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自伝的小説 『バンザイ』 第七章 空も飛べるはず


  

 
 東京都八王子。二十三区外にある名の知れた街。何度かライブをしに来たことはあるが、駅の外れまで歩くのは初めてだった。僕らは四人は全員ソワソワと落ち着きなく、駅からの道のりを歩いた。お兄ちゃんが加入してからは初めてのレコーディングだ。

「あー、やばい緊張してきちゃったよ」

 ホシくんが不安そうな顔で震えている。

「大丈夫だよ。今日は説明と見学だけらしいし、文化祭も明日からだし」

 大荷物を持った僕が答える。

「レコーディング久々だなあ。前回はコジマが入ったばっかりでカメいたもんな」

 とギターだけ背負ったクボタが言う。

「あれよりはいいの録ろう。大丈夫、録れる、録れる」

 お兄ちゃんは自分に言い聞かせるようにそう唱えていた。

 駅からしばらく歩くと、やっとそれらしき建物が見えてきた。

「まじで遠過ぎるだろ。こんな所に三回も来なきゃいけないのかよ」

 しかめっ面のクボタが言った。

「スクールバス出てるらしいからね。俺ら乗っていいのかわからないけど」

 のほほんとホシくんが答える。

 四人で校門に入った。近くに警備室があったが、特に呼び止められるようなことはなく、不審者でも入れそうなシステムだった。

 無数に立ち並ぶ建物。都心から離れていることもあり、かなり広い敷地だ。辺りにはキャンパスライフを楽しんでいる生徒達の姿があった。
 僕らは全員大学を出ていない。ホシくんが唯一、保育士の専門学校を卒業しているのみ。もう既に場違い感が半端じゃなかった。お兄ちゃんが入ってからはそういった色がより濃くなった気がする。

 進んでも進んでも何かしらの建物がある。奥にはグランドが広がり、朝だというのに何人かの生徒が走ったり球を蹴ったりしていた。

「はー、青春だねえ」

 と僕。

「高校を思い出すよね?」

 とホシくん。

「高校は最強におもしろかったからなあ」

 とクボタ。

「お兄ちゃんはどうだったんですか? 高校」

 と僕が訊くと、お兄ちゃんは答えた。

「うーん、あんまり友達いなかったねえ」

 そんな彼が今ここにいる。ロックだと思う。

 そうこうしていうちに、ミキちゃんから伝えられていた、一番奥に聳える目的地に辿り着いた。

「おし、ここっぽいな。ホシくんちょっと先入ってよ」

「えー、怖いなあ。じゃあ、開けますよ?」

 僕の言葉に従い、ホシくんは恐る恐る扉を開けた。中にはなんの変哲もない、普通の学校と同じような廊下があった。

「なんかえらい普通だな」とクボタ。

「たぶんここ進んだとこがレコーディング部屋だと思うんだけど……」

 僕は先陣を切りながら、奥へと進んでいった。

「あー! 皆さんおはようございます! こっちですこっち」

 緊張と興奮が入り混じった様子のミキちゃんが現れた。こっちへおいでと手招きをしている。

「こんちはーっす。今日はよろしくね。まさかこんなでかいとは思わなかったよ」

 僕はそう言いながら、ゾロゾロと彼女に近付いた。

「そうなんですよ、うちでかいのだけが取り柄なんです。迷路みたいでしょ?」

「すごいよここー、途中コンビニあったの見えたもん」

 と楽しそうなホシくん。

「中に生徒用の飲食店もあるんです。私も最初びっくりしました」

「金掛かってんなあ」

 と周りを見渡すクボタ。

「立ち話もあれなんで、とりあえず行きましょう。先生とか紹介します」

 そう言う彼女に付いていくと、『レコーディング室』と書かれた扉の前に来た。ミキちゃんがガチャリと防音扉を開けた。

「おおーーーー」

 僕らは思わず口を揃えた。
 でかい。明らかにプロ仕様の部屋だ。僕の職場の三倍以上はありそうなミックスルーム。大きな卓とその奥には横長の窓があり、更に大きそうな演奏ブースが見えていた。

「紹介しますね。こちら今日からお世話になります、軟弱金魚の皆さんです」

 先生らしき大人一人と、生徒らしき学生四人に頭を下げた。僕らは一人ずつ軽く自己紹介をした。

「よろしくお願いします。私サトウと申します。この度はご協力いただきありがとうございます。今日は打ち合わせということで、諸々私から説明させていただきます」

 まだ若く、やり手そうな先生が超ご丁寧にそう言った。僕らは大きなソファに横一列に腰を掛けた。

「公開レコーディングということで、明日と明後日の文化祭で公開録音をしてもらいたいと思っています。入学を考えている高校生達がたくさん来校する予定です。しかし公開と言っても、そんなに大掛かりなものではなく、あちらの窓から見学OKということになっているだけです」

 彼の手の先には廊下が見える窓があった。

「あー、あそこから覗かれだけなんですね」

 僕は思わず口にした。

「そうなんです。なので、そんなに気が散らずに作業ができるかと思います。ただ、中を見てみたいという希望者がいた場合は、入ってくることもあるかもしれませんが、あまりそういうことを言う子はいませんね」

