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自伝的小説 『バンザイ』 第六章 深夜高速


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 大学の屋上にいる。理由はこうだ。


 僕とタマは度々会う機会に恵まれた。場所はいつもライブハウスだった。定期的に開かれる轟音祭で対バンしたり、ライブを観に来てくれたり、観に行ったり。不思議と僕らは、どこかのタイミングで二人きりになった。そしてお互いにいつも酔っぱらっていた。恥ずかしくてシラフではまともに話せなかった。

 酒の力を借りれば、ドラマチックなセリフだって平気で言えてしまう。タマと一緒にいる時は現実感が薄れて、ほとんど周りが見えなくなった。全てがどうでもいいように思えた。彼女に彼氏がいるなんてことも、見て見ぬふりをしていた。


 その日も僕らはライブハウスでにいた。場所はいつもの蒲田トップス。酔っぱらっていてあんまり覚えていないけれど、やっぱり最後は二人きりになった。気付いたら朝になっていて、気付いたら僕は互い違いの靴を履いていた。酔いが覚め、周りが明るいことに気付き、目の前にはタマがいて、僕は急に恥ずかしくなった。

「すっかり朝になっちゃいましたね。どうしましょっか?」

 朝日が眩し過ぎて、彼女の顔を見ることができない。一刻も早くアルコールが必要だった。

「酒が抜けてきたから買いに行きたいな。奢るよ」

「いぇーい、さすがです。あ、でもうち、これから学校なんですよね。あんまり時間ないかも」

「そっか、じゃあ一人で飲むよ」

 僕らはコンビニに入り、発泡酒を手にした。一応と思いタマの顔を確認すると、コクンと頷いたので二本目を取り出した。

「大学ってどんなところなの? 俺高卒だから一回も行ったことないんだよね」

 コンビニから駅まで歩いて向かう。

「楽しいですよ。うちはサークル入ってないし、ウェーイって感じじゃないですけど、単純に勉強が楽しいです。自分が興味あることを教えてもらうのは、なんだろう、有意義な時間って気がします」 

「へぇー、みんなそんな感じなの?」

「全然。みんな勉強なんて興味ないですよ。モラトリアムを楽しんでるだけだと思います。勉強したくねー働きたくねーいつまでも遊んでいてーって。そういう人たちがたくさんいるところです、大学って」

「あなたは違うの?」

「うちは勉強する為に大学通ってますから」

 彼女はあっけらかんとそう言った。何も考えていなさそうに見えて、実は誰よりも真面目に生きている。彼女のそんなところに惹かれているのかもしれない。

「どんな所なのか見てみたいなあ」

 僕は発泡酒を一口飲み、呟いた。

「一緒に行きます? これから」

 彼女も同じように飲んだ。

「え、行って大丈夫なの? 部外者なのに」

「図書館とか一般の人も入れますし、大丈夫ですよ」

 彼女は楽しそうに歩きながら言った。

「とりあえず荷物取りに戻らなくちゃ」

 一度彼女の家に寄ることになった。ここから電車で一時間弱、更に歩いて十数分の場所にあるらしい。ちょっとした小旅行のようなボリュームだ。まずは蒲田のから横浜駅へ向かう。
 まだ始発から数本後の電車だったので、人は少なく余裕で座ることができた。発泡酒の缶を右手に持ち、左にはタマがいる。徹夜明けの僕らは眠気と疲労の中、朝日が頬を差す暖房の効いた車内で、ウトウトし始めた。

 僕はほんの少しタマに近づいた。向こうもそれに応えるように距離を詰め、僕らは寄り添う形になった。心拍数が上がる。やはりいつものように現実感はなかった。タマはどういう気持ちでここにいるのだろう。そんなことを考えながら、彼女の温もりと匂いを感じ、そのまま眠ってしまった。

 目が覚めた時には横浜に着いていた。僕らは寝ぼけ眼で改札を出て、階段を上り下りし、別の路線の電車を待った。

「すっかり寝ちゃいましたね」

「あの暖かさは反則でしょ」

 電車の扉が開き乗り込む。さっきの線よりも更にガラガラで、ほぼ貸切状態だった。

「全然人いないですね」

「うん、たしかに」

 眠り足りなかった僕らは、近くの席に座り、再び先程と同じような形になった。家の近くまで来てしまったら、彼女の知り合いにでもバレるんじゃないかと、僕は少しソワソワしていた。しかし横にいるタマは、全くそんなことは頭にない様子で、目を閉じてスヤスヤとしている。まるで子供のような寝顔。赤子にすら見えなくもない。
 
