見出し画像

[ その④]「ぼくが出せなかった7通の手紙」~胃がんに罹ったペシェへの手紙~ 3 手術後数日たったあなたへ

この作品の、Amazonリンク: 
 ぼくが出せなかった7通の手紙 | こじ こうじ |本 | 通販 | Amazon


 その他の、こじこうじの作品へのリンクは
    太陽の秘密 | こじ こうじ |本 | 通販 | Amazon
    アベマリア | こじ こうじ |本 | 通販 | Amazon

   Youtubeに紙芝居絵本「ものほしざお」があります
    https://youtu.be/iGRwUov3O74?si=bH2ZszSCB6b6fquq 

             *

3 手術後数日たったあなたへ
 
 ペシェの手術経過は順調だった。
 事前に説明にあった「クリニカルパス」とほぼ同じようにすすんでいった。
 手術後、3日目にぼくが見舞いにいくと、つっぱるお腹の傷が気になりはしたが、点滴台を杖がわりに、ひとりで病棟内を散歩できるようになっていた。
 食事もはじまり、部屋も個室から大部屋に戻っていた。
 手術前は、手術前日の入院だったし、いろいろあわただしく準備におわれ、また緊張で周囲の様子を観察する余裕はなかったが、手術後にはいろいろ周囲を観察する余裕がでてきたようだった。
「少し、傷がつっぱる以外は、問題ないよ。むしろ何もすることがなく毎日が退屈に思えるくらい。テレビや雑誌も、そう1日中観ていられるわけではない。かといって、まだパソコンをあけるまでの気力まではないけどね」
「そうか。順調だね。頭は退屈で自分は何もしてないと感じているかもしれないが、体の方は頭と無関係に、一生懸命、手術の傷をなおすために働いているからね。これでいいんだ」
と、ぼくはペシェに説明した。
「しかし、看護師や医者の仕事って大変だね。先生、長年医者をやってきているから、いろいろウラのこと知っているんじゃあない?」
「ウラも表もないさ」
ぼくは、個人の経験と考えにもとづく少し偏ったものだが、と断ってから、ペシェにこんな話をした。
 
「医師と看護師、やっている仕事の内容や組織は違えども、長い間医療現場で働いてその道に通じてくると、共通の見方や考えができるようになってくるものだ。
でも、医者と看護師との間には、一般の人が考えるよりずっと大きな溝がある。
その原因は単純ではない。
患者やその家族の多くの不安や不平不満は医者に直接伝わるのでなく、まず看護師がその訴えを聞く。
(事務仕事をふくめ)あまりにも多種多様な業務を行わねばならない日本の医者は、外来でも病棟でも十分な時間が与えられない。
患者やその家族は、なかなかつかまらない医者のかわりに、しばしば罪のない看護師にあたったり怒りちらしたりする。
患者やその家族は、看護師は医者の部下あるいは代理とおもっているのだけれども、日本では看護師は医者の部下ではないんだ。看護師の上司は看護師長であって医者ではない(これがいいことかどうかはともかく事実としてそうだ)。だが、一般の人はそうはなかなか思わない。
聞き役にまわる看護師からすれば、医者の不手際、あるいは説明不足のせいで、自分たちがいわれもなく責められていると感じても不思議はない。
実は、その原因のうちの少なからず多くは、日本の医療制度の構造的な問題にある。
たとえば、今の医療で、看護師のできる医療行為の数があまりにも制限されていて、医者でなくてはできないとされている医療行為が多すぎること。だから、看護師が「いいこと」を思いついても自分ではできないので医者にやってもらうしかない。あるいは医者に「命令」してさせるしかない。
他人に言うだけで自分では動かないというのは決してほめられたものではないが、「定められた」医療行為の制限がある以上、それこそが「正しい」やり方ということになる。
これが高じて、何人かの看護師は患者の立場にたつという名目で、医者や医療を凶弾する先頭にたつものもいる。
このような社会的な問題だけでなく、自然のものである病気に対する医療そのものの限界とか、それを理解せず現実ばなれした期待をいだく社会や患者側の問題とか、とかく医療については様々な考えや偏見や思いが複雑にからみあっているんだ。
 