「へぇーー」

 また四人の口が揃った。

「そしてエンジニアなんですが、担当するのはこちらの音響科の生徒になります」

 四人の生徒が頭を下げた。

「今回は生徒と演者さんだけで全ての工程をやっていただきます。基本的に私は口出しいたしません」

 大きな期待と小さな不安がよぎる。

「といったところですね。何か質問ありますか?」

 僕らは顔を見合わせた。

「あのー、何曲録っていいとか、何時まで使えるっていうのは、どうなんでしょうか?」

 と質問してみた。

「曲数に規定はありません。時間が許す限りご自由に使ってください。朝はこの時間ぐらいからで夜は十八時まで使えます」
 
「なるほど、わかりました。じゃあ明日からって感じですかね」

「あ、もしよかったら今日準備しちゃってください。なんならリハーサルがてら、一曲くらい録っちゃっても大丈夫です」

「え、本当ですか?」

 二日の予定だったが、今日からなら三日。それならかなり心強い。

「四曲録りたいなと思ってるんですけど、可能ですかね?」

「あ、そんなにあるんですね。だったらもう今日からどんどん進めちゃいますか。じゃあ皆、準備しちゃって」

 先生がそう言うと、生徒たちはすぐさま準備に取り掛かった。僕らも荷物を演奏ブースに運び始めることにした。

「でっけーーーなあ」

 卓の右手にある防音扉を抜けると、クボタは大きな声を上げた。三十畳はありそうな程広々としたスペース。何よりも天井がものすごく高かった。

「こんな所で録れるなんて、完全にプロじゃん。本当にいいの?」

 僕は側にいたミキちゃん言った。

「大丈夫ですよ。思う存分使ってください。知り合い頼むって決まってから、私の頭の中は軟弱金魚さんしかいませんでした」

 この子は女神か何かなのかもしれない。

「いやー、ありがたいっす。精一杯やらせていただきます。……で、ミキちゃんは今回何するの?」

「私はお手伝い全般です。マネージャーみたいなものだと思って使ってください」

 優しく笑う彼女。感謝しかなかった。絶対にいいものを録らなければ。

 僕らはそれぞれ準備を進めた。メンバー一人につき一人の生徒が付いてくれるVIP待遇。こんなのがタダで、本当にいいのだろうか?

 ドラムのセッティングをしていると、一人の生徒がマイクスタンドを持って、ドラムの周りを行ったり来たりし始めた。

「彼、ゴウくんって言います。今回のメインエンジニアです」

 ミキちゃんはヒソヒソと僕に話した。
 
「へぇー。なんかすごいエンジニアっぽい雰囲気だね」

 メガネをかけた細身の寡黙で真面目そうな子。今まで見てきたエンジニアは、半分くらいがこのタイプだった。

「彼すごいんですよ。成績が断トツナンバーワンで、大手からの内定も早い段階でもらってるんです。先生よりもすごいんじゃないかって言われてる子です」

「まじで? そんな人に録ってもらえるとか奇跡じゃん」

「そうかもしれませんね。だからいいもの録りましょうね?」

 彼女のはにかんだ笑顔。なんなんだこのやさしさは。好きになってしまうかもしれない。


 今回録るのは四曲。ライブで定番の『バカ音頭』。最近完成したクボタとお兄ちゃんの共作『Rー18』、『君 kill me 繋いでよ』。そして、以前から暖めてきた、最近のライブでは最後に演奏する『永久的リメンバー娘』。

 ライブの勢いをそのまま出したかったので、個別で録るのではなく、四人でせーの!と始める一発録りということに決めていた。その方が時間短縮にもなる。今回は同時に演奏しても、アンプが別の小さなブースにある為、ミスも修正可能とのことだった。大きなスタジオだから出来ること。ありがたかった。

 曲のテンポも正確な数字で決めていた。最近のスタジオではクリックに合わせた練習をメインにしていたので、その辺はおそらくバッチリだろう。ただし『永久的〜』だけは歌にリズム合わせて畝るような曲なので、数字を決めずに録ることにした。

 粗方の準備が終わり、個々の音を調節することになった。いつもライブハウスのリハーサルでやっているやつの長いバージョンだ。僕らは入念に音を作り、ゴウくんの指示の元、黙々と作業を続けた。

 レコーディングは何度やっても緊張する。ライブとは違いとても繊細な作業で、似ても似つかない。まるで別物だ。ライブはいかにぶっ飛べるかの勝負。しかしレコーディングは、冷静と情熱の間にいなければならない。どちらかに片寄ってしまってはダメで、リズムやハーモニー、グルーヴなんかを意識しつつ、思い切って演奏をする。小さなミスも全て音に出る。感情や勢いも全てバレる。確実に寿命が縮まるであろう、骨の折れる作業だ。

 準備は整った。まずは一曲目『バカ音頭』から。緊張感を持ちながら、人の目は気にせず、冷静に、尚且つ力強く、全神経を集中させて、僕はドラムを叩き始めた。
 

 気が付くと一時間近くが経過していた。とりあえず大体録れたので、ミックスルームで確認する。演奏している時と落ち着いて聴くのとでは、まるで印象が変わる。そこそこいい演奏ができたと思っても、しっかり聴くと小さなミスやニュアンスが気になってくる。僕は一部分のフレーズだけ取り直すことにした。ホシくんも少し手直ししたいという。

 ゴウくんは指摘された場所を素早く見つけ、録り直しの段取りを組んでくれた。言われて通りに演奏し直し、改めて聴いてみると、先程より明らかにいいものに変わっていた。手直しが終わると、次はギターソロを重ねていく。お兄ちゃんが悪戦苦闘しつつ、なんとか仕上げていった。僕ら三人にとっては束の間の休息だったが、お兄ちゃんと同じくらい集中し、作業を見守っていた。
 『バカ音頭』の演奏はほぼ完了した。歌録りはまた明日か明後日なので、次の曲に取り掛かる。こうして僕らのレコーディングは進んでいった。長い三日間になりそうだ。

 演奏をし、確認し、また録り直す。基本的にドラムがミスってしまうとそこでストップになることが多いので、気を抜くことは許されない。一曲を通すだけでどっと疲れが押し寄せる。ライブとはまた違う、心にくる疲れだ。

