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宛名性(わたしがnoteで綴る意味)

「私が伝えたいことを、伝えたいときに」を大切にnoteを使い始めて、そんな初心はそのままに私なりにこのツールと関われているなと思います。でも実は1か月前くらいから、不特定多数の人に公開する(=noteで綴る)ことの意味に疑問符を浮かべるようになっていました。

「誰に読んでもらってもいい内容を選んで書いているつもりだけれど、これって私のことを知らない人が読んで面白いんだろうか。

「読んでくれる人は、私の場合は全く知らない人だけじゃなくて友達も読んでくれていて、友達から『読んだよ』って言ってもらえるのはすごく嬉しい。でもそれって例えばFacebookとか、見てくれる人を選べる場所と変わらないのでは?」

「私は不特定多数の人に向けて発信しているつもりで、でもやっぱりどこかで目に見えてわかる友達っていう読者に宛てて書いているのではないか。そしたらやっぱりnoteで綴る意味って...?

こんなことをぐるぐる考えてしまって 宛名を見せないで綴ること がいやになっていました。


今日、とある研修に参加して講師の大学の先生がお話してくださったご自身の実践から、私は自身の問いへの考えを新たにしました。

その先生は、学生たちに新聞の読者投稿の記事を書く課題を課すそうです。そして実際に応募して掲載されることもあるとお話されていました。なぜその先生がそんな課題を課すかというと、誰が読んでも伝わる話ができるようになってほしいという願いがあるみたいです。言葉選び、話の起承転結など、文字のみなので「話す」以上にわかりやすい文章を考えて書く必要がある。またそれは単なるおしゃべりでなくて、「伝える」ということが大事なんだというようにお話されていました。

LINEといった今どきのチャット形式の短文のおしゃべりは気軽にできていいけれど、それは世界を同じくしている人同士だから少し省いても伝わるのであって、違う文化の人と「話す」、「コミュニケーションをとる」となったときに省いてしまっていたら、伝えたいことも伝わらないよなって、自分にそんな経験があるだけにグサッときました。


そう、私は、 「誰か」に伝えられるようになるため にnoteを始めたんだ。そもそも「伝える」それ自体が本当に難しいことだと感じているから、頑張ろうと思ったんだった。

その伝える宛名の先は、私の思い浮かぶ大切な誰かでも、画面の先の見えない誰かでも、自分自身でも、わたしの心の中にいつもちゃんと「誰か」が居る。私はちゃんと「伝えようとしている」。

それでもやっぱり「伝わる」文章はなかなか書けないな、難しいなと感じるばかりです。とりあえず、伝えようと宛名の先の「誰か」を想うことを大切にしたいです。だから、あなた なりの文脈で受け取ってもらえたらそっちの方が嬉しいなと思います☺️

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