看護師は若いうちだけ勤めてやめていく人が多い。だから、医者に比べて医療経験が少なく、ときに中途半端な誤った知識をもちそれに自ら縛られている場合も多い。
若い看護師は、人の死にたちあう経験が他の人より多い、ということを除けばやはり若い女性なのだ。なんといっても、一番の興味・関心は、「彼氏」のことだ。
でも話はこれだけで終わる単純なものではない。
人の死にたちあう経験が他の人より多い、ということは、たったそれだけのことなのだが、それでもそれは一般人からは想像できない大変な経験なのだ。
おそらく、看護師という仕事に(たとえ短い期間であっても)就いたということで、彼女たちは。自分の恋人であろうが夫であろうが、彼ら「一般人」とは違う見方を手に入れる。
それはいいことばかりではなく、時に、身近な恋人や夫との間で、話がいろいろかみあわない、微妙なずれを生じさせることがある。そして、この微妙なずれが、やがて広がって、恋人関係や夫婦関係をおびやかすケースだってあるのだ。
さらに、彼女たちの給料は、平均の男性よりも大抵多い。
(もっとも、それは夜勤手当という変則的な厳しい就労環境も影響しているのだが)
そして時代がいくら変わっても、自分より給料のいい恋人や妻とうまくつき合える、よくできた男性というのはやはり多くないというのが現実なのだ。
さらに、看護師という仕事は、その組織にのみこまれて、序々に軍隊の兵隊のようになって来がちだ。看護師の組織は、時には軍隊のような、少し息がつまるというか硬直しているというか、かなり融通のきかない性格がある。
ベンツに乗って若いつばめを囲っているかっこいい看護師長、というのは現実にはそうそういないのである。
軍隊のような集団としての統制が大事にされる看護師と違って、医者は(制限が山ほどある中ではあるが)比較的自由に発想し、どちらかというと一人で行動する。
医者は、会社員というより芸術家や職人のような自由さを大切にするので、官僚化した年をとった看護師とは話しがあわない。
官僚化した世界で権力闘争をおこなうという医師像は、ごく一部の特別な嗜好をもった医師たちの狭い世界(たとえば大学病院のような)にしかみられない。
もちろん、いくら自由人といっても、医者は教員や僧侶のように先生と呼ばれ、警察や裁判官のように(治療のための)ルールを患者に守らせ評価するという面も強いので、権威者の性格もあわせもつ複雑な人種となっているのだが」
 
 4人部屋の仲間は、みな、手術後の患者というわけでなく、抗がん剤の治療のための短期の入院で入れ替わったり、病気が長引いてもう1ヶ月以上入院していたり、という人もいた。
部屋の中には、「同じかまのめしを食べている」といった仲間意識のようなものもうまれていた。
患者同士が、お互いに、お互いの不安を聞きあい、経験や知識を提供しあった。
「ペシェさんの部屋は、いいメンバーがそろったから、いい雰囲気だわね。なかには、大きな声でどなったり、人の悪口をいったり、いびきが大きかったり、相手に不吉なことばかりいったりする人もいるのよ。4人のうち、ひとりでも、そういう人がいると、もうその部屋はきびしいわね」
ペシェと親しくなった看護師さんがペシェにそう教えてくれた。
ペシェのとなりのベッドにいる、もう1ヶ月以上入院しているという人は、石をみがくのが趣味だった。
入院前からみがいていたという、丸い石を彼はいつも足元のベッドの上においていた。
宝石とかきれいな石というわけではない。
何の変哲のない石を、根気強く、丸くみがくのだ。
「何の価値もないものに価値を与えるってすごいと思わないか?」
とペシェはぼくに言った。
もう一人は、ペシェと同じく、胃の手術あとで、ペシェの2日前に手術をしていた。
その人の話や経過は、ペシェにとって、明日の自分の姿をみせてくれるので、とても勉強になるということだった。
彼は、テーブルの上で開いたままで、つかわれてないペシェのパソコンに入力してみせた。
「こうやって、『面白い』を変換してみると・・・」
パソコン上の、文書ソフトには、「面白医」と変換されていた。
 たわいもないことに、ペシェと彼は二人で大笑いした。
 それにしても、みないろいろなことを考えるものだ。
 もうひとつのベッドは、一晩ごとに人が退院しては入院して入れ替わっていたが、その中の一人は、すべてジョーカーの札のトランプをもっていた。
 ジョーカーを集めるのが趣味で、トランプを買うと、ジョーカー以外のカードは捨ててしまうのだという。
 しかし、カードがすべてジョーカーのトランプで、どうやったらゲームができるのだろう?
「でも、それはさしずめ、ぼくが蘭を育てているのと同じようなものだ。なにかのために、ではなく、ただ綺麗だったり好きだったりするから集めたいだけなんだ」
「なんか、ペシェも哲学的なことをいうようになったじゃあないか」
「そうか?ただ、暇なだけさ」
 ぼくがみたところ、ペシェのベッドのサイドテーブルには、蘭はおろか、お見舞いの花束もなかった。
 独り身のペシェにはしかたがないことではあった。
(今度、ぼくが買ってこようか)
 そう思いながら、ぼくは病室をでた。
 