 六時間ほど経ったところで、お開きの時間となった。まだ本番でもないのにガッツリと二曲の演奏を録ることができた。明日は残りの二曲の演奏、明後日は歌入れとミックス、という流れになった。僕らはゴウくんの後ろに座り、録り終えたばかりの演奏を聴かせてもらいながら、以降のイメージを膨らませた。


「結構いい感じに進んだね。あと二日あれば全部終わるかな?」

 疲れた顔をしながら、電車に揺られるホシくん。

「たぶん大丈夫じゃないかな。歌がスムーズにいけばの話だけど。ミックスの時間はちょっと足りないかもなあ」

 と僕は答えた。

「そっか、まぁ頑張るしかないね。やっぱりあの曲が鬼門になるのかなあ」

 そう、問題は『永久的〜』だ。この曲がきっと僕らの運命を左右する。他の曲は激しく乗れるような曲だが、この曲だけはテイストが違う。本当に心の奥に突き刺ささるような歌。この曲を聴いて泣いてしまった、という声を何度か耳にした。僕も叩きながら感情が溢れてきて涙することがあった。この曲さえ上手く録音できれば、これさえ聴いてもらえれば、きっと道が見えるような気がする。演奏とクボタの歌がバチっとハマれば、或いは。

 そんな期待を込めて明日が来るのを待った。


 レコーディング二日目。昨日でだいぶ慣れたので電車と校舎までの道のりは完璧に覚えていた。
 今日は文化祭一日目。朝の九時から敷地内は人で溢れかえっている。何をやっているのかはよくわからなかったが、生徒たちの顔は一様にキラキラと楽しそうに見えた。校舎の前に野外ステージが組まれていて、ライブのリハーサルまで行われている。きっとコピーバンドで盛り上がるのだろう。僕は静かに闘志を燃やした。

 レコーディング室のドアを開けると、既に昨日のメンバーが揃っていた。

「おはようございます。今日もよろしくお願いします」

 とミキちゃんはさわやかな笑顔で言った。

「お願いしまーす。今日から公開レコーディングってことになるのかな?」

 と僕は質問した。

「一応そうですね。でも皆さんはあまり気にせず集中しちゃってください。基本的に外から覗かれるってだけですから」

「サインとか会話とかはしなくていいわけ?」

 ニヤけ顔のクボタが言った。

「大丈夫です! たぶん誰も知らないと思うんで……」

 ミキちゃんのその言葉に、僕らは全員笑い合った。昨日よりもリラックスできていい空気だ。

 こうして僕らの二日目が始まった。
 昨日のおかげでスムーズなスタートを切れた。三曲目の『君 kill〜』から録り始める。

 昨日の速い二曲とは違い、ミドルテンポのロックだ。RECは遅い曲の方が簡単だと思われがちだが、それは全くの逆で、遅ければ遅いほど難しくなる。早ければなんとなく勢いて誤魔化せるが、ゆっくりだと自分でしっかりと間をとらなくてはならない。フィルインなんかで駆け足になってしまえば、すぐにクリックと合わなくなる。テンションで叩くタイプの僕にとっては、昨日の曲のより何倍もハードだ。

 三回目でようやく全体のOKテイクが出た。ここから手直しと、ギターを重ねていく。あーでもないこーでもないと調節していき、ようやく出来上がった頃には三時間が経過していた。時刻は昼の十二時過ぎ。残りは六時間。僕らは少し休憩を取ることにした。


「ホシくんわりといいんじゃない? 一番無難にこなしてると思うよ」

 僕は水を飲みながら言った。

「いやー、やっぱ緊張するね。難しいことやってないからなんとかなってるよ」

 ホシくんはそう答えると、オニギリを頬張った。

「お兄ちゃんはどうです?」

 少し離れた所に座っているお兄ちゃんに質問した。

「うん、どうにかこうにか最低限のギターは弾けてるかな。もうジタバタしてもしょうがないからね。今出せるもの出すしかないね」

 疲れた顔でタバコの煙を吐いていた。

「あとは最後の曲だけか……」

 クボタがパンを齧りながら呟いた。

「次が今回の勝負だよ。ぶっちゃけ他が微妙でも、次さえ決まれば勝ちじゃないかな」

 僕は祈るような気持ちだった。

「やるしかないね」

 ホシくんの言葉に、全員が小さく頷いた。

 次の曲で運命が決まる。僕らは静かに心の準備を整えていた。


「次はクリックなしで大丈夫です。始まり方も終わり方も結構アバウトなんで、前後余分に録っておいてもらえますか?」

 レコーディング室に戻り、ソファーに腰掛けながら僕は言った。

「了解しました」

 ゴウくんは真っ直ぐな姿勢で、パソコンを触りながら答えた。

「あと演奏中に声とか出すかもしれないんで、なんとなくスタジオの空気って別で録れます?」

「あ、そういう用のマイク立ててあるんで、録っておきます」

 さすが大手に入る人物。話が早い。

「しゃー、やるかあ」

 と立ち上がるクボタ。

「あ、そういえば俺いいギター持ってきたんだよ」

 この曲の為に僕は、白いテレキャスターを持ってきていた。

「結構ギターの弾き語り時間長いし、これ使ってみてよ」

「おお、サンキュー。かっけえなこれ」

 クボタが普段使っているのは、僕が昔あげた二万円くらいのおもちゃに近いものだった。それよりは幾分かマシだろう。

 最後の曲の録音が始まる。ブース内の空気はライブの時のそれとまるで同じだった。四人の緊張と集中力は今がピークかもしれない。僕はヘッドホンをした頭にタオルを巻き付け、外れないように固定し気合を入れた。