 そのまま電車揺られること二十分。ようやく最寄駅に着いた。辺りはのどかで、そんなに田舎というわけでもない、落ち着いた街。彼女の家へと歩を進めた。

「ここから十分くらいなんで、もう少し頑張ってください。家着いたら、ちょっと休憩しましょ?」

「まじで? いやー、上がるのはさすがに気まずいなあ」

「大丈夫ですよ。外で待ってもらうのも悪いし、少しの時間だけですから」

「うーん……」

 彼女に目をやると大きな鞄を肩に掛け、ペースを背負っていた。

「持ってあげるよ、もっくん」

「え? あー、大丈夫ですよ」

 僕はトップスに機材を置いてきてしまった為、手が空いていた。

「周りから見たらいじめてるみたいだし、ほら、貸してみ」

 半ば強引にベースを奪い取り、背中に担いだ。

「ごめんなさい。重たいでしょう?」

 申し訳なさそうに彼女は言った。

「いや、ベースにしては軽い方じゃない? ライブしやすそうでいいね」

 普通のベースに比べて、半分くらいの重さに感じた。

「ふふ、そこも気に入ってるんですよ。もっくん、いいでしょ?」

「うん。あとで弾かせてよ」

「ベースも弾けるんですか?」

「まぁ少しね。高校の時、ドラムに飽きてベースでコピーバンドとかやってたよ」

 僕は少しだけ自慢気に答えてみた。

「何でもできるんですね。羨ましいなあ」

「器用貧乏って感じだよ。別に何も成し遂げてないし。でもドラムくらいは極めてみたいかなー、もっとカッコよく叩けるように」

「今でも十分カッコいいですけどね。うち、今日もライブ見てる時、泣いちゃいましたもん」

「そうなの?」

「ええ。カッコいいし泣けるし悔しいし、敵いっこないですよ。最後の曲とか、うち以外も泣いてる人いましたよ?」

 後半に激しくなるバラード。この曲が出来てから、必ずライブの最後にやっている、今の僕らの一番メインのような曲。

「へぇー、すごいじゃんうちら」

「すごいですよ? だからもっと自信持ってください」

「そうなのかあ……」

 ライブ中は誰よりもカッコいいことをやっている自信はある。しかし一旦ステージを降りると、そんなものはどこかへと消えてしまう。僕は彼女の言葉を不思議な気持ちで聞いていた。しかし、誰に褒められるよりも嬉しかった。

 住宅街を抜け大通りを渡り、更に細い道を進んでいく。

「あれです。あそこがうちの家です」

 一階にワゴン車が停まっている、ごく普通の一軒家。二階建てでベランダが付いていて、どこにでもあるような見た目だった。

「行きましょう。二階がうちの部屋なんで、そこで待っててください」

「あ、はい」

 彼女は勢いよく玄関の扉を開けた。鍵は掛かっていないようだった。

「ただいまー」

 そう言いながら靴を脱ぎ、横の階段をトントンと上り、チョイチョイとこちらに手招きをした。彼女に着いていくと、その先に幾つかの扉があり、一番近いドアノブに手を掛けた。

「ここがうちの部屋です」

 部屋に入ると、辺り一面に色んなものが貼られていた。有名な海外のバンクバンドや日本のロックバンドのポスター、雑誌の切り抜きにフライヤー、ノートの切れ端、レコード、ポストカード。他にもたくさんの物が飾られていた。

「すごい部屋だね」

「そうですか? ちょっと下で準備してくるんで、待っててください」

 そう言うと彼女は部屋を後にし、一階へと降りていったようだった。僕はポツネンと一人取り残された。
 改めて部屋を見てみると、あまり大きな部屋ではなく、勉強机とベットが部屋を占領している。その隙間に所狭しと並ぶ漫画、コンポ、CD、鏡、ノート、ギター。半分開けられたクローゼットの中には、大量の服と文庫本の山が見える。一見ごちゃごちゃと散乱しているようで、よく見てみると全てが絶妙なバランスで配置されている、彼女らしい素敵な空間だった。僕の部屋とは似ているようで何かが違う、人に見せる為に作られたような部屋。たぶん彼女はそんな気ないのだろうけど、そんなセンスを羨ましく思った。

 キョロキョロと辺りを眺めていると、突然扉が開いた。

「ふー、疲れたあ。なんとか準備終わりました」

 彼女はベットにドサッと腰を下ろした。

「……疲れてるでしょう? 座ってくださいよ」

 遠慮をして突っ立ったままだった僕は、勉強机の椅子に腰を掛けた。

「授業までまだちょっと時間あるんですよね」

 彼女は伸びをしながらそう言った。

「そうなんだ。何の授業があるの?」

「今日は経済学と古文と哲学とか、そのあたりです」

「へぇー、頭良さそうなの勉強してるね」

「楽しいですよ。全部」

「ふーん」

 僕は漫画の本棚を眺めながら言った。

「なんで今の大学に入ったの?」

「うーん、近いっていうのもあるんですけど、先生が通ってたとこなんですよ。うちの大学」

「先生? あー、ヒデさんのことか」

「あの人、大学行き出したの遅かったんですよ。そのせいでうちが中三の時、塾の先生やってて、そこで出会ったんですよね」

「へぇー、そうなんだ。どんな先生だったの?」

「全然普通でしたよ。今の彼からは想像し難いですけど、勉強は真面目に教えてくれてました」

 彼女は天井に貼ってあるポスターを眺めながら言った。

「でもある時、音楽何聴いてんの? って聞かれて、うちが答えたら、そんなんじゃダメだって、CD貸してくれたんですよね」

「へぇ、ヒデさんらしいな」

 僕は思わず笑った。

「ふふ、そうでしょう? それでそのCD聴いて、これはすごいってなって、他にも色々貸してくれたりして、かなり影響されました。で、高校受かってバンド始めてしばらく経った時に、たまたまライブハウスに遊びに行ったんですよ。そしたらそこで、ばったり再会しちゃって」
 
「連絡は取ってなかったの?」

「はい。生徒と先生って、そういうの禁止されてるんですよ。だから本当に偶然で。それで、お前バンド始めたのかー、じゃあ対バンしようぜー、俺も今やってんだよー、ってな感じで轟音祭に呼ばれたんです」

「はー、おもしろい流れだね」

「で、そこから先生と頻繁に会うようになって、一緒にコピーバンドしたり飲みに行ったり何人かで遠出したり、こうして今は先生と同じ大学通ってるんで、彼に人生狂わされちゃってますね」

