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【書評】渡辺靖『リバタリアニズム』--個人はそこまで強いのかな

 もちろん生きるのは辛い。どうして辛いのか。全てが自分のせいだと考えると人は病んでしまう。そこで導入されるのが、自分たちは他の誰かのせいでこんな目にあっているのだ、という理由付けだ。
 それはある程度まで正しいのかもしれない。しかしながら、そうした被害にあっている自分たち、という説明を全ての人が導入したらどうなるか。社会が極端に分極化し、悪いのは相手のせいだと全員が主張するようになる。
 すると、自分と意見が合わない、あるいは社会的な立場が違う人々を屈服させるまで良い世の中は到来しない、という結論になるだろう。分断は結局、暴力を呼び込み、ただでさえ辛いのに、社会の辛さの総量は結局増えてしまう。
 ならばどうすればいいのか。リバタリアンと呼ばれる人々は強い個人を持ってくる。女性とか男性とか黒人とか白人といった集団で人を考えることをリバタリアンはしない。ただ完結した強靭な自己があり、そうした人々が友愛に基いて自発的に協力し取引する。そうやって横のつながりで徐々に秩序ができてくれば、中央政府の強力な介入や指導も必要ないだろう。
 全てを集団で考える思考法は極端だが、全てを個人で考える思考法もまた極端だ。それでも、アメリカの歴史を読んでいると、こうしたリバタリアニズムと呼ばれる考え方がある程度、普及する土壌はあるのだろうなと思わされる。
 特に開拓地では、土地は広いが助けてくれる人はほとんどいない。極端な話、家を誰かに略奪されても警察など、すぐに助けてくれる団体など存在しない。だから何でも自分であるいは近所の自分たちでやるしか仕方がない、
 そういった歴史的経験がある人々と、日本のようにかなり昔からきちんと共同体がある場所で考え方が違うのは当たり前である。
 リバタリアンにとって、保守派もリベラル派も、大きな政府を求める点で同じに見える、という指摘も驚いた。保守派は軍備拡張に積極的で、リベラル派は公共事業に積極的である。それらは二つとも、政府が何とかしてくれるだろう、という考えに基づいている。しかしアメリカの歴史においては、普通の人々こそ多くのことを成し遂げてきたのではないか。
 アメリカ社会では、政治のやり方とか企業の運営の仕方など、ことごとく日本とは違う気がする。そうした、違いの根本にリバタリアニズムのような、強い個人を軸にした考え方があるように思われて仕方がない。
 もちろん僕はリバタリアンになれるほど心が強くない。個人として独立もしていない。調子がいい時はいいけど、悪い時には誰かに頼りたい。けれども、こうしたリバタリアンのような考え方に魅力があることはよくわかる。

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