ぼくは家に帰ると手紙を書きはじめた。
お見舞いに行っても、ばか話ばかりしていて、肝心なことをペシェに言えなかったような気がしたからだ。
 
        *
 
 手術は無事すみ、合併症もなく、順調に回復しているようですね。
 よかったですね。
 でも、胃は小さくなり、胃の出口のバルブ(幽門、といいます)がなくなったため、急いで沢山のごはんを食べると苦しくなるのは、しかたがないことです。気をつけて食事をとってください。
 胃が手術で小さくなった人の食事方法のポイントは単純です。
 食事の種類は制限なし。少量を、時間をかけて、よくかんで食べる。失った胃で消化していた分を、口の消化で補うのです。
 だが、言うは易し、行うは難しです。
 ここでも、最終的には、自分で、自分にあった食べ方を見つけていくしかありません。他人は、アドヴァイスはできても、自分のかわりに食べてくれることまではできませんからね。
 
      *
 
 しかし、この3通目のぼくがペシェにあてた次のような手紙も、結局ペシェの手元にわたらなかった。
 
 ペシェは手術後、10日目に無事退院した。
その間、自分の仕事が忙しくて、この後、ぼくは見舞いに行く時間がとれなかったのだ。
 退院後、ペシェは、半年に一度外来通院して、定期的にCTと血液検査で再発の有無をチエックしていく予定だった。
「5年間、通っていただきます。手術後5年間再発がなければ、今回の胃がんはなおったといいきれます」
 主治医は、そうお決まりの言葉をペシェに伝えたという。
 
 
       *      *     *
 
前略 ペシェこと太田誠二様
 
手術というのは、手術後数日の肉体的な苦痛がすぎれば、むしろ、精神的な苦痛との長い戦いなのだ、という事実は、手術をうけてみるまではなかなかわからなかったと思います。
 毎日、なにもすることなく、ただ点滴をしているだけの毎日。
それに、退屈をおぼえたり、場合によっては、いろいろなことが頭を騒がせ(自分自身の、さまざまな、本当の分身たちが、また復活し始めたのです!)、それで神経がまいってしまう人もなかにはいるかもしれません。
 なにもしてないようでも、あなたの体の中では、着々と、傷ついた体の修復がおこなわれているから心配する必要はないんですけどね。
 ここで、ふたつのことをあなたは体験できたわけです。
 ひとつは、やはり、人の体と心は、解離しているということ。
 もうひとつは、手術にせよなんにせよ、病気の治療とは、車の修理のように、部品を交換したりしておわるわけではなく、むしろ農業のような自然を相手にするペースですすんでいくということ。
 
 いろいろ考えたのですが、これから、簡単な外科の歴史についてのお話をしようと思います。
 再発しない方法、とか、がんと戦う、とかがんと生きる、とかいう本よりも、気持ちが少しおちつくかもしれません。
 退屈しのぎに、ぴったりと思うのですが、いかがでしょう?
 