「じゃあ、お願いしまーす」

 窓の向こうにいるゴウくんに、手を挙げて合図をした。

 ゆっくりと久保田が弾き語り始める。
 最初はクボタだけが、一人寂しげに、真ん中で戦っている。その後、少し遅れて僕が加わり、あらゆるものを極限まで抑えたビートを刻んでいく。心細さを覚えそうな頃、ホシくんのベースがスライドしながら加わり、暖かな低音で僕らを包み込む。そして最後、お兄ちゃんの激情とも呼べる轟音が、曲を別物のように激しく変化させ、叫ぶ。
 波打つようなグルーヴで全員が演奏する中、途中ホシくんがベースを思い切り間違えた。僕はドラムを叩く手を止めた。

「おーい、ホシくん! 今いい感じだったよー! ……ちょっとここは、まじで集中しよう。この曲は何回もやれないから、もう絶対にミスらないようにして。次で決めるぞ」

 僕は頭に血が登りそうになるのをグッと堪えた。

「うん、ごめんなさい。次、お願いします」

 クボタ兄弟は無言で頷いた。

 先程以上に集中をし、ブースの空気は張り詰めていた。再びクボタが弾き語り始め、僕らは後に続いていった。僕はテンポを意識しつつも、全身全霊でドラムを叩いた。つまらないものにはしたくない。メンバー全員で顔を見合わせながら、誰かに届けという想いを、強く演奏に込めた。
 途中でヘッドホンが外れそうになり、頭を振って無理矢理振り落とした。なんとか手は止まらなかった。

 ――行け! このまま、最後までいっちまえ……!

 
 演奏が終わった。
 僕らは四人は、ゴウくんの合図が出るまで固まっていた。聴いてみないとどんな演奏だったのかはわからない。しかし、確認するまでもなく、これ以上のテイクは出ないだろうということはわかった。

 僕らはミックスルームに戻り、録ったばかりの音を静かに最後まで聴いた。

「……これめっちゃ良いんじゃない?」

 と僕。

「……うん、俺もそう思う」

 とホシくん。お兄ちゃんは静かに何度も頷いていた。

「……よし、このまま歌まで録っちまうか」

 とクボタが立ち上がった。僕らはただ黙ってそれに従った。

 クボタがボーカルブースに吸い込まれていく。

「じゃあお願いします」

 辺りは静まり返っていた。録ったばかりの音に合わせて、クボタが歌い始めた。


  
  流れる音と耳を劈く心臓の音
  その速度を 増してくれないか
  流れる涙と一緒に
  ごめんよ 僕は君に何にも
  してあげられなかったよ
  この夜よ 輝き増してくれないか
  君が歩く道照らしてよ

  嗚呼 前が見えないよ 君が歩く後ろ姿
  嗚呼 ずっと見ていたいけど
  僕も前見て進むから さよならさ

  これからどこに行っても
  これから何をしていても
  僕が君をすっかり忘れても
  僕は必ず君を想うだろう
  この歌を歌うのでしょう
  だから今は前見て
  できることなら君を忘れて
  今の暮らしをちゃんと生きます
  だからお願い 届かなくてもいいから
 
  君の名前を呼ばせて

 クボタは最後に曲名を叫んだ。
 それは何かを突き破ったような音だった。
 僕はその言葉に涙が出そうになった。
 やっぱりクボタはすごい奴だった。
 こんな奴の後ろでドラムを叩けてるなんて、とんでもなく幸運なことなんだ。


「めちゃくちゃ良かったじゃん」

 戻って来たクボタに声を掛けると、少し視界が滲んだ。

「おう、一応なんとか形にはなっただろ」

 彼は肩で息をしながら、満足気に答えた。
 僕は身体の震えを抑えるのに必死だった。なんとか上手くいった、と、一人静かに安堵していた。

 レコーディングは後半戦に突入した。あとは他三曲の歌とコーラス入れ、そしてミックスを残すのみ。僕は先ほどの余韻でフワフワとしていた。他が上手くいかなくても、もうなんとでもなると思った。

 この音をどうしてくれようか。
 聴く人が聴けば、間違いなく何かが起きる。


 結論から言うと、非常にいいものが録れた。奇跡に近いテイクばかりだった。三日間で四曲。これがタダとは誰も思わないだろう。濃密過ぎる時間を経て、最後はみんなぐったりとしていた。
 『永久的〜』は予想を超えるほどの出来だった。前半の弾き語り部分のギターの音が格別だった。テレキャスター持ってきたのが功を奏した。本当に奇跡の連続によって、僕らの音源は完成した。

 人生の大きな目標を叶えてしまったくらいの達成感だった。少なくとも僕はそう思った。これからこのCDをライブハウスやレーベルに配りまくる。タダでやらせてもらったんだから、もちろんタダで配る。三百枚くらい焼いて、思いつく限りの場所や人に配れば、絶対に何かしらの反応はある。そう確信していた。

 こうして僕らの三日間が終わった。



 僕はふと、タマのことを思い出した。そういえばもうしばらく連絡を取っていない。最後に電話をしてから、僕は連絡することを辞めていた。向こうは向こうで一度だけメールをくれてから、音沙汰はなかった。このまま自然消滅していけばいい。そして存在自体をきれいさっぱり忘れてしまおう。そんな風に思っていた。

 しかし、この音源だけは聴いてもらいたかった。誰に聴かせたいかと問われても、タマの名前しか出てこなかった。あとはもう、色んな人に届け、というくらいの、ぼんやりした感情しかない。少し燃え尽きかけているのだろう。もう思い残すことはないような気分だ。最後にタマにこれを聴かせよう。そして軟弱金魚で行けるところまで行こう。できるだけ高いところへ。そんな想いで、僕はタマに連絡をした。

