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足るを知り、古きを温めることが、新しい

#foodskole  「2021年度前期Basicカリキュラム」
「食」に夢を持てる社会を創りたい
第十一回目は9月14日火曜日、「衣食住自分のスタイルをもつ」
「食」に絞ることをせずに、衣食住の「暮らし」で考える時間。じぶんの暮らしはじぶんでつくる。じぶんで責任をもつ。ひとのせいにしない。いわゆる「丁寧な暮らし」のリアル。自分のスタイルをもつことが、ベーシック。でもそれがむずかしい。実践する平野さんの頭の中をのぞく。
講師は、石徹白いとしろの平野彰秀さん。

丁寧な暮らしってなんだ?

この言葉は、ずっと私の中でくすぶっていた言葉だ。
化学物質過敏症という病気になったことで、私は自分の生活の見直しをせまられたが、見直しの多くは「便利を捨てる」ことだった。これは見ようによっては、復古主義的な生活をするというふうにも受け取れるし、実際それまで利用していたテクノロジーや便利なものの利用を捨てるということもした。
古いものは大好きだが、特にミニマムな復古主義的な生活をしようとか、生活を見直しすること自体を丁寧な暮らしと呼べるとは思わなかった。

これらの見直しは友人の間では「丁寧な暮らしをはじめた」という誤解を受け、その人の中にある「丁寧な暮らし」との差異をぶつけられることもしばしばあった。
丁寧な暮らしの感覚とはなんなのか、それは人それぞれと言えばそうなのだろうけど、絶対的な印象が存在するような気がしている。

平野さんご一家とその暮らし

平野さんは、岐阜県石徹白いとしろという、白山信仰の地域で自然エネルギーをはじめとする、地域づくりを実践している人。
実を言うと、授業の内容だけでは平野さんがやられていることが、石徹白いとしろで現地の人が実際どう受け入れてきたのかはわからなかった。このあたりは、授業の中で紹介された「おだやかな革命」という映画を観て、平野さんたちがやられてきたことを地元の人たちがどう受け入れてきたのかがわかってくる。
石徹白いとしろの豊かな自然を利用して、昔から培われてきた知恵と現代のテクノロジーを利用し、小規模水力発電を導入している。奥様も石徹白いとしろに昔から伝わる衣服の形をベースにした洋服を作って、石徹白いとしろ洋品店」を展開している。



授業では、都会で働いていた時代に田舎に入って自分が何ができるのかを模索した日々のこと、実際に石徹白に入って地域の人たちとやりとりする土地の知恵と考え方、自然と大人の中で自立して生きる子供たちの姿など、平野さんの自己紹介。
でも、自己紹介こそが、ずっと平野さんご夫婦がやりたかったこと、いまやっていることそのものなのだろう。
平野さん自身は、スローライフにあこがれているとか、田舎暮らしにあこがれていたとか、ライフスタイルを重視しているということではなかったようだ。ただ、単純に「こっちに行ったら面白そう」という方向に行ってみたら、それを受け入れる場所があり、結果として田舎で暮らしてリーダーをしていたという話が印象的。

映画「おだやかな革命」

「おだやかな革命」は、日本各地で展開する小規模発電をしている地域とリーダーに焦点をあてた映画だ。
福島県喜多方の会津電力株式会社 佐藤さん、飯館村のソーラーシェアリング 小林さん。今回の講師である岐阜県石徹白いとしろの小水力発電事業 平野さん、岡山県西粟倉村の薪ボイラー 井筒さん、そして秋田の風力発電。それらがオムニバス形式で紹介されていく。

この映画を観て思ったのは、時代はすでに小規模集落の時代に入っているのではないかということだった。
江戸時代の田舎の集落は、村を庄屋が統治し、それを自治国が統治し、全体を幕府が統治するという仕組みだった。
行政的には今も変わらない部分もあるが、経済的には土地をまたいだ産業が通常化し、そこに流通が産まれているという形。
江戸時代の集落の閉鎖的な負の状況は、外とのコミュニケーションによって改善することで、小規模な自治が自分たちの生活インフラをまかなっていく。
それと同時に、そこの土地に培われてきた文化や風習を知り、必要なものを必要なだけ伝承して受け継いでいく。

そこに存在するのは「温故知新」。そして「足るを知る」精神。大人も子供も、自分に責任をもって生活をする意識も必要だし、子供でも自分の行動に責任を持つことも必要。コミュニケーションを円滑にするには、最低限の自分の情報は共有する必要もあるということ。それは感情だったり、想いのようなものだったり。
それらは復古主義とは少し違う。あくまで、現在のテクノロジーと、現在の暮らしにあった価値観をもって、古い生活や知恵を受け継ぐということ。
新しいも古いも否定せず、必要なものを利用していくということは、その土地やそこいる人、そして自分自身を知らなければならない。それを知ることが、「丁寧な暮らし」なのではないか、と映画を観ていて漠然と思った。

夢の売電事業

この映画で一番最初に出てくる、福島の会津電力株式会社の佐藤さんが震災直後に始めたのは、ソーラー事業。
最初は、この取り組みがひどく無謀なように見えた。原発事故で壊滅的被害を受けた人たちが、首都圏よりも自分たちの暮らしを守ろうとする姿はひどく切実だし、これまでのことを考えると当然の選択だとも思える。
しかし、震災後に進んでいくと思われた売電事業は、各地で失敗に終わっている。
特に北海道の自然発電事業は、北海道電力には受け入れられず、大きな成果をあげているとはいえない状況が続いている。

