにあって、何かの拍子にふわっとまいあがって、ときどき胸ににぶい痛みをひきおこす。そんな経験がある。


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入江杏さんの『わたしからはじまる 悲しみを物語るということ』(小学館)は、そんな「悲しみ」と向き合い、物語ることの大切さを気づかせてくれる。

入江さんは、上智大学グリーフケア研究所非常勤講師として、悲しみにある人々に寄り添う活動を続けている。

2000年に起きた「世田谷事件」の被害者遺族である入江さんは、事件以後、深い悲しみに覆われた。けれど、母親の「事件の遺族であることは世間に知られてはいけない」という言葉から、ながいあいだ「悲しみ」について、口をつぐんできた。

事件のことについて口を閉ざすべきだという、入江さんのお母さんの心情も理解できる。なにしろ、僕たちが生きる現代日本の社会は、「悲しみ」や「怒り」といった感情はネガティブなものだとされて、避けられがちだ。

「悲しみ」や「怒り」は、なるべく感じないほうがいいし、感じても表に出さない方がいい。現代は、そんな「悲しみをないがしろにする社会」だ。

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しかし、入江さんは「悲しみ」について語れないことに違和感を持つようになる。本の中で紹介されている若松英輔さんの言葉を借りれば、「悲しみの扉を通じてしか見えないものがある」からだ。

人生には悲しみの扉を通じてしか見えないものがある。悲しみは、確かに耐えがたい。ですが、悲しんでいるときほど、悲しみの原因と深くつながるときはない。だからわれわれの魂は、悲しみのときほど、その失ったものと最も深く結びついているとも言えます。

『わたしからはじまる: 悲しみを物語るということ』入江杏,124頁
※引用した文章は、本書で紹介されている若松英輔さんの言葉

「かなしみ」が古来は「悲しみ」「哀しみ」であると同時に「愛しみ」と書くように、「かなしみ」は単にネガティブな感情、という以上の深い味わいがある。「悲しみや怒りは、人の行動を縛る恥や恐怖と異なり、前向きの変化を促す感情」(128頁)だ。

なのに、「かなしみ」の感情を押さえつけてしまうことは、前向きの変化をさまたげることになる。特に、大切な人を亡くしたあとのプロセスであるグリーフワークではなおさらだ。

愛しく思う気持ちがあるから「かなしみ」を感じるのに、かなしみをないがしろにした結果、かなしみを感じた自分を責め、さらに生きづらさが増し ていってしまう。

『わたしからはじまる: 悲しみを物語るということ』入江杏,19頁

さらに入江さんのような事件の被害者遺族は、報道をとおして、他者による悲しみの物語にあてはめられていく。

「悲惨の消費・エンタメ化」という言葉が端的にあらわしているように、いまテレビや雑誌、webメディアをみわたしてみても、悲惨な事件についてさも同情するかのようなそぶりで語られていながら、そこには「エンタメ」として消費したいという人々の欲望が透けて見えていたりする。

報道が、本人が「悲しみの物語」を語ることをさまたげるのだ。

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だからこその、「わたしからはじまる」だ。

つまり、自分の物語を、自分で語る、ということ。誰かから押さえつけられたり、誰かの視点で語られてしまった物語を、自分のもとに取り戻す。「物語を語る意味は、囚われていた無力感から解放され、主体性を取り戻すこと」なのである。

そして、そうした「悲しみの物語」を通じて出会える他者がいる。

グリーフワークにおいては、そうした物語の語り直しが、「亡き人との出逢い直し」になると入江さんは言う。

わたしからはじまる物語は、逝ってしまった人たちの代弁者として語ることでも、死者に仮託して自分の本音を語ることでもありません。亡き人との出逢い直しは、常に新鮮な他者として死者をとらえ、日々、私の中で改訂していくこと。

『わたしからはじまる: 悲しみを物語るということ』入江杏,281頁

さらに、自らの悲しみを物語ることで、今を生きている他者とつながることがある。現代は「悲しみをないがしろにする社会」かもしれないけれど、実は僕もあなたも、「悲しみ」の経験があると言う点で、誰もが「悲しみの共通の水脈」でつながっている。

入江さんが毎年開催している「ミシュカの森」は、世田谷事件追悼の集いとしてはじまり、現在では集まった人々が苦しみや悲しみに向き合い、共感し合う場になっている。

僕も2022年12月に開催されたこの会に参加したが、苦しみや悲しみの語りがありながら、そこには涙だけじゃなく笑いもある、しずかであたたかな時間が流れていた。「悲しみ」を語っても受け止めてもらえるという安心感のある場をとおして、「悲しみの共通の水脈」の存在を実感した。


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みずからの「悲しみ」を物語ることは、自分と出逢いなおすことであり、今は亡き大切な人と出逢いなおすことであり、交わることがなかった他者と出逢うことでもあるのだと思う。

裏を返せば、「悲しみをないがしろにする社会は」、出逢いが貧困な社会だともいえるかもしれない。

うれしさ、たのしさ、おいしさ、びっくり、……。SNSをひらけば、そんなキラキラした投稿で溢れている。いわば、「映える」感情のほうが「いいね」がつきやすいし、フォロワーも増えやすい。

そうした「映え」でつながる関係を否定するわけではないけれど、「悲しみ」を通したつながりの意味も、見直されていいはずだ。

星野源さんも、こう歌っている。

暗い話を聞きたいが 笑って聞いていいのかな
思い出して眠れずに 夜を明かした日のことも

『くせのうた』

僕は暗い話が聞きたいのだ。




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