「久しぶり。元気? ちょっと聴かせたいものがあるんだ」


 久しぶりに会ったタマは、何も変わってなかった。相変わらず幼い顔をしていて、やわらかい話し方をしていて、可愛らしかった。僕らは大学の近くの公園にいた。

「元気でしたか?」

「うん、まぁそれなりに。そっちは?」

「うちはいつでも元気です」

 彼女は少しだけ悲しげに笑った。

「でも、ずっと連絡なかったから、少しだけ寂しかったです」

「バンドバンドバンドの日々だったからさ」

 なんとなく気まずい空気が流れる。

「これ、最近録った音源。よかったら聴いてみて」

 僕は何の装飾もないCDを渡した。 

「わー、メールで言ってたやつですね。ありがとうございます。嬉しいです」

 彼女は嬉しそうにCDを眺めていた。

「とりあえずすげーいいから、聴いてみて」

「もちろんです。帰ったらすぐ聴きます」

 少しの沈黙。

「……じゃあそれだけだから」

 僕は静寂を打ち消すように立ち上がった。

「え、もう行っちゃうんですか? この後何かあるんです?」

 タマはベンチに座ったまま、こちらを見上げて言った。

「んー、今日はライブだから、一回帰ろうかなと思って」

「じゃあ歩きましょ。とりあえず駅まで」

 彼女はそう言うと、ひょいと立ち上がり、まっすぐ歩きだした。僕もそれに続いた。平日の昼間で人は疎らだった。季節はもう春に差し掛かっていた。

「何曲録ったんですか?」

「4曲だよ」

 二人並んで、とぼとぼと歩く。

「どうでした? レコーディングは」

「みんなすげーピリピリしてたよ。特に俺が」

 ふふっとタマが笑う。

「簡単に想像が付きますね。楽しかったですか?」

 うーん、と僕は唸りながら考えた。

「楽しむ余裕はなかったかなあ。ライブと違って神経使う作業だから、本当疲れたよ。もう二度とやりたいくないって感じ」

「へー、うちらちゃんとしたレコーディングとかしたことないから、羨ましいです」

 本当に、羨ましいなあ、というような顔で言った。

「今回は色々、ラッキーだったよ。普通ならかなりお金掛かってたと思うから」

「公開レコーディングって、たくさん人が見に来るんですか?」

 タマに言われて、そのことを思い出した。

「あ、そういえば全然気にしてなかった。っていうか集中してたから、まったくそれどころじゃなかった」

「へぇー、見てみたかったなあ」

 話しながら歩いていると駅に辿り着いた。

「どうしましょっか」

「どうしよっか」

 二人でうーんと唸る。

「お家にお邪魔しても、いいですか?」

 僕はドキっとした。

「え、別に大丈夫だけど……」

「じゃあ、行きましょ?」

「う、うす」

 家に行って何をするのだろう。なんとなく想像は付いていた。二人で部屋に入ったら、触りたくならないわけがない。だけど、こんなはっきりしない関係で、マコトさんともどうなったかもわからないで、そういうことをする気にはなれない。かと言って、あれこれ訊くのも気が引ける。僕から会おうと誘ったけれど、僕は何をしたらいいのか、何を喋ったらいいのか、全然わからなかった。

 ただ音源を聴いてほしかった。バンドをやっている以上は誰かに聴いてもらいたい。それで最初に頭に浮かんだのが彼女だった。それ以上何を望む必要がある? 僕なんかいない方が平和に過ごせるだろう。僕にとっても彼女にとっても、この関係は良くないに決まっている。断ち切らなければいけないものなんだ。
 
 今はバンドがなによりも大事で、その為には気持ちを強く保っておく必要がある。しかし、タマが自分のものになったらそれが崩れる。甘えてしまう。幸せを手に入れたらそこで終わってしまう。飢えている必要がある。そうしなければ望んでる場所には行けない。だからダメなんだ。終わるべきなんだ。断ち切るべきなんだ。音楽がない人生なんて、生きていけるわけがない。

 ――ダメだ。逃げろ。断ち切れ。今すぐに。

 電車は揺れながら進んでいく。僕の心もグラグラだった。沈黙は人混みが打ち消してくれた。僕らは隣同士に座って手を繋いでいた。ごく自然に、どちらからともなく。

 最寄の駅に着き、タマはビールを買って、飲みながら歩いていた。僕はこの後のライブを気にして飲めなかった。なんだか全てがどうでもよくなってきた。

 家に着いた瞬間に彼女を抱きしめ、キスをした。それでアルコールが移ったのか、そこからはもうあんまり覚えていない。寸前のところまでいったけど、一線は超えなかった。超えることが怖くてできなかった。
 数時間後。ようやく落ち着き、タマが持ってきていたタバコを二人で吸い、缶ビールを灰皿代わりにした。なんだか絶望的な気だるさに支配されていたけど、居心地はよかった。