 彼女はため息混じりそう言った。

「そっかあ、だからあなたとヒデさんって似てるんだね」

「そうですか? あんまりっていうか、全然嬉しくないですけど……」

 彼女はこちらをじっと睨んだ。

「そう? でもいいじゃん、二人ともおもしろいよ。それに轟音祭がなかったら、うちらも出会えてなかったしさ」

「うちは一方的には知ってたんですよ? ただのファンでしたから。でもまぁそうですね、こうやって対バンとかしてるのは先生のおかげですね」

 彼女から出てくる言葉は、やっぱりどれも僕の興味を引くものばかりだった。見た目も話も部屋も全てそう。そんな彼女と二人きりで部屋にいるなんて、冷静に考えるとありえないことだ。

「こっち来ます? 眠いですよね?」

 彼女はベッドをポンポンと叩いた。

「え? いやいや、大丈夫だよ全然」

 突然の言葉にわかりやすく動揺してしまった。

「そうですか?」

 不思議そうにこちらを見る彼女。そういえばさっきの電車では、当たり前のようにくっ付いていた。あれじゃ側から見たら恋人同士だ。完全に酔いに任せた行動だった。よく考えたら今はほぼシラフになってしまっている。やばい、まずい。

「そろそろ出なくていいのー?」

 部屋の外から、彼女の母親らしき人の大きな声がした。

「はーい、もう行くよー」

 彼女も大きな声で答えた。

「行きましょっか」

 そう言うと、彼女は鞄とギターを持ち、部屋の扉を開けた。一階へと下り、玄関で靴を履いていると、彼女の母親らしき人が奥からこちらを覗く顔が見えたので、お邪魔しました、と頭を下げその場を後にした。

「自転車で行きましょう」

 彼女は青い自転車のスタンドを外した。

「後ろ乗ってください」

「え? 前じゃなくていいの?」

「大丈夫ですよ。ほら、乗って。ギターだけ持ってください」

 僕は言われるがままに後ろに乗り、ギターを背負った。

「行きますよぉー」

 彼女は楽しそうにそう言うと、立ち漕ぎで自転車を走らせた。

「肩、掴まってください」

「え、あっ、はい」

 僕は彼女の肩に掴まった。
 なんだこれは? まるで高校生のカップルだ。客観的に見ると不自然で仕方がない。僕は彼女にペースを握られたまま、なす術がなかった。

 風を切り、自転車に揺られ、通行人の視線に負けそうになりながら、さっき来た道を逆戻りした。しばらくすると最寄駅に到着し、駐輪場に自転車を停めた。

「さー、また電車に乗りますよ」

「大学の駅まではどれくらい?」

「四十分くらいですかね」

「なかなかっすね」

「寝ちゃっていいですよ?」

「うん、そうする」

 僕らはさっきの電車に乗り、横浜へと向かった。人は増えていたが、なんとか座ることができた。更に乗り換え鶴見へ向かう。流石に次は座れなかったので、僕らは立ったままウトウトしていた。


「ほとんど寝てましたね」

「うん。でも昨日から寝てないし、丁度いいんじゃない」

 僕らは再び眠い目を擦った。

 駅の長い階段を下り、目の前の通りを歩いていく。少し進むとスーパーが目に入った。

「ちょっと寄りますか」

 とタマが言った。

 買うものはやはり酒だった。完全にアルコールが抜けてしまっていたので、有り難かった。こんな朝っぱらから二人きりで、シラフで歩いていられない。缶酎ハイを片手に僕らは歩いた。

 数分歩くと、大きな入り口らしき場所が見えてきた。その先は坂道になっていて、目的の校舎はまだ見えなかった。

「なんかあんまり学校っぽくないね」

「そうですね。隣には神社があるし、中には病院もあるので、普通の大学の感じとはちょっと違うかもしれないですね」

「そうなんだ。って言っても俺、大学に来るの初めてなんだけどさ」

「そうなんですか?」

「うん。俺高卒だし、大学生とも付き合ったことないし」

「じゃあうちが初めてですね」

 どういう意味だ? と思ったけれど、酔っぱらって聞こえなかったことにした。
 しばらく坂道を進むと階段があり、それを上っていくと校舎が見えてきた。

「へぇー、こんな感じなんだ」

「どうします? もうすぐ授業始まるんですけど、食堂で待っててもいいし、図書館もありますよ」

「うーん、どうしようかなあ」

 僕は酎ハイを飲みながら答えた。

「それとも一緒に授業出ます?」

「え? そんなことできるの?」

 僕は驚いて質問した。

「大丈夫じゃないですかね? 次の授業は人数も多いし、そんなにうるさい先生じゃないんで」

「じゃあ、出る」

「本当ですか? わーい」

 タマは嬉しそうだった。アルコールが入った僕らは陽気になっていた。少しくらいいけないことをしても、この子が近くにいてくれればなんでもいいやと思った。

 多数の学生が往来する校舎に入り、三階まで階段を上る。昔嗅いだことのあるような、懐かしい匂いがした。

「友達いるかもしれないなー、恥ずかしいなあ」

「じゃあ図書館で小説でも読んで待ってるよ」

「ダメです。行きましょう」

 腕を掴まれた。酔いが回っている。よくわからない。タマが教室の扉を開けると、中には四十人程の生徒がいた。やばい、予想以上に静まり返った空気だ。

「入ってください。後ろの方」

 タマが小声で話す。

「めちゃくちゃ入り辛いんすけど」

 合わせて僕も小声になる。

「いいから、大丈夫だから」

 とタメ口で僕の手を引く。

 中に入り、後ろの方に進む。ちょうど良さそうな所が空いていたので、タマに目配せをし、そこに座った。彼女は友達らしき人に小さくてを振っていた。

「友達? やっぱ俺、帰ろうかな」

「平気です。寝ててもいいですから」

「先生にバレないのかな?」

「どうせ生徒の顔なんて覚えてないですよ」

 その時、前方の扉がガラガラと開いた。年老いた男性がゆっくり教壇に立つと、小さなマイクに向かって軽く挨拶をした。そしてそのまま授業が始まった。何の授業かはよくわからなかったけど、社会と国語と数学が混ざったようなものだと思った。

