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[ その⑧]「ぼくが出せなかった7通の手紙」~胃がんに罹ったペシェへの手紙~ 7 最後の仕事にとりかかる前のあなたへ

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             *

 7 最後の仕事にとりかかる前のあなたへ
 
 ペシェの再発胃がんに対する治療経過は・・・よくなかった。

 抗がん剤はお酒に似ている?
 酒飲みは、つらさを忘れるために飲む、といいわけをするという。 
 しかし、体はえらい。
 そして、酒は、昔のことを忘れるどころか、逆に思い出させる。
 抗がん剤治療も、いつも病気を思い出させる。
 だが、忘れることには、哲学的思考を学ぶと同じくらいの訓練がいる。
 自然にできることではない。

 あるとき、ぼくは思い切ってペシェにいった、
「そろそろホスピスを考えたらどうかな?」
がんによってペシェの腰痛がひどかったが、主治医の出す鎮痛剤のおかげで、夜眠れないほどではなかった。
しかし、ここ数週間、必要な鎮痛剤の量が目に見えて増えてきていた。
「ホスピスといっても、そこはボッタクリバーみたいなものだけど」
「どういうことだい、それ?」
「その心は・・・サービス料込みで、月110万とるけど、実際の治療費約40万円を引いた70万円分のサービスはない」
「最後まで、先生の毒舌は消えないな」
「たぶん、自分が死ぬまで」
 ペシェとぼくは顔をみあわせて笑った。
 心の底からの笑いだった、と思う。
 
 そして、またぼくは、ペシェへの手紙を書き始めた。

     *

 こんにちは。お元気ですか?
 精神的におちついていますか?

 自分が胃がんであると告げられたときのことを覚えていますか?
 良識のある方は、以前のそのことと、現在のあなたの胃がんが再発したと告げられたこととは、本質的にまったく違うということがおわかりかと思います。

 すべての胃がんは不治の病ではありません。
でも、今回、あなたは本当に不治の病に冒されたのです。
調べればわかることですが、ここ1、2年の間にほぼまちがいなく命はなくなる。
抗癌剤の治療はおこなうべきか?
今の仕事はいつまでできるのか?
残された家族は?
苦痛や死に対するまだみえない恐怖。
そして、自分の人生とはいったいなんだったのか?
 こんなにも、おしよせる課題を生み出す「宣告」を、彼(主治医)はあっさりとすませ、次の外来でまた相談しましょう、と次の患者の診察にうつっていく。
待合室には指に包帯をまいている別の患者。
指を切ったくらいでなんだというんだ。彼らの問題と、自分の問題は同じなのか?
 確かに、指を切っただけで、不治の病に冒されたと同じくらい自分が不幸な人間だと思う人は世の中にけっこう多い。
人により、「不幸」の受け取り方は様々だ。
主治医の言い方がきにいらない?
つらい話を優しく告げられたほうがいいと思う人もいれば、ぶっきらぼうにいわれたほうがいいと思う人もいるだろう。
どんな言い方だとしても事実はひとつ。
うれしいことはありえない。
でも?
それではもっと長く、ぼくの横にすわってくれて話を聞いてくれるのがよかった
のか?
慰めはありえない。
欲しいのは「情報」だ。それも、「死」という情報以外の。
今後どうなっていくのか?
医者も確実にわかっているのは「死」だけという。
できれば事実がウソであって欲しい。

        *

最近、ペシェは自宅にある蘭の鉢の整理しはじめていた。
 手術前からおこなっていた彼の蘭の栽培は、手術後のこの3年近くで大きくひろがり、今や、遠くに住む蘭仲間から交配用に蘭を送りあうようになっていた。
実際、ペシェ自身の交配によって作られた「新種」もできていた。
それをイギリスの公認機関に申請して、ペシェ自身で命名するまでになっていた。
今までつけた蘭の名前は、昔の恋人や、恩人である老人の名前。
ぼくの名前をつけてもいいかとペシェが言ったとき、ぼくが、
「ぼくの名前とか他人の名前でなく自分の名前をつけたらどうだい?」
と言うと、ペシェは答えた。
「自分の名前をつけるのは、それだけ自分の納得できる新種ができたときにとっとくんだ。ぼくはもっと上をめざしている」
 しかし、もう、自分の名前のついた蘭をつくるだけの時間は彼に残されていないようだった。
 ペシェはホスピスへ「再」入院した。