 もしかしたら僕らは、ベストパートナーなのかもしれない。そんなことがふと頭に浮かんだ。

「……ねえ」

「なんですか?」

 タマは僕の腕に頭を置いて、布団をかぶっていた。

「付き合ってみる?」

 頭に浮かんだことをそのまま口に出した。

「え?」

 彼女は目を丸くした。

「今なんかふと思ったんだよね、上手くやれるんじゃないかって」

 自然と言葉が溢れて出てくる。

「俺はずっとあなたから逃げ続けてきたけど、もしかしたら、あなたも音楽も全て抱えて、全部上手いことやれるんじゃないかなって」

 タマは無言でこちらを見つめていた。

「俺の人生はバンドしかなくて、彼女とかできても大事にしてあげられないし、付き合ったらバンドも疎かになるから、そんものはいらないって思ってたんだ。あなたの存在が邪魔で仕方がなくて、出会わなけりゃよかったってずっと思ってた。でも厚木のライブハウスで一目見た時から今の今まで、ずっと変わらずに好きなままなんだ。俺は一目惚れしかしなくて、好きになった人とは毎回何故か付き合えてた。でも今回は違って、彼氏がいる人を好きになったことなんかなかったし、そもそも住む世界が違うなんて思ってたし、どう考えても釣り合わないとか思ってた。そうなんだけど……」

 話しているうちに涙が出てきた。タマはそれを黙って拭ってくれた。

「でも、どうしても駄目なんだ。忘れられなかった。この数ヶ月も、ずーっと忘れよう忘れようって思ってた。こんな風に一緒にいるのも信じられない。何か見えない力に動かされてる感じで、自分の意思じゃないみたいなんだ。ギター買いにいった時もあんなことになって、運命なんじゃないかって思って、好きになりたくないのに、こんなに惹かれてしまって、今もこうなってしまってて。……うまく言えないけど、今ぼんやりと、上手くいくんじゃないかって、本当に本気で頑張れば、音楽も上手くいって、君にふさわしい自分になれて、全部が全部丸く収まって、そのままやっているんじゃないかって、なんかそう思って……」

 僕は起き上がり、土下座をするような体制になった。

「もう無理だ。付き合おう。お願いします。なんとかするから。全部上手くやるから」

 懇願して、泣きついて、藁にもすがるような思いだった。

「うーん」

 と言いながら、タマも起き上がった。

「……本当に、うまくやれますか?」

 彼女は僕の手を握りながら言った。

「……うん」

「うちと付き合うのは、きっと辛いですよ?」

「大丈夫だよ」

「本当に?」

「……うん」

 少しの沈黙。

「うちはもう、最初の人の時みたいになるのは嫌ですよ?」

「ならないよ。約束する」

「……うーん」

 タマはそう唸ると、少し黙って考え込んでいた。僕はもう居ても立っても居られない気持ちで、爆発してしまいそうだった。

「わかりました」

「え?」

「付き合いましょうか」

「……本当に?」

 嘘だろ?

「はい。いいですよ」

 彼女はニコッと笑った。

「まじで? 本当に? やっぱりなしとかなしだよ?」

「うふふ、はい。よろしくお願いします」

 身体が震えた。僕はタマを抱きしめた。彼女も抱きしめ返してくれた。

「ありがとう。俺、本当に頑張るわ」

「ええ、頑張ってください。ちゃんとうちを捕まえていてくださいね」

「うん、そうする。誰にも渡したくない」

 僕らはキスをした。そしてそのまま倒れ込んだ。タマが僕の彼女になった。僕らは彼氏と彼女になったのだ。

「嬉しいです。幸せです」

 タマが笑いながら言う。

「本当に?」

「ええ、とっても」

「そっか。よかった」

「あなたはどんな気分ですか?」

 僕は少し考えてみた。

「うーん、なんだろう。バンザーイって、両手を突き上げたい気分」

「ふふ、バカみたい。でも嬉しい」

 タマが頬にキスをしてきた。僕も同じ場所に返した。

「でも、知ってます? 万歳って言葉の意味」

「んー、嬉しいとかやったーみたいな、それを身体で表現する時の言葉?」

「はい、そうです。でもそれ以外にも意味があるんですよ」

「そうなんだ。どういう意味なの?」

「んー、内緒です」

 再びキスをした。今度はしばらく続いた。

「今度調べてみてください。宿題です」

「今教えてよ」

「ダメです」

「ふーん」

 彼女の顔を見つめてみた。目が合うと僕に笑みをくれた。

「ずっと捕まえててくださいね。じゃないとうち、どこかに行ってしまいそうだから」

「わかってるよ」

「約束ですよ?」

「うん、約束する」

 僕らはその日、初めて一つになった。
 出会ってから一年半が経とうとしていた。

「すっかり遅くなっちゃいましたね、間に合いますか?」

「うーん、かなりギリだけど、本番は間に合うはず」

 僕らは立川に向かう電車に乗っていた。リハーサルをすっぽかしてタマと居た為、ぶっつけ本番となってしまった。

「皆さん怒ってないですか?」

「とりあえず連絡はしといた。ちゃんと事情話すから大丈夫だよ」

 僕らは手を繋いでいた。今までは恥ずかしくてほとんどできなかったこと。

「ちゃんと紹介してくれます? すごく恥ずかしいですけど」

「大丈夫大丈夫。みんななんとなくは知ってると思うし」

「それならいいんですけど……」

 恥ずかしそうに俯くタマ。

「ライブ頑張ってくださいね」

「うん。今ならなんかすげーことできそう。フワフワしてる」

「ふふ、うちもです」

 身体が熱く、気を抜くと涙が出そうだった。身体から湯気みたいなものが出ていて、そこから感情が溢れているかのようだ。

 幸せを手に入れてしまったのかもしれない。それは今までの人生では、感じたことのないものだった。これまで恋愛とは少し次元が違っていた。僕は人を好きになっても、のめり込むことはなかった。どこか一歩引いて冷静な自分が常にいた。「愛してる」なんて言葉を口にしてみても、違和感のようなものが心の中にあった。

 何故ここまでタマに惹かれてしまったのだろうか? それは本当にわからない。運命と言ってしまうのが一番しっくりきた。可愛いとか、タイプだとか、なんとなくとか、そんな軽いものじゃなくて、自分の理想を具現化した人物がタマだった。そんな人と出会って、喋って、仲良くなって、向こうも好きになってくれて、付き合って、一つにまでなってしまった。