 知らない場所で初めての体験。なんだか緊張と期待が入り混じり興奮していたが、十分もしないうちに見事に飽きてしまい、話が全く耳に入ってこなくなった。そういえば忘れていた。僕は勉強ができないんだった。

 興味を持って自ら進んで学ぶなら別だが、そうでないことを人からいくら丁寧に教えられても、右の耳から左の耳だった。つまらない勉強をできる人はすごい。心の底から尊敬する。勉強以外の楽しい誘惑がたくさんあるというのに。

 僕はタマから紙とペンをもらい、落書きを始めた。何も考えずに手を動かすと、小学生の頃に描いていた漫画のキャラクターが現れた。大人になってもやることは変わらない。
 周りの生徒達はとても真面目に授業を聞いているように見えた。自分がこの集団の中の一人でしかないと思うと、なんだか無性にソワソワした。

「退屈ですか?」

 息を吐くような小声でタマが言った。

「ちょっとね」

 僕もそれに合わせて返す。

「上手ですね」

 僕の落書きを見てニコッと笑った。

「昔から落書きばっかしてたから」

「いいなあ、絵が描ける人は」

 そう呟きながらノートにメモを取る彼女を、じっと見つめてみた。やはり子供のような横顔。大学生といってもまだ十代の少女だ。僕は机に突っ伏した形になり、しばらくボーッと眺め続けた。彼女はとても真剣な顔で授業を受けていた。そんな表情を前に、段々と瞼が重たくなっていくのを感じていた。


 肩をトントンと叩かれ目を覚ますと、タマの笑顔があった。授業が終わったらしい。周りの生徒たちがゾロゾロと教室を後にしている。

「次の授業まで少し時間あるんですけど、時間大丈夫ですか?」

「うーん……、大丈夫っす」

 僕は半分夢の中で答えた。

「じゃあ、ちょっと行きましょ」

 彼女の後を着いていき、一緒に教室を出た。すぐそばの階段をぐるりと上る。すると突き当たりに大きな扉が現れた。

「うち、よくここに来るんです」

 タマが、うーんと唸りながらドアを押し開けると、そこには緑色の広い屋上があった。

「ほとんど人いないんですよね。こんないい所なのに」

 確かに人影は無かった。風が気持ちが良く、周り地形が一望できる静かな場所。

 奥まで進むと、大きなオブジェのような椅子があり、タマがそこに腰を下ろしたので、僕もそれに続いた。酔いはまたほとんど覚めていたけど、疲れと眠気でフラフラとしいて、大して変わりはなかった。

 僕らは近い距離で座った。何か会話の糸口を探そうとしたけれど、これといって見つからなかったので、そのままにしておいた。会話がなくてもなんとなくいいような気がした。

 タマは持ってきていたギターをケースから取り出し、弾きながら何かを歌い始めた。

「なんの曲?」

 と僕は訊いた。

「うちのお気に入りです。お父さんが家でよくギター弾いて歌ってるんですよ」

 彼女はギターを弾きながら答えた。

「へー、お父さんも音楽やるんだ?」

「家で毎日お酒飲みながら歌ってます。ちょくちょくライブもやってるらしいですけど、うちは観たことないですね。でもお父さんが歌ってる曲、結構好きなんです」

 そう答えると、彼女は再び歌い始めた。

 僕は歌声に耳を傾けながら、彼女と背中合わせになるように座り直し、ゆっくりと目を閉じた。これを独り占めできるなんて、なんて贅沢なんだろう。暖かい日差しが屋上を照らしている。僕は彼女の背中に耳をつけて、ウトウトしながら伝わってくる音を聴いていた。

 この空間は一体なんなんだろう。こんなことしてる場合じゃないのかもしれない。今はガムシャラに頑張らなきゃいけないのかもしれない。

 だけど今日だけは、今この瞬間だけは許してほしい。幸せなんていらない。もう誰とも一緒になんてなりたくない。でも、自分でもよくわからない力が働いて、こうなってしまった。今だけは何も考えずここにいたい。この声をずっと聴いていたい。そんなことを考えながらながら、タマの背中に身体を預け、微睡の中に落ちていった。

 こうして僕らは、大学の屋上にいた。
 二人の間を邪魔する者は、誰もいなかった。

 
 
 僕はいつまで生きるのだろうか。そんなことをよく考える。いつまでもダラダラと生きていたくはない。幸せや安定はいらないし、普通の生活も必要ない。いつかは必ず死んでしまう。しかし、そんなこと考えながら生活してる人なんて、本当にいるのだろうか。

 みんな余裕をもって生きていて、必死になんかなろうとしない。女の為とか金の為とか家族の為とか、そんなんばっかりだ。そんなに誰かの奴隷になりたいのか。自分のやりたいことをやって、理想を追わないのか。ヨボヨボのジジイになってまで生き長らえたいのか。僕の頭がおかしいのか、世の中すべてがおかしいのか、まるでわからなかった。

 そんなことを毎日のように考える中で、タマと出会ってしまった。まるで小説の中から飛び出してきたかのような女の子。彼女の側にいると現実感が無くなる。他にはこんな人は見たことがない。彼女の魅力が僕にしかわからないものだったらいいのにと、何度思ったことだろう。

