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メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』--フランケンシュタインって怪物じゃなくて博士の名字かよ

 まずはすごくベタに、フランケンシュタインは怪物の名前ではない、ということに驚く。いやそのことは読む前から知っていたんだけど、実際に読むとやっぱりそうなんだ、と変な感慨がある。
 で、主人公はフランケンシュタイン博士で、彼が生き物の死体やなんかから作り出すのがフランケンシュタインの怪物だ。博士は怪物を作るものの、そのあまりの醜さに引きまくって、世話を放棄してしまう。自分で作ったのにね。
 怪物は何の知恵もないまま世間をうろつき、工夫に工夫を重ねてようやく生き残る。というだけでなく、人間の会話を盗み聞きして言語を習得し、しかもミルトンの『失楽園』などを読んで知恵もつける。
 繊細で傷つきやすい彼は、見た目がどうであれ中身が大事、ということで人間に愛してもらえるのでは、と期待するが、どこ行っても完全に拒絶される。そして逆ギレ。
 結局、悪いのはフランケンシュタイン博士だ、と思い込み、彼に最大の苦痛を与えるために、彼の家族や恋人など、ありとあらゆる人を殺していく。それに対してフランケンシュタイン博士はなすすべがない。
 消え失せろ、悪魔よ、なんて強気なことを言っているけど、特に格闘するわけでもなく、腕力の上ではやられ放題だ。そして悪が成敗される、というようなシンプルな終わり方もせず、なんとなくグズグズに解決する。
 これを読んでまず気になったのが、博士が全く怪物と戦わないことだ。いや、戦うんだけど、あまりに弱すぎる。ハリウッド映画だったら、勝ったり負けたりの末、最後は博士の大勝利、ということになるのだろうが、全然そんな展開にはならない。だから何ともスカッとしない。
 しかも怪物も博士も心が弱く、クヨクヨと自己弁護の長台詞を語る。ムチャクチャな行動をしているにもかかわらず、それへの解釈の部分が長いのも、アメリカ文学とはどえらく違う。
 とはいえ、先駆的な古典であることに変わりはない。たとえばこれを、人間とロボットの境界線はどこだ、みたいな話として読んでもいいし、あるいは奴隷制のような、人間扱いされない人々の苦悩の寓話として解釈してもいいだろう。
 むしろ怪物を内なる力と読み替えて、フロイトよりだいぶ早く、無意識をシェリーは発見したと考えてもいい。そうすれば、自分に都合の悪い感情を押し込めると必ず暴発する、というなかなか納得できる結論になる。
 とにかく、こんなに古い作品なのに、次はどうなるのどうなるのと結局、最後まで読まされてしまった。だからやっぱりすごい作品なんだと思う。

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