 意味がわからない。わからないけど、事実なんだから仕方がない。絶対に逃さないように捕まえておくしかない。この人に相応しい、誰よりもカッコいい男になる。周りに自慢できるほど、バンドですごくなるしかない。

 立川に辿り着いた。手を繋いでライブハウスまで歩く。

「マコトさんに連絡しなくちゃ、コジさんと付き合いましたって」

「ふーん、……もう会わないの?」

「ええ、もちろん」

 タマは僕の目を見てきっぱりと言った。

「泣きついてきたらどうする?」

「あなたより好きになってしまったから、ごめんなさいって言います」

 ふーん、と言いながら、僕はそれを想像した。

「そんなに俺のこと、好きなの?」

 僕がそう訊くと、彼女は少し笑って、怒ったような顔で言った。

「そうですよ? あなたから連絡来なくなってすっごい寂しくて、忘れなきゃ忘れなきゃって思って、でも気が付くとメールとか読み返しちゃってまた思い出して。うち我慢できなくて、あなたの職場まで何度か行っちゃいましたもん」

「……そうなの?」

 今初めて知ったことだった。そんなこと思いも寄らなかった。

「でも、一緒になるのは、やっぱり無理だって思ってたんです。好きだけど、こればっかりは仕方ないかなって」

「俺もそう思ってたよ。でももうなんか、我慢できなかった」

 さっき告白した時の、情け無い自分の姿を思い出した。

「うちはさっき、覚悟決めましたから。ずっと一緒にいられるように、一生懸命頑張ります」

「うん、大丈夫。全部上手くやってやるって、もう決めたから」

 ライブハウスに辿り着き、僕らは一緒に階段を降りた。


「おー、遅かったな」

 タマと離れ楽屋に入ると、クボタがギターを弾いていた。

「コジー大丈夫?」

 ホシくんが駆け寄ってくる。お兄ちゃんも心配そうにこちらを見ている。

「ごめん、めちゃくちゃ遅れた。ちょっと色々あって、連れて来た」

 僕は楽屋の扉に視線をやった。

「そうか。まぁ詳しくはあとで聞くとして、もうライブ始まるぞ」

「大丈夫。今すげー気合い入ってるからさ」

 僕はそう言いながら腕を伸ばした。

「やっぱドラムがいないとダメだね。リハーサルとかまともにできないし」

 とベースを抱えるホシくんが言った。

「ごめんごめん。お兄ちゃんもすみませんでした」

「大丈夫大丈夫。無事間に合ってよかった」

 頭を下げる僕に、お兄ちゃんはやさしく答えてくれた。

「よっしゃー、じゃあやりますかあー」

 クボタが声を上げる。前のバンドはそろそろ終わりそうな雰囲気だった。

「よくわからんけど、とりあえず四人集まったっつーことで、いつも通り気合い入れていきましょうかー」

 僕らは全員顔を合わせた。

「あの頃はぁーーー!!」

「うぉぉーーーーい!!」

 
 強い光に照らされて、客席はあまり見えない。ただタマがこの場にいるということだけは、強く意識していた。

 僕はいつも通り、ドラムをぶっ壊す勢いで叩いた。幸せを手に入れたからって、手を抜くことはない。例えこのまま死んでしまっても後悔しないくらい、全力で全てを出し切る。むしろ今なら幸せなまま死ねる。そんなの最高じゃないかと思う。

 ライブが終盤に差し掛かった。

「あーあー、ちょっと喋ってもいいですか?」

 僕はマイクを握り立ち上がった。

「あのー、普段MCとかしないんですけど、ちょっと今日は喋りたいんで、喋ります」

 僕はマイクを持ったまま前の方に進んだ。他のメンバーは不思議そうにこちらを見ていたけど、僕はそうせずにはいられなかった。

「僕はあのー、一年半前くらいから好きな人がいたんですよ。あるライブハウスで対バンした子なんですけど、一目見て好きになってしまったんです。でもその子には彼氏がいて、大学生で、キラキラしていて、住む世界が違うと思って落ち込んで、その日は結局一言も話すことができませんでした。正直僕は、恋愛なんてしたくなかったんです。そんなことよりもバンドの方が大事だし、不器用だから簡単に人と付き合ったりできないし、失恋した時のダメージで死んでしまいそうになったこともあったんで、もうしないって決めてたんです」

 客席にいる数十人が、静かにこちらに顔を向けていた。

「でも僕らは、いつからか言葉を交わすようになって、毎日連絡を取り合うようになって、二人きりでデートまでしちゃって、奇跡のような出来事が起こって、まるで転がる石みたいに恋に落ちてしまって、好きで好きでたまらなくなって、なんだかもうどうしてようもなくて、忘れようとしてもまたライブハウスでばったり会っちゃって、苦しくて苦しくて苦しくて、バンドですごくなる為にはこのままじゃダメだと思って、僕は連絡を絶って心に蓋をしていました。……でもさっき、ふと思ったんですよ。なんで諦めなくちゃいけないんだろうって。めちゃくちゃ頑張れば、音楽やりながらでも上手く付き合えるんじゃないかって。覚悟を決めて、腹を括って、戦闘機に乗って突っ込むような想いで、命をかけて、本当に真剣に人生と向き合えば、もしかしたら可能なのかもしれないって、そう思ったんです」

 僕は一呼吸置いた。

「それで今日、リバーサルすっぽかして二人で会ってて、告白したんですよ。もう自分の気持ちに嘘つけないと思って、土下座するくらいの勢いで泣きながらお願いしました。そしたらなんと、オッケーしてくれたんです。その彼女が今この場所にいます」