 バンドなんかやってなくていい。可愛くなくてもいい。若くなくてもいいし、障害を持っていてもいい。歩くことができない方がよかったかもしれない。誰かの支え無しでは生きられない身体だったら、誰にも見つからずに済んだのだろうか。
 自由に羽ばたく鳥のような君が好きだ。初めてタマを見た時、僕はそんなことを思った。しかし、少しずつ心は変化していった。毎日鏡を見ていたら、老いていることに気付かないのと同じように、少しずつ少しずつ、まるで呪いのように、僕は変わっていってしまったのかもしれない。

 ライブはいつだって命懸けでやる。客席がガラガラであろうと、対バンがデビューしていようと、そのくせ演奏が微妙であっても、なんの手応えも無かったとしても、命を削ってライブをする。そして演奏が終われば酒を飲み、全てを忘れてしまう。これに何の意味があるのだろう、と最近はよく考える。いつまでも進まない僕らの船。行き先はどこなのか、どうすれば早く進めるのか、このままここを彷徨い続けるのか。

 ステージの上にいる三十分間だけは、唯一変わらない素晴らしさがある。けれど、そんなものはすぐに終わる。キラキラした世界は、ただの錯覚だったことに気付かされる。全て投げ出したいなんて思っても、そんな勇気も無く、無性に虚しくなる。

 タマに会いたかった。
 僕はアルコールで麻痺した頭で、彼女に連絡をした。  


 電車で横浜に向かった。彼女は駅の側でバイトをしている。彼女に会って確かめたかった。何をかはわからない。でも、彼女の顔を見たら何かわかるんじゃないかと、そんな風に思っていた。

 夜遅くにも関わらずたくさんの人がいる。横浜という街はそんなに馴染みがない。ドラムの機材をガラガラと引いて歩いていくと、待ち合わせの場所にタマはいた。僕に気付いた彼女は、恥ずかしそうに怒っているような、そんな表情をしていた。

「どうしたんですか急に? びっくりしちゃいました」

 眉間に小さな皺を寄せて、彼女は言った。

「いや、なんか酔っぱらって、会いたくなっちゃって……」

 かなり酔いが回っていた。地面がぐわんぐわんと揺れている。

「もー、そんなに遅くまではいれませんよ?」

「大丈夫大丈夫。とりあえずどっか店でも入ろうか」

 僕らは並んで歩いた。歌を歌ったり、肩を組んだりして、二人で笑い合っていた。

「かなり酔ってますね。お酒の匂いがします。それに、すごい汗かいたでしょう?」

「うん。ライブ終わって汗だくでそのまま来たから。俺、着替えとか持っていかないだよね。タオルも持たないし、なんかなるべく手ぶらに近い恰好でいたいっていうか」

「あなたらしいですね。うちはステージでは衣装みたいの着るから、すごく大荷物になっちゃうんですよ」

「いつもでっかいカバン持ってるよね」

「あれがないとダメなんです。あそこに色々詰め込んで、ちょっとした旅行みたいな気分でライブハウスに向かうんです、いつも」

 話しているうちに、居酒屋が立ち並ぶエリアに着いた。

「どうします? 行きたいお店とかありますか?」

「どこでもいいっすよ」

 一番最初に目に付いた所に入った。雑居ビルの三階にある大衆居酒屋。
 エレベーターに乗り込むと、僕らの距離は思いの外近かった。アルコールのせいで恥ずかしさは全く感じなかった。

 店に入るとすぐに席に通された。店内はなかなか賑わっているが、個室のようなスペースに案内されたので、周りの目は気にならなかった。荷物を置き、向かい合って腰を下ろした。

「今日はどこでライブだったんですか?」

 彼女はメニューを手に取り、僕に質問した。

「中華街の近くだよ。だから連絡したんだ」

 と僕は答え、二人で同じメニューをパラパラと眺めた。

「へー、打ち上げとかはなかったんですか?」

「なかったと思うよ、たぶん」

「もう。うち、クボタさん達に恨まれてないかなあ」

 どうか恨まれませんように、と祈るような表情で彼女は呟いた。

「大丈夫大丈夫。あなたに会うなんて誰にも言ってないし、言えないし」

「うーん、それもそうですね」

 タマは少し困ったように笑っていた。

 しばらく他愛もない話をした。彼女に訊きたいことや聞いてほしいことがたくさんあった。それなのに言葉にするのは難しい。酔っぱらっているせいなのか、彼氏がいるタマに気を使っているからなのか。なんだかとてももどかしく、苦しく、歯痒かった。
 彼女の全てが知りたかった。昔からの知り合いだったら、それが可能だったのだろうか。その時から付き合っていれば、ずっと独り占めできたのだうか。そんなことばかり考えていた。

「昔の彼氏の話、聞かせてよ」

 酔いに任せて僕は言った。

「えー、何が聞きたいですか?」

 少し顔を赤らめた彼女が答える。

「今まで何人と付き合ったの?」

「付き合ったのは、三人ですね」

 僕と同じ数字を聞き、ほんの少し安堵した。

「へぇー、初めては何才の時?」

「中学の二年生です。ほら、前に話した転校生ですよ」

「あー、御茶ノ水で話してくれたやつだ。どうだったの?」

「あの時は……、辛かったですね。恋愛ってこんなに苦しいものなのかって。こんなことをみんな平気な顔してやってるのかと思ったら、なんか、怖くなっちゃいました」

「うんうん、わかる気がする」

「お互い同じタイミングで好きになって、うちはすごく安心したんですよ。片思いから解放されて、よかったーって。それでハッピーエンドだと思ったんです」

「そうはならなかったの?」

「はい。むしろ全く逆というか……。付き合いだしてから、彼は変わっちゃったんですよね。うちを束縛し始めたんです。他の男と喋るなーとか、携帯に入ってる男の番号全部消せーとか。最初の方は我慢できたんですよ。うちも人と付き合うの初めてだったんで、こんなもんなのかなってぼんやり思ってたんです。でも、そのうちどんどんエスカレートしていって、門限にも帰らせてくれなくなったり、突然怒ったり泣き出したりするようになって、うちもどうしたらいいかわからなくなっちゃったんです。なんとか耐えなきゃと思って頑張ってたんですけど、ある日プツンと糸が切れたみたいに、もう無理だって思って」