         *
 
 世界で最初の胃がんの手術の成功例は、1881年(明治14年)、オーストリア、ウイーン大学のビルロートによるものといわれています。
 このビルロートという名前は、胃の手術後の吻合法の名前として、今も残っています。
 さて、日本では、おくれること18年、1899年(明治32年)に胃がんに対する胃切除術がはじめて報告されています。今からわずか100年ほど前のことです。
 明治初期、医学の世界にも明治維新の改革がおき、1871年(明治4年)最初のドイツ人教師ホッフマンが着任後、1905年(明治38年)最後のドイツ人外科医スクリバが死ぬまで、日本の医学はドイツから外国人医師をまねくことで発展してきました。
 日本において胃がんに対する胃切除術がはじめて報告された1899年はそのスクリバが死ぬ6年前のことです。
スクリバと同時期に働いていた、最後のドイツ人内科医ベルツの「ベルツの日記」という本が岩波文庫から出ていますので、この頃の時代の雰囲気はその本で多少わかります。
このベルツ・スクリバの時代以降、やっと、日本人だけの手によって医学の発展が可能になってきました。
 このベルツ・スクリバの時代以降、医学の技術や知識における、世界での実用化と日本での実用化の『時間差』は序々に縮まり、終戦(1945年)以降現在にいたる、約50年間では、ほとんど時間差はなくなっています。
その例として、抗生剤のペニシリンですが、太平洋戦争のはじまる1941年にアメリカで開発されたあと、日本には終戦後の1945年にはいってきています。
現在では、海外と日本の時間差はほとんどないといっていいでしょう。
新しい発見をした国はやや早いのは当然ですし、日本の移植医療の遅れは、技術的な問題ではなく『風習』の問題といえますから。
 もう一つつけくわえれば、胃がん治療に関していえば、日本が世界一です。
これは、欧米人に胃がんはすくなく、日本人に多いという症例数がもっとも影響しています。
実際、外科医が手術を覚えていく上で、日本では、胃がんの手術ができるというのが、ひとつの目標、最低ラインあるいは標準技術とされます。
外国の外科医は、ほとんど胃切除をみたことがないという人が多いのです。
一方、日本では、外科を標榜している総合病院では、どこでも、同じように、標準的な手術・治療がおこなわれます。日本の外科医は胃を切れることをもって外科医と名乗っているといって過言ではありません。
抗がん剤が胃がんに効かないといっても、胃がんに対して、世界で一番いろいろな薬剤の種類をもち、投与法の工夫や副作用対策がすすんでいるのも日本です。
なにより、検診で胃透視をおこない、かなりの胃がんを早期の段階でみつけ、治している国は日本以外ありません。
 もちろん、日本の胃がん治療が世界一といったところで、それが十分かといえばそういうことはありません。
現在でも年間10万人くらいの人が胃癌にかかり、そのうち5万人くらいが命をおとしています。
それだけ胃がんというのはやっかいな病気ということになります。
そして、いままでと同様、今後も世界で胃がん治療をリードしていくのは日本であることは間違いありません。
 
 さて、それでは、今から100年前、日本において胃がんに対する胃切除術がはじめて報告された頃、日本の外科手術の様子はどんなものだったのでしょう?なお、1899年は、第1回の日本外科学会がひらかれた年でもあります。
 胃切除術が最高の手術とされ、主な手術は、ヘルニア、急性虫垂炎、腎臓摘出。乳がんの手術ではリンパ節郭清もおこなわれることもあったようです。
なお、このころ、急性虫垂炎の治療の主流はまだ手術ではなく、手術がさかんになるのは、1920年代になってからです。
麻酔はクロロホルムとエーテルの吸入麻酔。この二つは、現在では動物実験で動物を眠らせるのにつかわれるだけです。
 胃がんの手術死亡率はこの頃(1905年)30%くらい。この傾向は1939年には20~30%と、大きな変化はなかったのですが、1989年の報告では5%以下と大きな進歩がみられてます。
 この、後半50年で、胃がんの手術死亡は激減しているのです。
 いったい、なにがおこったのでしょう?
 