「ヒドラは9頭の蛇の頭をもっていた。ヘラクレスがヒドラを倒すとき、まず殺すことが可能な8つの副頭をきりおとし、新しい頭が生えてこない間に切り口を火で焼き焦がした後、不死の一つの主頭を岩の下に葬り、二度と復活させないようにすることでヒドラを倒した。癌治療も、このヘラクレスによるヒドラ退治にたとえられる。倒すのは容易ではなく、いまだ不可能だ。しかし、いつの日か、ヘラクレスが戦略を練ってヒドラを倒したように、いつかはメスだけでなく、ヘラクレスの剣と戦略に代わる新しい抗がん剤とか遺伝子治療とかで消化器がんを克服していかねばならないだろう」

という、「ヒドラの首」のたとえは、癌細胞にだけあてはまるわけではないのだろう。
単に、自分の状況を分析し、個人の心や状況を整理することだって、やはりヒドラ退治に似た難しさがあるのだ。
 
 ぼくには、自分の書いた手紙が、ペシェの心の中のヒドラ退治に役に立つのか、逆に足をひっぱるのかわからずにいて、結局、長い間、手紙を書いた後もわたそうかわたすまいか迷い続けていた。

      *    *    *

前略 ペシェこと太田誠二様

(1)緩和療法

 苦痛は他の人にわからない。
こんなに苦痛があるのだから、他の人は何もいわなくてもわかるにちがいない。
わからない人は、冷たい人間だけだ。

と考えるのは大間違いだ。
苦痛があっても、いや苦痛があるからこそ、人はそれを、にわか仕込みの詩人にでもあるいは役者にでもなって表現する努力をする必要がある。

(2)他人の死

 自分の死はけっして経験できない。
経験できるのは他人の死だけである。
単純な事実。
 他人の死でさえ、現代では死に場所が家庭から病院にうつり、人びとは、他人の死を身近に体験することが少なくなった。
虚像の死の氾濫。
しかし、現実を認めさえすれば、限られた時間の中でも学ぶことはできる。
 ほとんどの人は、自分の最後の時期に、「自分の死」について考えるのでなく、「他人にとっての自分の死」をまず考える。
時間的余裕があれば、死後のそなえができる。
かならずしも満足のいく完全なそなえでないにしても心配ない。
かぎられた条件の中でもなんとかみんなやっていくものだ。

(3)自分の死

苦痛さえなければ、「自分の死」はこわくないという人は、終末期にある人のなかで少なくなくない。
死に近くない人のほうが、死の恐怖におびえることが多いくらいだ。
 苦痛さえも、それがある一定に閾値を越えると、「自分」がなくなってしまうので、今の「自分」が考えるような苦痛とは違ったものになる。
つまり、耐えられないような苦痛はないともいえる。
 謙虚に考えれば、自分がいないと絶対に困るということは意外に少ない。
「尊厳死」を希望する人には、自分の人生は自分できりひらいてきたという自負が感じられる。
しかし、ほとんどの人は、自分の人生は、自分の外側の力(他人の力だったり、目にみえない大きな力)によってきまってきたと思っている。
死とむきあった際にもそう考える。
「尊厳死」を語る人は、他人よりも自分のことを考える傾向が特に強い人が多く、自分について過大評価している人が多いと感じるのはぼくだけだろうか?

(4)Spiritual Painと実存

 2つの専門用語、(終末医療における)Spiritual Painと(存在論でいう)実存は、おそらく根は同じものかもしれない。
 しかし、あきらかに違うのは、その言葉を用いる時点での、死に対する時間的距離、あるいはそのときまでに生きてきた時間の長さである。
すなわち、Spiritual Painでは、死はまじかにせまり、生きてきた時間は長い。
一方、実存では、死は遠く生きてきた時間はまだわずかである。
Spiritual Painは、その人の死に対する態度が「受容」か「あきらめ」かを、分かつものである。
実存は、結婚や出産といった人生のなかのひとつのエピソードである。
 若い人の癌死が悲劇的なのは、このふたつの区別がつかないことに由来する。

