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自己紹介

私のこと

50代
北海道帯広市出身、神奈川県在住
編集デザイナー
湘南口琴島主宰
日本口琴協会広報室

口琴のこと

私のこれまでは、印刷物とイベントを「作る」という仕事をしてきました。印刷物を作るといっても、そこに付随するコンテンツはたくさんあります。それはイベントであったり、商品であったり、オンラインであったり、人であったりします。
印刷物を作る過程で、関連するイベントに携わったり、それに関わる人に出会ったりしました。日本にいながらたくさんの国の人とも出会い、仕事もしました。
特に、「口琴」という楽器に関わる仕事では、世界中の国の人と日本で出会いました。
世界中の民族が持っていて、世界中にあるのに、その関連性はよくわかっていない楽器「口琴」。
日本だと、アイヌの人たちが持っているムックリという楽器がそれです。
ロシア連邦サハ共和国、アルタイ共和国、トゥバ共和国、ハカス共和国
モンゴル、バシキルトスタン、キルギスタン、カザフスタン、中国、ベトナム、タイ、フィリピン、ドイツ、ノルウェー、イギリス、ハンガリー、オーストリア、デンマーク.......
たぶん、口琴に関わっていなければ知ることもなかった国もたくさんあります。
私の知る限り、アフリカと北アメリカ以外の土地に暮らす、主に少数民族と呼ばれる人たちが口琴という楽器を持っています。
なぜかその土地の主要な民族は持っていなかったりする。なので、その楽器の存在すら知らない人の方が、たぶん多いんじゃないだろうか。

夏が来る01

トランカンハイ

日本口琴協会のCD、書籍、DVD、コンサートの印刷物などのアートワークを担当
上はCD「夏が来る~サハの口琴と声の芸術~」
下はトラン・カン・ハイのコンサート告知ポストカード

つくばでのこと

私の夫は会社員で、東京の企業の神奈川事業所に勤めています。
結婚して4年目のときに、転勤で茨城県つくば市の学園都市に8年ほど住みました。
つくば市の学園都市といわれる地域では、大きな研究所と大学が点在していて、そのほとんどの人たちが外から来た人たちでした。
外国から来た人も多くいて、お互いの微妙な常識と距離感で人付き合いが成り立っていました。
外国のコミューンも多数あったし、そこで生まれる交流もたくさんありました。
当時、筑波大学の前にアクアクというライブハウスがあり、アートのイベントを定期的に行っていたのですが、そこでトゥバ共和国のフーン・フール・トゥというグループのコンサートの実行委員に参加したことをきっかけに、アクアクの手伝いをしたり、イベント運営に携わるようになります。
口琴に関わる人たちと出会い、日本口琴協会の広報室を担当するのもそれがきっかけでした。

ポートフォリオ035

フーン・フール・トゥ1998年と1999年つくば公演
実行委員およびパンフレット等の広報印刷物を担当

私はフリーランスの仕事をしながら、昼間は研究所で働いていました。
研究所では外国からの研究者もたくさんいて、週末になると誰かの家でホームパーティをしていました。
インド、スウェーデン、ブルガリア、オーストラリア...... さまざまな国の人たちと、交流する楽しさも知りました。
でも、知らない土地での生活は、最初はどうしていいのかわかりませんでした。
当時はインターネットがまだ普及していませんでしたが、私の仕事はパソコン通信を利用していたので、慣れているところであれば、そのままクライアントと会わずに仕事が終わることもありました。
夫と二人暮らしでしたので、意図的に外に出なければ、数か月は夫以外の人と話さずに過ごすこともしばしばでした。

外の刺激をまったく受けずに生活することは、一見楽に見えるかもしれませんが、これはかなりの苦痛が伴います。感覚が鈍化して、自分自身が何も考えていないような気持ちになってきます。デザインをするという仕事をしているのに、これでは命取りになりかねません。
何より、知らない土地に来たのにその土地の情報がほとんど入ってこないのです。
幸い、研究所には研究成果をまとめるという編集の仕事がありましたので、私のスキルを活かすことができました。
そして、研究所で地元の人や外から来た研究者と交流をもち、つくばの豊かな生活の情報も得ることができたのです。
私にとっては、つくばでの生活はとても大きな影響がありました。

これからのことと、ちょっとしたつまづき

北海道を出て、さまざまな人と出会うことで感じることは、文化の多様さとその関連性と共通項。
口琴という楽器を大多数が知らなくても、世界の隅々に広がっている。その土地土地で、名前と形と役割を変えて存在している。これって、食と言語の文化に似ていると感じるのです。

自分の産まれた北海道は、もともとは深い原生林だった土地を、先人の入植者が苦労して開拓した土地です。私の祖父母も、戦後の北海道開拓政策で入植した人たちです。
両親の上の兄弟姉妹に当時の話を聞くと、今の生活では考えられないような過酷な生活でした。
それでも、最初は大豆くらいしか育たなかった大地が、今は食の宝庫となりました。私の産まれた十勝の土地は、農業自給率1200%という驚異的な土地に育ちました。
今、そんな豊かな土地と環境に魅せられて、多くの人が北海道で新しい取り組みをしようと移住しています。
でも、地元の人はそれをどこか他人事のように見ている。
新しい動きを観察しつつ、それがムーブメントになると、なんとなくのっかってみたり離れてみたり。
別に北海道に限ったことではないのでしょうけれど、なんとなくつくばで何も刺激を受けなかった自分と重なって見えてしまい、これはとてももったいないことなのではないかと思いました。

ネット環境が進んだために、田舎にいながらにしてこれまでの仕事を続けることもできる政策が進んでいる。
このコロナの中で、そういう動きも今後加速する兆しもある。
でも、そこでおきざりにされてしまう家族もいるのではないか。そういう人が外に出るには、どうすればいいのか。

新しく入ってくるそんな新しい文化を、地元の人にも楽しんでもらえたら。
移住してきた人が地域の中でおいてきぼりにならないために、地域を知り交流を持てる場所を提供できたら。
いろんな形で引きこもりがちになる世代の人が、交流できる場所があったら。
そこに行けばいつでも誰かがいるような場所をつくりたい。

そんなことを漠然と考えているうちに、新型コロナの影響が広がりはじめて身動きがとれなくなりました。
動きはじめることができる日のために、新しい情報を勉強することにしました。


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