 僕は相槌も忘れて、彼女の話に引き込まれていた。

「ごめんもう別れようって告げたら、彼はおかしくなっちゃいました。よくわからないことを叫んで、壁をガンガン殴って、手が血まみれになって、うちはもう止める気力すらなくて、ぼーっとそれを眺めてました。彼の親が来て、うちの親も呼ばれて、話し合って、しばらく学校を休みました。……それから、落ち着いた後に登校したんですけど、もう彼とは目を合わすことも口を利くこともなかったです。またいつもの日常に戻って、普通に過ごして、別の人となんとなく付き合ったりして、だんだん薄れていって、高校に入ってから今の人と付き合って……、それで合計三人です。未だに最初の彼のことをたまに思い出して、辛かったなあって思います。今何してるのかも全くわからないんで、少し心配ですけどね」

「……そうなんだ。なんか羨ましいな、その人」

「最初の人?」

「うん。あなたの初めてを味わえていいなーと思うよ。俺だったらそのままずっと付き合うように、頑張ったと思う」

「彼も頑張ったと思いますよ? でも無理でした。お互い子供だったし、限界でした」

 少し悲しそうな顔でタマは言った。

「そっかあ。でも、そんな風になるほど好きになるって、すごいな」

「うちもおかしくなるくらい好きだったんですよ。初めての恋愛だったし、一目惚れのようなものだったし、平常心でい続けるのに必死でした。……でも、ある時うち、初体験のこと話してみたんですよ。こういう人どう思う? って他人事みたいに。そしたら彼、『汚い』って言ってて。そんな汚れた子は嫌だ、って。うちはそれを聞いて、そっか、そういう風に感じちゃうなら、ずっと一緒にはいられないかもなあ、って思ってたんです」

「……へぇ」
 
 平然とそんなことを口にする彼女を前に、僕は言葉を失ってしまった。

 突然降りかかる理不尽に抵抗する術もない。そんな現実を受け入れるにはどうしたらいい? 大切な人に存在を否定されたらどう生きていけばいい? 好きでレイプされる人間なんてどこにいる? まだ何もわからない子供に、そんなこと受け止め切れるわけがないだろう?

 心が一瞬で暗闇に覆われ、無性に苦しくなり、両目から涙が溢れて出てきた。

「……泣いてるんですか?」

 彼女は小さな声で言った。

「いや、ごめん。なんか……、悲しくなった」

 僕は声を絞り出すように言った。

 それを見たタマは、ゆっくりと立ち上がり、隣にやってきて腰を下ろした。僕の頭を撫でながら、笑みを浮かべ、口を開いた。

「泣かないで? ふふ、コジさんって優しいですね。大丈夫ですよ。うちは初めてがそんなだから、身体にしか価値がないんだって思ってます。初恋の人に汚いって言われても仕方ないんです。だからうちはこんな生き方しかできないんですよ。何人かにこの話しましたけど、こんな風に泣いてくれた人は初めてです。嬉しいですよ、とっても」

 僕は涙を止めることができなかった。色んな感情が溢れてどうしようもなかった。しばらく泣き続け、タマはその間、ずっと頭を撫でていてくれた。

 ふと気が付くと、彼女の顔がすぐ近くにあった。僕らは見つめ合い、そのままどちらからともなく近付き、キスをした。あまりにも自然だったので、まるで恋人同士のそれのようだった。

「あーあ」

 タマが呆れたような顔をして言った。

「しょうがないですね」

 少し笑って、またキスをした。

 自分の意志とは関係なく、物語は進んでいく。どうしたって抗えないこともある。僕はやらなければいけないことがあって、こんなことしてる場合じゃないんだってわかっている。だけどこうなってしまったなら、もう仕方がないと思う他ない。運命だって割り切るしかない。

 心には穴のようなものが空いていて、それを埋めるように生きていくしかないのだろうか。僕には何ができるのだろう。最初の人にもなれず、今の人にもなれず、この瞬間だけは独り占めをしている。君のせいなのか、僕のせいなのかわからない。神様のせいってことにして、全てを投げ出してしまおうか。

 僕らはその後ホテルに入り、キスの続きをした。そうするしかないように思えて、迷うことはなかった(ただ最後まではしなかった。それはなんだか間違ってるような気がした)。
 我を忘れて朝までキスをし続け、少しだけ眠りにつき、目が覚めた頃にはお互いの予定は狂いまくっていた。彼女は色んな人に連絡をし、僕は急いでスタジオに向かった。
 別れ際に彼女はこう言った。

「うちが浮気するなんて、信じられないです。ずっと一途だったのになあ」

 僕は何も言い返すことができなかった。それは嬉しいことでもあり、悲しいことでもあった。無理やり奪うなんていう選択肢は頭に無かった。

 横浜駅で別れ、また当たり前の現実が始まった。僕はどこに向かっているのだろう。自分ではもうわからなかった。このまま身を委ねていたら、壊れていくのかもしれない。そんなのは嫌だったけど、抗える気もしない。
 僕はスタジオに一時間遅刻した。背徳感が身体に纏わりつき、練習中もどこか上の空だった。音楽だけは裏切りたくない。辛うじてそんなことを思った。
 