1 輸血
 ABO式血液型は1900年ごろにみいだされているが、輸血のための血液銀行がはじまるのは1950年以降。
 
2 高カロリー輸液
 生理食塩水やブドウ糖液は1900年までに使われていたが、長期の栄養補給がおこなえる完全静脈栄養(高カロリー輸液)は1970年代からやっとはじまったものです。それ以前、縫合不全が一度おこると、なおるのは大変だったという話は、ぼくも先輩の医師から聞いたことがあります。
 
3 呼吸管理
 人工呼吸は、1876年にはじめて報告されているが、今のように呼吸抵抗の少ない実用的な呼吸器が出現したのは1970年代。
 
4 抗生剤
 最初の抗生剤ペニシリンが発見されたのは、やっと1941年のこと。
 
 その他、血液ガス(体内酸素量)の測定、インスリンの開発、スワンガンツカテーテル、等々、現在当たり前のように使われているもののほとんどが、戦後の50年間に開発されています。 
 実は、今のような、安全な手術が可能になってきたのは、1970年代から1980年代で、そんなに昔の話ではないようです。
言い方を変えれば、30年前とか40年前に手術をしたという人がいれば、その人はかなり危険な経験をくぐってきた方といえるのかもしれません。
わたし自身も、今当然のように病院でやっているいろいろなことが、普及してまだここ20~30年間ということに驚かされ考えさせられます。
 
 胃がんの手術死亡率が1989年の報告では5%以下という数字は、2000年をすぎた現在もそうかわりないでしょう。
最近では、手術死亡率のこれ以上の改善には期待ができず、腹腔鏡手術のような痛みをより少なくする手術に興味がうつっています。
 しかし残念なことに、手術による、胃がんの根治率(5年生存率)も、ここ20年、かわりがないと思われます。
焦点はむしろ、早期発見にうつっています。
 早期発見も、腹腔鏡手術のような痛みをより少なくする手術も共に大切なことです。
しかし、逆にいえば、胃がんをなおすということに関しては、現在、「ある限界につきあたっている」といえる状態にあると、残念ながら考えられます。
 
 がんというのは基本的に老人病で、つきつめれば老衰のような自然の摂理に近いものだ、という人が時にいます。
確かに、がんで入院してくる人の多くは、60歳代、70歳代の方です。
しかし一方、まれではあるが、もっと若くしてがんになる方が確かに一部いて、皮肉なことに、自然の摂理からみればこういう方こそ治さなければならないのにかかわらず、こういう方こそ救うのが難しいという現実があることを、そういう議論は忘れてはいないでしょうか?
 
 もうひとつ、胃がんの予防について面白い話題があります。
 胃がんは、ヘリコバクターピロリ菌に感染している胃から発生するということです(ヘリコバクターピロリ菌に感染している胃からすべて胃がんが発生するわけではありませんが)。
 ヘリコバクターピロリ菌には、乳児期に、母親や父親の「口かみ」から食事を与えることによって感染するといわれています。乳児期の胃は、胃酸が少なく、ピロリ菌が感染してしまう。その後、小児、大人になって胃に胃酸がふえてきても、ピロリ菌は「胃酸のある環境でも生きていけるように」適応して、胃に生涯住み続ける。言い方を変えると、小児以降、大人で、新たにピロリ感染がおこることはない、ということです(ですから、ピロリ除菌をすると、ピロリ菌には二度と感染しない)。
 これは、とても重要な現象をひきおこしています。
 日本人の、乳児期の食習慣がかわるにつれ(「口かみ」で食事を柔らかくするのでなく、あらかじめ柔らかくしてある離乳食を与えるようになったのです)、日本人の若い世代の胃のピロリ菌感染率は減少しています。今の70歳代は70%くらい、30歳代は30%くらい、10歳未満は10%をきるくらいです。そして、胃のピロリ菌の感染率の減少率と比例して、胃がんの発生率は減少しているのです。
 50年後、日本人において、胃がんは、まれな病気になるといわれています。
 手術療法や抗がん剤では、完全に制圧できずにいる胃がんが、こんな思わぬことで制圧されるというのは、面白いと思いませんか?
 とはいえ、今、胃がんにかかってしまったあなたや、50年後の運の悪い方にとっては、治療法に限界があるということには、かわりありませんが。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?