(5)最後の仕事

 こうして、患者は死を迎えるが、死を目前にした、患者の死に対する態度は「受容」か「あきらめ」の二つになる。
「受容」とは、患者が自分の生命の終焉を静かに見守っている状態である。そこには死を受け入れるという積極性がみられ、看取るものにあたたかさをかんじさせ、患者と周囲の者との間に人間的連続性といったものがある。患者の死後、看取ったものに「これでよかったのだ」という爽やかさに似た心の「澄み」を感じさせる。
「あきらめ」とは絶望的な放棄といえる。そこには消極性が感じられ、看取るものに冷たさを感じさせる。患者と看取るものとの間には、すでにとりつくしまがないといった、人間的非連続性を感じさせる。そして患者の死後、看取ったものに「これでよかったのだろうか」というような、何かもやもやした心の「にごり」が残る。
「柏木哲夫」

 「死」は残された者のものであって、あなたのものではありません。
あなたの死後、あなたはいないのですから、それはあなたの周囲の人にとってのドラマです。
 ですから、あなたにとっての「死」とは、あなたの最後の仕事にほかなりません。
 しかし、この仕事も、いままでの仕事と同様、簡単なものではありません。
ただ、いつかは終わりがくるという点でも、いままでの仕事同様といえます。

 今まで、いろいろな経験をし、仕事をやってきたあなたには、意識するしないにかかわらず、困難にあったときのあなた独特のやり方があったはずです。
真正面からぶつかるのか、にげまわるのか、まじめにやるのか、ふざけながらやるのか・・・。
同じあなたという人がやる仕事ですから、今回の仕事も、いままでと同じような手法がとられると思うしそれが一番だと思います。
 医療側の理想は、あなたの仕事をアシスタントすることにあります。
働きすぎの人に休憩をうながしたり、仕事のやり方がよくわからないときに教えたり、なぜか身がはいらなくて仕事がこなせないときにお手伝いしたりはげましたり、時には怒ったり。
 結局はあなたの仕事なのです。
さぼろうが、まじめにやろうが、ふざけようが、あなたにふりか
かってくる仕事です。
さけて他人にまかせることはできません。
痛みと不安はあなたのものです。
 この仕事は、好むと好まざるにかかわらず、すべての人に課せられる仕事です。
でも、みんなが、「上手」にやる必要もないし、できるわけもありません。
どういう仕事ぶりでも、「どうせ死ぬ」のですから。
「澄んだ」「にごった」「美しい」「みにくい」といった形容詞は修飾語にすぎません。
でも、あなたは、いずれは死ぬのに今までの人生でいろいろ仕事をやってきたじゃないですか。
結局、この最後の仕事に対する態度は、今までのあなたの仕事に対する取り組み方と同じようになるでしょうし、それでよいのです。
自暴自棄になって、世の中に未練たっぷりのまま死んでいくのも、確かにひとつの方法です。

(6)回想するということ

 キリスト教に、「悔い改める」という言葉がある。
 日本にはなじみのない発想であり、キリスト教特異のもので、日本人には役に立たない発想なのであろうか?
たとえば、キリスト教徒にしても、死ぬ間際に、人は、自分のいままでの人生をまったく否定するような形で悔い改めることができるのだろうか?
 思うに、悔い改めるということは、過去の自分の人生を振り返り、それに対し解釈をし、自分で自分の評論をすることなのではないかと思う。
その評論は、後悔であったり称賛であったり、なんでもよい。ルールはない。
 ただ、この過去の自分に対し解釈をほどこすという行為自体が、人にとってなんらかの慰め、癒しになるのではないか?
 もし、そういうことなら、「悔い改める」ということは、日本でも通用する。
 一般に、解釈や評論は、非生産的な行為と思われる。
とくに、若い人が、単に解釈や評論にとどまって前に進まないというのはあまりほめられたものではないだろう。
彼らなら、むしろ、行動すべきだ。解釈や評論でなく、対象を解析し作戦を考えるべきだ。頭の中だけで、自分を変えるのでなく、頭がのった自分そのものを変えていくべきだ。
 しかし、年をとっていくと(極端な、高齢者、あるいは癌の末期患者を考えてみればわかりやすいかもしれない)その時間はないし、その必要もない。
逆に彼らがいくらそうしようとしても不可能なのだ。
 過去の人生に対してどう考えるか?
いいことをみるか、悪かったことやできなかったことばかりみて後悔するか?
実はその内容だけでなく、過去の人生をゆっくりふりかえるという行為そのものが、癒しとなるのではないか?