 数日後。
 タマが初めて家に来た。僕らはロクに会話もせずに手を取り合い、この前の続きを再開した。それ以外は何もしていないと言ってもいい。現実がどんどん朧げになっていく。今が幸せならそれでいいだなんて、誰がそんなことが言えるだろう。確実に何かが壊れ始めているのがわかる。止めることができないのもわかる。言葉は交わす必要がなかった。まるで深く会話をしていくかのように、僕らは舌を絡ませ、唇を重ね続けた。

 気が付くと少し眠ってしまっていた。僕は真っ暗な部屋の天井を見つめ、ここ数日のことを思い返してみた。隣には彼女の寝顔があり、触ってみると頬が少し冷たくなっていた。

 しばらくして彼女の母親から連絡があった。親戚の家に行くから帰って来いとのことだった。この年齢で親からそんな連絡があることが、僕は不思議で仕方がなかった。

「結構厳しいんだね」

「そうですか? 普通ですよ。女子大生ですもん」

 駅までの道を並んで歩いた。罪悪感と気怠さのせいでうまく進めなかった。

「うち、コジさんとは付き合えないなあ」

 彼女は空を見上げながら呟いた。

「……なんで?」

 僕は恐る恐る聞いてみた。

「だって、しっかりした人じゃないと、未来が見えないですもん」

 彼女ははっきりとそう言った。

「……今の人はしっかりしてるの?」

「ええ、とっても」

 彼女の親が車で迎えに来たようで、僕は遠くからそれを見守っていた。彼女を乗せたそれはすぐに見えなくなってしまった。

 猛烈にタバコが吸いたくなり、久しぶりに自販機でタバコを買った。しかしライターがないと吸えないことを忘れており、買うのもめんどくさかったので、そのまま咥えて歩いた。色々思い出して、少しだけ泣いて、家に着いてからようやくタバコに火をつけた。

 どんどん現実が手の届かないものになっていく気がした。一番求めているものは、音楽と君だった。どっちも上手いことやるなんて、無理なことはわかっていた。君を捨てなければならない。そうしなければ僕は生きていけない。音楽なしで生きるなんて、想像することすらできない。

 相変わらず僕は働いて、スタジオで練習して、ライブハウスで演奏して、酒飲んでわけわからなくなって、そんなことを繰り返している。病んでいる時の方がいいライブができる気がする。しかし、いつまで経っても集客はゼロだし、売れる兆しは見えてこない。ライブハウスのスタッフと、数少ない親しい人から褒められるのが、唯一の救いだった。


 ある日のライブ終わり、彼女から連絡が来た。

「マコトさんと別れました」

 メールを読んで、胸がズキっとした。
 どういうことだ? 喜んでいいのか、悔やむべきなのわからなかった。とにかく返事をしなければ。

「とりあえず会って話そう」

 と送って、僕は家路を急いだ。

 家の車を勝手に借りることにした。身体はライブ終わりで汗まみれだった。機材だけを置いて、僕は横浜へと向かった。

 一体何があったのだろう。別れる原因を作ったのは間違いなく僕のはずだ。マコトさんとは轟音祭で何度か対バンしていた。しかし会っても挨拶をする程度で、ちゃんと話したことはない。彼女と僕が会っていることはおそらく知らないと思う。予想もしていなかった急展開に思考が追い付かなかった。

 一時間程車を走らせ、待ち合わせの場所に着いた。静寂に包まれたバスのロータリー。タマはそこに一人で立っていた。

「大丈夫?」

 車に乗り込んできた彼女に声を掛けた。

「ええ」

 彼女の声はいつになく沈んでいた。

「でもあなたがいなかったら、ちょっとやばかったかも」

 返す言葉を見つけられなかった。彼女がゆっくりと近付いてきたので、そのまま抱きしめてみた。それが正しいことなのかはわからなかった。僕は彼女の頭を撫で、彼女は僕の肩に顔を埋めていた。言葉も交わさずに、少し冷えた薄暗い車内で、長い時間そうしていた。

 しばらくして、再び車を走らせた。当ても無くただ目の前の道を進んだ。時間はもう深夜の一時だった。

「なんで別れたの?」

 と僕は思い切って聞いてみた。

「わからないです」

 タマは前を向いたまま答えた。少し沈黙が流れる。

「でも、気付いてたんじゃないですかね。突然言われました。今のままじゃ付き合えないって」

「……そっか」

 気が付くと高速道路を走っていた。料金所でお金を払い、しばらく直進し、サービスエリアが見えてきたので、そこに車を停めた。

「なんか飲み物でも買ってくるよ」

「うちも一緒に行きます」

 二人で人気のない駐車場を歩く。なんとなく手を繋いでみたら、彼女は笑っていた。

「そういうところ、ずるいですよね」

「そうかな?」

 自販機の前に着き、僕はコーヒーを、彼女にはココアを買った。

「あー、美味しい」

 と笑う彼女を見て、守ってあげたいなんて思ったけど、口に出すことはなかった。

 車に戻り、僕らは再び抱き合い、バックシートを倒し、激しく唇を重ねた。これ以外、彼女と向き合う方法がわからなかった。きっと彼女も同じ考えだったと思う。本来ならここで、僕らは付き合うべきなのだろう。しかし僕はそれを選ばなかった。付き合ったら確実にダメになる。彼女と一緒になったら音楽ができなくなる。それはつまり、生きることができなくなるのとイコールだ。

 彼女は僕に何を求めていたのだろうか。僕らが一緒になっても未来はない。きっとそれは運命みたいなもので、僕らにははっきりとわかっていた。その事実を忘れる為に、キスをし続けていたのかもしれない。時間も現実も言葉も忘れて、心に空いてしまった穴を埋めるかのように。