2018年の北海道胆振東部地震では、地震による大きな被害のなかった地域にも送電被害が起こり、停電と、携帯電話の基地局がストップして北海道全土で携帯電話が機能しないという事態に陥った。
私の実家のある十勝では、東北地震の後メガソーラー事業が盛んで、十勝のあちこちに広大なソーラーパネルが設置されていた。それが十勝に住む人たちの「生活」に利用されることはなかったようで、北海道胆振東部地震のあった日はみんなが久しぶりに夜空をじっくり眺めたと、あとで複数の友人たちが別々に教えてくれた。

夫の実家のあった稚内市では、丘陵地帯に大きな風力発電の風車があちこちで見ることができ、宗谷岬に続く道はまるでヨーロッパの丘陵地帯を見るようだ。この風力発電は稚内の電力需要の120%をまかなっているが、それらは稚内市民の生活には1%も利用されない状況が長く続いていた。
北海道胆振東部地震の日の稚内は、地震のあったことさえほとんど感じない場所でありながら、停電の被害はしっかりと受けることになった。

ソーラー事業なんて、結局は大手電力会社に牛耳られたシステムを崩さない限りは、難しいのではないかと思っていた。
しかし映画の中で、岐阜の平野さんと、岡山の井筒さんの事業を見て、昔からあるシステムと使われなくなった資源を利用することで、生活を維持することと、知恵と文化の継承を両立させる。
これらを見て、少し考えが変わった。新しい技術とテクノロジーを古い知恵と組み合わせることで、外からの移住者を受け入れ、土地の活性化も生まれる。

ただ懸念することがあるとすれば、福島県飯館村は一度死んでしまった土地であること。住民は強制的に退去させられ、要の土が使えない。
また、北海道は移住者そのものに歴史が浅いということもあり、土地に対する地元住民の意識が、古い信仰の残る岐阜や岡山とは状況が違う。これは大きな違いではないように思えるが、実際は土地に対する精神的な拠点のありかたがちがうので、ことが進むとその違いが広がっていくようにも思える。この感覚的な違いにそう向き合うか、という課題はあるだろう。

映画の最後で飯館村の小林さんが、ただ売電するのではなくソーラーシェアリングという現代的な手法を通して農地を守っていくという転換をはかったのを見て、規模を小さくすることでメガソーラーでは活かしきれなかった自然発電を有効に利用していく仕組みは、飯館村だけでなく全国につながっていっているのだなと感じる。
それは、2018年の北海道胆振東部地震から数年しか経っていない北海道でも、すでに展開されている変化だ。

風の時代のつながり

2020年のはじめにスピリチュアルな人たちが、2020年から星の運行が風の時代に入り、大衆から個の時代に入ったとやたらと喧伝していた。それはとてもスピードがあり、あれよと言う間に変化していく。
そして、あながちまちがいではないのではないかと思える流れ。
平野さんの「運命に導かれた役目」という説明で、なんとなくそんなことを思いだす。

ついこの間まで提唱されていたグローバル経済も、これからはローカルになり、プライベートになっていくのかもしれない。ただ、グローバル経済で培われてきた情報の在り方が、今後どのように統制され、発展していくのかで、ローカルの規模が変わっていくのかもしれないと漠然と思う。

ホーメイのつながり

平野さんとfacebookの友達になってもらったときに話に出てきたのが、四国でホーメイを歌うSさんという人。
この人は、ユーラシア大陸の真ん中へんにある、中央シベリアのトゥバ共和国というところで、ホーメイという喉歌(倍音を強調させて歌う歌唱法)を現地で勉強して日本で活動されている人で、最近平野さんのところにいらして披露されたという話を教えてもらった。

平野さんがこの話をされた理由は、私がnoteの自己紹介にトゥバのことを書いていたからだろうと思う。
私も1998年に、フーンフールトゥというトゥバのスーパースターの日本公演のスタッフとして働き、それからずっと喉歌や口琴の世界にいる。
日本にいながらにして様々な国の人たちと交流を持つことができ、その国の食文化などにも触れることで、その土地の宗教観なども感じる機会が多くあった。

Huun Huur Tu - Chiraa-Khoor

トゥバ共和国は、ソ連時代に禁止されていた言語や文化を、この30年の間に取り戻してきた。ソ連時代は、持つことも許されなかった楽器の製作者が、ロシアになって年を取りすぎてしまい、トゥバの文化を継承することがとても大変だったという話を聞く。
ロシア正教の国が多い中で、チベット仏教を信仰するのもトゥバの特徴ともいえるが、ソ連時代にお寺が破壊されたり経典が焼かれたりという受難を経て、日本の援助もあり寺院を復興している。

文化は、触れなければどんどん風化して失われてしまう。知恵も継承されなければ、消えてしまう。
それが人にとって必要のないものであれば、それは自然と消えていくものなのだろう。しかし、必要に目を向けないことで消えてしまうということは、無用の用に気づいたときは時すでに遅しということになるのだろう。
私はそれを再び取り戻そうと奮闘する国の人たちを、導かれるようにこの20年を眺めてきた。

土地の文化を新しいものに継承している平野さんから、ホーメイの話を個別にうかがったことで、トゥバの受難の歴史となんとなくかぶるところがあり、私自身別な形でそういうものに再び関わることができるだろうかと、なんとなくそんなことを考えてしまった。

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