(7)未知なるもの

 (自分の)死は、未知なるもの、目に見ることができないもの、という意味で、がん細胞と同じである。
 と書き始めると、目の前の現実からはなれていってしまいそうです。
 死が目に見えないのは、そこで自分の意識・知覚が消えるから。
がん細胞がみえないのは、あまりに小さすぎるから。
両者の違いは大きい。
 でも、見えないものが、不安をかきたてる、という意味では似てないこともない。
 見えないものに対して、どう向かい合うかが、人生の中ではいつも一番やっかいな問題で、最後の仕事もやはり、この問題が問われているようです。

 小説家でも科学者でも芸術家でもない、ごく普通の方であっても、最後をむかえようとするときに、大なり小なり、(表現は適当かわかりませんが)「ロマンチック」な心(それを、ある人は「人は物語をもつ」と表現したりするのでしょうが)をもつことに、ある感動をおぼえます。
 たとえば、ある人は、姪の結婚式に参加できないことを察し、お見舞いにきた姪の前で、ベッドにきちっと座って、「高砂」をうたってあげました。
そういうことを、なんの、恥ずかしさやきどりなどなく、人はできるものなのです。
 しばしば、娘が、状態が悪くて結婚式に出席できない父親の病室に、ウエディングドレスをきて訪室して、そのまま披露宴にいく、というようなことが病院ではあります。
これは、まわりの人、娘さんのためであり、病人本人である父親のためではないかもしれない。
しかし、そういう娘の希望を、たとえ病室で動けなくてもかなえてやり、娘が期待するような役割を演じようとするのは、その父親の思いであり、やさしさであり、あるロマンチシズムをもっているからこそできることだと思います。

最後に1冊の本を紹介しましょう。
「あなたともっと話したかった」(柏木哲夫)。

「世界の中心で愛をさけぶ」など、人が不死の病にかかったときの感動的なエピソードが満載。
出版当時の反響はどうだったのかしら?

ひとりの人が、身近な人の死に接する機会は一生に少なく、はじめての経験でみな暗中模索状態になります。
そういうときに、この本はきっと役にたちます。

*    *   *           

最初から答えがあるものが「問い」にならないように、絶対答えのないものも「問い」にならない。
不安にねざした「問い」は答えがないことが多い。
代表は、死後についての問いだ。
死んだあとはどうなるのか?
そんなことはいくら考えても答えがでるはずがない。
人生を無駄にしたくないなら、自分の人生に意味にない問いはスパットきって、捨てる精神的勇気をもつべきだ。

しかし、無駄にする人生が、もう尽きるとしたら?

病気で体がつらいと、集中力がなくなり、テレビやラジオを見たり聞いたりすることさえも億劫になる。
 新聞や本や雑誌の活字を読めるようになるのは、かなり元気にならないととても無理なことだ。
 それでも、退院が近くなった元気を取り戻してきた患者さんの枕元(あるいは、ベッドの足元にあるテーブル上)にある様々な本はその人のしられざる一面をちらりと垣間見せてくれて興味深い。
多いのは、趣味の本。例えばつりや旅行や園芸の本。
もちろん小説も。
けっこう多いのは、マンガ(特に男性)。学者先生は専門書がおいてあったりもする。一方、パズルは根強い人気本のひとつだ。
 回復して、これからもう病院にくる必要がたぶんない患者さんのテーブルは、平静な気持ちでこちらも見ていられる。
 一方、中には、少し回復したが、がんでもう余命が数ヶ月しかないことはわれわれにはわかっている人が、クロスワードパズルや「ナルト」のマンガを読んでばかりいると少しこちらも落ち着かない気持ちになる。
でもそれはおせっかいというものだ。
死が近いからといって、難しい本を読んだり、特別な文章をしたためたり、ということは実は一般的なことではない。
 その意味で、やはり死は特別な顔をせずにやってくる、という方があたっていると思う。
 
揺れた気持ちを落ち着かせる一番いい方法は、深く考えて気持ちを切り替えるよう自分自身を納得させることではなく、他に夢中になるものを与えて気をそらすことなのだろう。

いろいろなことを、ぼくはペシェの闘病中、彼の「最後の仕事」の最中に考えた。

しかし結局、この最後の手紙も彼にわたすことなく終わってしまった。

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