「やっぱり付き合えないよなあ」

 車から降りる直前、彼女は独り言のようにそう呟き、朝焼けの中へと消えていった。

 僕は一人で家路についた。悲しいのかどうかもわからなかった。ただ彼女といる時だけは、幸せみたいなものを感じることができた。一緒にいるだけで心が躍っていた。何もかもどうでもいいと思えてしまうくらい、それは強い気持ちだった。


 結局、僕とタマの関係は変わらなかった。そして彼女は、別れた後もマコトさんと会い続けていた。ある時電話で「昨日何してたの?」と質問したら、「マコトさんと会ってました」と返ってきて驚いた。僕は別れた人とは二度と会わない。そんな付き合い方しかしたことがなかった。友達として付き合い続けるなんて、考えられないことだった。

 しかしタマは、当たり前のように元彼氏と会い、更に身体の関係まで継続していた。それを聞かされた時、僕の胸はひどく痛んだ。それはもう物理的な痛みだった。平然とそんなことを言う彼女が信じられなかったし、別れても会っているマコトさんにも怒りを覚えた。

 でも、これでよかったのかもしれない。もう僕の出る幕はない。はっきり言ってタマは僕の人生にとって邪魔者でしかない。あとは元通り好きにやってくれ。そう思い、彼女との連絡を断ち、以前のようにバンド活動に打ち込み、音楽に没頭しようとした。

 その頃、月一程のペースで轟音祭が開かれていた。毎回十バンドほどが出演し、異様とも言えなくない企画。ヒデさんは毎回僕らのことを誘ってくれ、ヒデさんの頼みならばと、一度も断ることはなかった。そこには当然のようにタマもいて、僕らはごく自然に顔を合わせることになった。彼女はジッピーやコピーバンド、弾き語り、更には芝居のようなことまでもヒデさんや他の若い子たちとやっていた。僕もコピーバンドに混ざってみたり、ヒデさんの後ろでドラムを叩いたり、遊び感覚で酔っ払いながら弾き語りをやったりした。まるで、『大人になりきれない人たちの為に遅れてやってきた文化祭』。そんなふうに思える空間だった。蒲田トップスを中心に様々場所で開催され。そのどれもがヒデさん以外には作り出せない、熱にも似た異質さがあった。

 タマと僕は、時には酔いに任せて二人で楽しく言葉を交わしたり、時には全く知らん顔で避けるように歩いたり、二人でこっそりと抜け出してこっそりとキスをしたり、ステージ上の彼女の魅力を楽しんだり羨んだり、僕らのステージをフロア真ん中で見てもらいながら渾身の演奏をしたり、やっぱり離れなきゃダメなんだと別れを告げ涙してみたり、決して一言では言い表せない、様々なドラマがあった。

 離れようとしてもどうしても離れられない。一緒にはなれないと頭ではわかっているのに、心も身体も、運命のような力みたいなものも、まるで言うことを聞かない。
 ある日、彼女が自らを傷付けるような行為をしていることを知り、同じように苦しんでいることがわかった。マコトさんもきっと苦しみながら関係を続けていた。間にいる彼女は壊れそうになりながらも、なんとか折り合いをつける場所を探していた。

 苦しみしか生み出さない負の関係性。やっぱり僕が身を引くのが一番だと判断した。これ以上意味なく傷付けあってしまえば、下手をすると命までも落としかねない。断ち切る覚悟を決めた。タマがいなくても、僕にはしっかりと、音楽がある。

 そこからの日々は怒涛だった。
 僕はまるで何かに取り憑かれたようにドラムを叩き続けた。相変わらず客は付かないし、金を払ってばかりで、そんな苛立ちからか、メンバーと衝突することもしばしばだった。僕がクボタに殴り掛かったこともあった。ホシくんが突然泣き出したこともあった。お兄ちゃんが僕の態度にキレたこともあった。しかし辞めるという選択肢はなかった。血の涙を流しても、決して諦めることはなかった。
 
 死にもの狂いだった。もうこれしか残されていないという、まさに背水の陣。僕が鬼気迫るようにバンド活動をしていたので、他のメンバーも段々と同じようなテンションになり、着実にバンドは成長していった。僕が望んでいたのはこれだった。この勢いで活動していけば、必ず突き抜けるという確信があった。僕らは何本もライブをし、何度も何度もスタジオに籠り、音を鳴らし続けた。タマと顔を合わせてしまっても、なんとか二人きりにならないように遠ざけ、また音を鳴らした。
 あんなに不器用でサボるのが得意なホシくんも、日に日に上達していった。クボタもお兄ちゃんもそれに続くかのように、新しい曲を作って持ってきた。僕は素直に嬉しかった。そしてまた音を鳴らし、日々は過ぎ去っていった。

 季節が秋になろうとする頃、レコーディングの話が舞い込んできた。轟音祭で出会ったミキという女の子が、文化祭に僕らを呼びたいとのことだった。公開レコーディングという、見世物になってくれればタダで録音してあげます、といった内容。こんなおいしい話はそうそうない。しかも有名な専門学校だ。普通なら何十万も掛かるはずの設備。僕らは考える間もなく即決した。

 練習をレコーディング用に切れ変えながら、ライブを月に三、四本こなし、対バンとはロクに話もせず、ブッキングスタッフの言うことにはあまり聞く耳を持たなかった。今の僕らにはアドバイスなんていらない。ダサい奴らとも絡む必要もない。やっと道筋のようなものが見え出していた。毎日のように顔を合わせ、言葉を交わし、音を鳴らし続け、こんな場所からオサラバする為に、全員が必死になって足掻いていた。


 そして、レコーディング当日がやってきた。

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