 僕は暗いフロアの中に、タマの笑みを見つけた。

「死ぬほど頑張って、バンドですごくなります。彼女にはそれを側で見ててほしいです。今僕らは売れてないですけど、絶対に売れますんで、皆さんも見ててください。それで彼女も幸せにします。もう全て上手くやるって覚悟を決めました。今たまたま見てくれている方も、応援してくれると嬉しいです。……えー、以上です。今日はありがとうございました」

 僕がそう言い終えると、会場からは拍手が起こった。

「……じゃあ最後の曲やりますか?」

 隣にいるクボタに視線をやった。

「もうお前が歌っちゃえよ」

 客席から笑いが起きた。僕が後ろに戻り、ドラムの椅子に座ると、クボタがマイクに向かった。

「えー、そういうことらしいです。メンバーが一人幸せになりました。めでたいことです。音楽で成功することよりも、素晴らしいことなんじゃないかって僕は思います。音楽なんてたぶん、そんな大したものではありません。僕らはそれよりもすごい何かを、音楽を使って伝えたいだけなんだと思います」

 クボタはギターを手に取り、コードを弾き始めた。

「僕らCDを作りました。やさしい女の子のおかげですごい場所で録らせてもらいました。これを武器にどこまで行けるか試してみたいと思います。こんな俺らでも、何か起こせるんじゃないかって、少しだけ思っています」

 ギターの音だけが響く。

「僕はバカです。中学生の頃はイジメられてて、お尻の穴に友達のあそこをぶち込まれたこともあります。隣のベースはもっとバカです。高校生の頃、僕はこいつが好きだった女の子と付き合いました。それなのにこいつは、ずっと僕の横でベースを弾き続けています。こっちのギターはうちの兄貴です。一人で電車にも乗れないくせに、いい年こいて弟のバンドに入っちゃうようなバカです。後ろのドラムはライブで惚気ちゃうような奴です。ストイックさが空回りして、メンバーを殴っちゃうようなバカです」

 クボタの声は段々と大きくなっていった。

「でも、このままじゃ終われないんです。バカはバカなりに、ここまでやってきたんです。バカはバカなりに、生き恥さらしてでもやるしかないんです。最後の曲です。CDにも入ってます。この曲が誰かの胸を少しでも動かせたら、僕らの勝ちです。売れるかどうかなんてわかりません。バンドなんていつ終わるかわかりません。ただ、今この瞬間を見てくれている人達に、何かを届けることができたら、それは音を鳴らした意味があったということです」

 ギターを最後にゆっくりと弾き、そのまま音が消えいった。

「では、聴いてください。永遠に忘れられない人へ。永久的リメンバー娘」

 ライブが終わり、タマを駅まで送ることになった。僕はバーカウンターでビールを二つ買い、一つを彼女に渡した。

「はぁー、カッコよかったです。やっぱり」

 賑わう通りの中で、彼女は呟くように言った。

「そう? それならよかったけど」

 僕らは自然と手を繋いだ。僕らは少し無言で歩き、ビールを口にしていた。

「軟弱金魚のドラマーの彼女かあ……、なんか緊張するなあ」

 彼女は虚空を見つめながら言った。

「そんなことないでしょ。別に売れてるわけじゃないしさ」

「それは関係ないんです。うちにとっては大きなことなんです。初めて見た時からファンなんですから」

 彼女はこちらを少し睨むように見つめた。

「それを言うなら俺もそうだよ。初めて厚木でライブ見た時から」

「じゃあ、お互い一目惚れみたいなもんですね」

「俺はそうだけどね」

「うちも都立大であなたが隣に座った時から、ずっと気になってました」

 彼女が強く手を握ってきたので、僕も同じように握り返した。

「ふーん、そっかあ」

「ふふ、そうですよ?」

 タマは手を繋いだまま、反対の手で腕を組み、小さくスキップするように歩いた。

「楽しいですね。話してるだけなのに」

「うん。なんでだろうね」

 改札前に辿り着き、僕らは手を繋いだまま向かい合った。

「今日はありがとう。ここまでしか送れなくてごめん」

「大丈夫です。ありがとうございました」

 彼女の顔を見ていたら涙が出そうになった。僕は思わず彼女を抱き寄せた。

「選んでくれてありがとう。本当に嬉しいよ」

 涙を必死に堪えた。

「うちも嬉しいです。幸せです」

「もっと幸せにしてあげたい」

 僕は強く彼女を抱きしめた。

「ふふ、大丈夫ですよ。勝手に幸せになりますから。うちが幸せにしてあげます」

 僕らは人目も憚らず、そのままキスをした。彼女の目は赤く潤んでいるように見えた。

「じゃあまた。連絡するよ」

 彼女から離れながら、僕は言った。

「はい。待ってます」

 彼女はそう言うと、姿勢よく歩き改札を抜けた。いつも振り返ることなく消えてしまっていた彼女が、初めてこちらを振り返り、嬉しそうに大きく手を振った。僕はそれがアホみたいに嬉しくて、バカみたいに両手で振り返した。
 
 彼女が見えなくなり、身体に熱が帯びているのを感じた。本当にここからだ。こっからが勝負なんだ。バンドでどこまでもすごくなって、タマと二人で幸せになる。絶対に上手くやる。腹は括った。覚悟も決めた。


 ライブハウスに戻りながら、涙が頬を次々と伝っていった。嬉しくて泣いたのは、生まれて初めてのことだった。今ならなんでもできる気がした。空だって飛べるはずだ。
 
 身体が熱くて堪らない。
 僕はもうタマに会いたくなっていた。


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